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調味料 ウィキペディアから
醤油または醬油(しょうゆ)は、主に穀物を原料とし、醸造技術により発酵させて製造する液体調味料。中国の醤を起源とする、東アジアの料理における基本的な調味料の一つである。
100 gあたりの栄養価 | |
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エネルギー | 222 kJ (53 kcal) |
4.93 g | |
糖類 | 0.40 g |
食物繊維 | 0.8 g |
0.57 g | |
8.14 g | |
トリプトファン | 0.096 g |
トレオニン | 0.271 g |
イソロイシン | 0.318 g |
ロイシン | 0.537 g |
リシン | 0.381 g |
メチオニン | 0.097 g |
シスチン | 0.118 g |
フェニルアラニン | 0.353 g |
チロシン | 0.244 g |
バリン | 0.332 g |
アルギニン | 0.463 g |
ヒスチジン | 0.174 g |
アラニン | 0.294 g |
アスパラギン酸 | 0.719 g |
グルタミン酸 | 1.579 g |
グリシン | 0.297 g |
プロリン | 0.493 g |
セリン | 0.388 g |
ビタミン | |
チアミン (B1) |
(3%) 0.033 mg |
リボフラビン (B2) |
(14%) 0.165 mg |
ナイアシン (B3) |
(15%) 2.196 mg |
パントテン酸 (B5) |
(6%) 0.297 mg |
ビタミンB6 |
(11%) 0.148 mg |
葉酸 (B9) |
(4%) 14 µg |
ビタミンB12 |
(0%) 0.00 µg |
コリン |
(4%) 18.3 mg |
ビタミンC |
(0%) 0.0 mg |
ビタミンD |
(0%) 0.0 µg |
ビタミンE |
(0%) 0.00 mg |
ビタミンK |
(0%) 0.0 µg |
ミネラル | |
ナトリウム |
(366%) 5493 mg |
カリウム |
(9%) 435 mg |
カルシウム |
(3%) 33 mg |
マグネシウム |
(21%) 74 mg |
リン |
(24%) 166 mg |
鉄分 |
(11%) 1.45 mg |
亜鉛 |
(9%) 0.87 mg |
マンガン |
(48%) 1.018 mg |
セレン |
(1%) 0.5 µg |
他の成分 | |
水分 | 71.15 g |
アルコール (エタノール) | 0.0 g |
| |
%はアメリカ合衆国における 成人栄養摂取目標 (RDI) の割合。 出典: USDA栄養データベース |
大豆・小麦・トウモロコシ・砂糖・グルコース・塩を原料とし、麹菌・乳酸菌・出芽酵母による複雑な発酵過程を経て生成される。その過程でアルコールやバニリン等の香気成分による香り、大豆由来のアミノ酸によるうまみ、同じく大豆由来のメチオノールによる消臭作用と、乳酸・酢酸などの酸味、小麦由来の糖による甘みを生じる。なお、赤褐色の色調は、主にメイラード反応によるものである。
鉄分はコウジカビの生育に悪影響を与えるので鉄分の少ない水を使用する[1]。鉄分が少ない方が色が薄く仕上がる[2]。
日本料理の調理の根幹を担う調味料であり、そのままかけて使う方法の他に、煮物の味付けや汁物やタレのベースにもなる。天ぷら・江戸前寿司・蕎麦などにも利用される、日本の食文化の基本となっている調味料である。一般家庭および飲食店でも醤油差しに入れられて食卓に出される。料理にかけたり少量を小皿に注ぎ・浸す、「つけ・かけ」用途に用いられる。製菓材料としては、煎餅など塩味の菓子のみならず、甘い菓子にも用いられる。主要な産地は千葉県・兵庫県で、全国的には濃口醤油が一般的である。その他の地域でも関西の薄口醤油や九州の甘口醤油など地域の食文化に合わせた醤油が生産されている。醤油の多様性は幅広く、狭い地域限定のマイナーなものまで含めれば様々な種類の醤油が作られている。単なる伝統製法に留まらず、醤油を巡る技術革新は継続しており、21世紀に入ってからは、透明醤油という料理の色を変えない醤油も販売されている[3][4]。
