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かつて日本の島根県出雲市と佐田町(現:出雲市)を結んでいた一畑電気鉄道の鉄道路線 ウィキペディアから
立久恵線(たちくえせん)は、かつて出雲市の出雲市駅と島根県簸川郡佐田町(現:出雲市)にあった出雲須佐駅との間を神戸川(かんどがわ)沿いに結んでいた一畑電気鉄道の鉄道路線である。
当初は陰陽連絡鉄道を目指して、大社宮島鉄道(つまり出雲大社〔出雲市〕と厳島神社〔廿日市市〕を結ぶという意味を転じて島根県と広島県を結ぶという意味を込めた)という壮大な社名をつけ、出雲 - 三次間91.7kmに鉄道を敷設する計画であった。三次を終点としたのは計画当時すでに芸備鉄道(現・芸備線)が広島から三次まで開通していたためで、それと結ぼうということである。出雲の富豪高橋隆一[2] が総代となり1919年1月に出願したものだが長く認可されなかった。これは地方鉄道にしては長大であることが要因であったが、当時の新聞によると(当時第2党の)憲政派の鉄道であるため放置されたとしていた。そこで地元の人たちは若槻礼次郎に運動した。若槻は仙石貢鉄道大臣に依頼するとともに折衝に慣れた根津嘉一郎を創立委員に据えようやく1924年になり免許状が下付された。
翌年、資本金800万円で大社宮島鉄道株式会社を設立し本社は東京有楽町に置いた。有望な投資先として東洋経済に取り上げられ、大株主は高橋隆一(簸上鉄道取締役)、野口遵(日窒コンツェルン 広島)、中村峯夫(芸備鉄道取締役)[3]、根津嘉一郎(昭和3年9月末)らであった[4]。
ところが昭和恐慌の影響と鉄道省による木次線の建設により陰陽連絡鉄道が完成されたことが原因で出雲今市(現:出雲市) - 出雲須佐間18.7kmを開業させたにとどまり、出雲須佐以南は測量を行っただけで着工に至らず、出雲須佐 - 三次間73.0kmの免許は失効のやむなきに至った。このため、社名を出雲鉄道に改称した。なお根津は免許失効直前の1937年に社長を退任している。
戦後は出雲平野に鉄道路線を展開している一畑電気鉄道に吸収されるが、社名は「一畑電気鉄道」ながら電化されることはなく、同社唯一の非電化路線として営業を続けていた。しかし、過疎化やモータリゼーションの進展で経営状況は芳しくなく、1964年(昭和39年)に島根県東部を襲った梅雨末期の集中豪雨(昭和39年7月山陰北陸豪雨)で路盤が流失したことを契機に営業は中止され、そのまま廃線へと追い込まれた[5]。過疎化やモータリゼーションの進展が原因で復旧する必要がないと判断されるほど経営状態は悪化していたことがうかがえる。
1956年9月1日当時
出雲市(旧:出雲今市)* - 古志町 - 馬木不動前(まきふどうまえ) - 朝山* - 桜 - 所原* - 殿森 - 立久恵峡 - 乙立* - 向名(むかいみょう) - 出雲須佐*
鉄道遺構としては廃線後に旧桜駅の待合室が地元住民の手により移設され、出雲市内のバス停(須谷医院前)の待合室として使用されている[5]。
年度 | 乗客(人) | 貨物量(トン) | 営業収入(円) | 営業費(円) | 益金(円) | その他益金(円) | その他損金(円) | 支払利子(円) | 政府補助金(円) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1932 | 48,344 | 3,642 | 20,734 | 10,044 | 10,690 | ||||
1933 | 184,172 | 10,920 | 57,082 | 38,545 | 18,537 | 雑損5,965 | 32,450 | ||
1934 | 160,337 | 17,873 | 62,243 | 52,341 | 9,902 | 雑損61,649 | 75,441 | ||
1935 | 161,733 | 18,075 | 72,012 | 39,706 | 32,306 | 雑損償却金109,307 自動車208 | 4 | 78,726 | |
1936 | 160,858 | 12,225 | 68,407 | 34,933 | 33,474 | 自動車411 | 雑損償却金68,672 | 11 | 81,745 |
1937 | 182,232 | 13,142 | 80,850 | 53,922 | 26,928 | 雑損337,581 償却金53,033 自動車6,118 | 521 | 66,865 | |
1939 | 233,968 | 21,647 | |||||||
1941 | 358,327 | 31,686 | |||||||
1943 | 369,542 | 24,630 | |||||||
1945 | 470,422 | 23,324 | |||||||
1952 | 374,147 | 15,067 | |||||||
1955 | 496千 | 22,331 | |||||||
1958 | 510千 | 20,231 | |||||||
1960 | 570千 | 22,270 | |||||||
1962 | 642千 | 16,686 | |||||||
主な遺構および現状は以下の通りである [17]。
陰陽連絡鉄道としての夢は諸事情により成就できなかったが、1954年(昭和29年)1月20日建設省(当時)第16号で大社宮島鉄道の予定経路に沿って出雲市と三次市を結ぶ主要地方道が認定された。島根県道・広島県道11号出雲三次線がそれであるが、島根県飯石郡飯南町野萱以南は国道54号と重用しており、実質上広島県と出雲市を結ぶ路線とは言いがたいものであった。しかし、1993年(平成5年)4月1日に島根県道・広島県道11号出雲三次線全線がそれまで松江市と尾道市を結んでいた国道184号に組み入れられ(1992年(平成4年)4月3日政令第104号による)、ようやく出雲市は陰陽連絡交通路を有するに至った。
この道路は改正鉄道敷設法別表第91号「広島県福山ヨリ府中、三次、島根県来島ヲ経テ出雲今市ニ至ル鉄道及来島附近ヨリ分岐シテ木次ニ至ル鉄道」のルート上にあり、鉄道線の先行として国鉄バス雲芸本線が1934年から出雲今市駅(現出雲市駅) - 備後十日市駅(現三次駅)を結んでいた。この国鉄バス路線は1989年以降高速道路経由となり、JRバス中国発足後の1989年から一畑バスと共同運行の「みこと号」となっている。
一畑電気鉄道は1950年に松江と広島を結ぶ直通急行バスの運行を開始した(後のグランドアロー号)。1972年にはその派生系統で大社町・出雲市と広島を宍道経由で結ぶ派生系統が創設され、出雲と広島を結ぶという当初の計画をバスによって果たすこととなった。さらに1986年にはルートを変更し、三次駅経由となり1989年には中国JRバスと共同運行化し「みこと号」となる。2013年の松江自動車道三次東ジャンクション - 吉田掛合インターチェンジ間開通からは三次市の経由地が三次駅から三次インターチェンジに変更となり現在に至る。
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