日本における初出には諸説あるが、15世紀ごろから用例が現れる。文明6年(1474年)成立の古辞書『文明本節用集』(ぶんめいぼんせつようしゅう)に、「漿醤」に「シヤウユ」と読み仮名が振られている。「醤油」の表記は上記「漿醤」から約100年後の『多聞院日記』永禄11年(1568年)10月25日の条に登場する[5]。しかし『鹿苑日録』天文5年(1536年)6月27日条には「漿油」と表記されており、「シヤウユ」の漢字表記はこちらの方が古い可能性が高い。また、初期には「醤油」の「油」を漢音読みして「シヤウユウ」と発音されることもあった[6]。
調味料を料理に用いる順番を表す語呂合わせの「さしすせそ」では、「せ」にあたり、「せうゆ」と表記されるが、歴史的仮名遣では「しやうゆ」と書くのが正しい。ただし「せうゆ」という仮名遣も、いわゆる許容仮名遣として広く行われていた。
したじという別名もあり、これは吸い物の下地の意から[8]取られている。むらさきという別名の語源は諸説あるが、高価な調味料だった醤油が、高貴なものの象徴である紫色に近かったことから[8]とも、江戸時代に筑波山麓で多産され、筑波山の雅称が紫峰(しほう)であったことから[9][10][11][12]とも言われる。
古代中国大陸の醤(ひしお・ジャン)をルーツとする説[14] で、「醤」は広義に「食品の塩漬け」のことを指す[7][注釈 1]。醤についての最初の文献は、周王朝初期の古書『周礼』とされており、獣・鳥・魚などの肉を原料とした塩辛の類の肉醤(ししびしお)、魚醤(うおびしお)だった[13]。
穀醤(こくびしお)がはじめてあらわれるのは、湖南省から出土した紀元前2世紀(前漢時代)とされる[13]。そして紀元1世紀(後漢時代)『論衡』に豆醤の記述が、さらに6世紀中頃(南北朝時代)に執筆された農書『斉民要術』に、蒸した豆と麹、食塩を発酵させて醤を仕込む方法が記載されている[13]。
日本では「醤の類い」(果物・野菜・海草などを材料とした草醤、魚による魚醤、穀物による穀醤の3種)が縄文時代から弥生時代にあったとされているが、文献には残されておらず[13][15]、本格的に醤が作られるようになったのは、中国大陸からの「唐醤」(からびしお)や、朝鮮半島からの「高麗醤」(こまびしお)の製法が伝えられた、大和朝廷時代頃だった[13][16][17]。
文献上で日本の「醤」の歴史をたどると、701年(大宝元年)の『大宝律令』には、醤を扱う「主醤」という官職名が見える。また923年(延長元年)公布の『延喜式』には大豆3石から醤1石5斗が得られることが記されており、この時代、京都には醤を製造・販売する者がいたことが分かっている。また『和名類聚抄』では、「醢」の項目にて「肉比志保」「之々比之保」(ししひしほ)についてふれており、「醤」の項目では豆を使って作る「豆醢」についても解説している。
「多聞院日記」の1576年の記事では固形分と液汁分が未分離な唐味噌から液を搾り出し唐味噌汁としていたとあり、これが現代で言う醤油に相当すると考えられている[18]。
文献上に「たまり」が初出したのは1603年(慶長8年)に刊行された『日葡辞書』で、同書には「Tamari. Miso(味噌)から取る、非常においしい液体で、食物の調理に用いられるもの」との記述がある。また「醤油」の別名とされている「スタテ(簀立)」の記述が同書に存在し、1548年(天文17年)成立の古辞書『運歩色葉集』にも「簀立 スタテ 味噌汁立簀取之也」と記されている。
発祥・起源については諸説あり、定かとはなっていない。
文献に登場しはじめた時代のたまり醤油は、原料となる豆を水に浸してその後蒸煮し、味噌玉原料に麹が自然着生(自然種付)してできる食用味噌の製造過程で出る上澄み液(たまり)を汲み上げて液体調味料としたもの。発酵はアルコール発酵を伴わない。また納豆菌など他の菌の影響を受けやすく、澄んだ液体を採取することは難しかった。この製法によるたまり醤油は16世紀を描いた国内の文献に多く現れ、17世紀に江戸幕府が開かれると、人口の増加に伴い上方のたまり醤油が、清酒や油などとともに次々と江戸へ輸送されていく[21]。
木桶で職人がつくる、現代につながる本格醤油は、酒蔵の装備を利用し酒造りとともに発展したため、麹は蒸した原料にコウジカビを職人が付着させ、原料の表面に麹菌を増殖させる散麹(ばらこうじ)手法をとる。麹は採取し、保存しておいて次の麹の種にする友種(ともだね)という採取法も取られている。発酵はアルコール発酵を伴う。コウジカビを用いたこのタイプは、17世紀末に竜野醤油の草分けの円尾家の帳簿に製法とともに「すみ醤油」という名前で現れている。18世紀になると、大量生産の時代に入っていく[21][22]。
安土桃山時代から江戸時代になると、泉州堺産の物が名産として、全国に流通するようになる[23]。この堺産醤油の日本国外への輸出は1647年(正保4年)に出島のオランダ東インド会社によって開始された[24]。この当時は樽詰めされた物が一般的だった。最初は東アジアへ、18世紀には欧州へ輸出された。伝承によればルイ14世の宮廷料理でも使われたという[25]。当時の記録によると腐敗防止のために、一旦沸騰させて陶器に詰めて歴青で密封したという。用いられたのは「コンプラ瓶」と呼ばれた波佐見焼であり、多数が現存する。なお、「コンプラ瓶」が使用され始めたのは、1790年(寛政2年)からである[26]。ロシアの文豪トルストイは書斎の一輪挿しにしていた[25]。
日本産醤油の存在はヨーロッパに流入する以前から、ケンペルの『珍奇な楽しみ』やダンピアの『続世界一周旅行』などの旅行記によって知識として紹介されていた[27]。ツンベルクは「日本の物は中国の物より遥かに上質である」と記している[24]。醤油が流入しはじめた18世紀中葉以降にはディドロの『百科全書』などの辞書や事典に醤油の項目が登場するが、当時の多くの書籍で醤油はローストビーフの肉汁から作られると解説されており、その誤解は20世紀に至るまで残り続けた[27]。
「濃口醤油」と「淡口醤油」の違いは、色や香りの違いである[28]。
江戸時代初期までは、日本での主流は色の濃いたまり醤油であり、主な産地は上記の湯浅に代表される近畿と讃岐(引田、小豆島)であった。しかし、たまり醤油は生産量が需要に追いつかなかった。
1640年代頃、寛永年間、巨大な人口を抱えて一大消費地となっていた 江戸近辺において、上方(関西の大阪近辺)から輸送される薄口の下り醤油は高級品として扱われていたため、関東で作る安価な「関東地廻り醤油」(現在の濃口醤油)が考案された。江戸は、材料となる行徳の塩、関東平野の穀物生産地、それを運ぶための水運など立地に恵まれており、特に下総国の野田と銚子が生産地として大きく発展し、今日に至る。
「うすくち醤油」は、1666年(寛文6年)に揖保郡龍野(現在の兵庫県たつの市)で円尾孫兵衛が醤油もろみに米を糖化させたものを混ぜることにより色の薄い醤油を創り出したのが最初と言われている。元々は龍野でのみ消費されていたが、18世紀半ばに京都への出荷が本格化した。
1781年(天明元年)には、玖珂郡柳井津(現在の山口県柳井市)の高田伝兵衛によって「甘露醤油」(「再仕込み醤油」「さしみ醤油」)が開発されている。
幕末の1864年(元治元年)、物価高に悩んだ幕府が市場に値下げ令を発した際、商品の品質保持を理由に野田と銚子の7銘柄は「最上醤油」の名称で従来価格で販売する許可を得た[要出典]。
明治時代初期には醤油産業自体、手工業的要素が強かったが、1882年(明治15年)以降、科学的な手法の研究が進み、醸造技術や企業形態の近代化が徐々に進んでいった[29]。
生活必需品である事に目をつけた明治政府は「醤油税」を創設し、大正時代末期まで続いた。
明治時代の市販品は、まだまだ贅沢な調味料であり、一般家庭では依然として味噌由来のたまりなどが使われていた。富山県の農村(上市町)の例では、庶民は正月や祭礼時に1合 - 2合買う程度であり、村の店では醸造元から仕入れた3升の醤油を何か月もかけねば売れなかった。使用量の増加は大正時代に入ってから、一般家庭が一升買いをするようになったのは、昭和時代初期になってからだという[30]。
第一次世界大戦による好況の影響で、1918年(大正7年)頃には設備の近代化に拍車をかけ、企業の合同も行われたことなどから、近代的な大量生産体制に移行していった[29]。最盛期である大正初期には、約12000の工場が存在した。
醸造醤油に、タンパク質原料を濃塩酸で加水分解ののち中和・濾過精製して作ったアミノ酸液を混合した「アミノ酸液混合醤油」は1930年頃、関西で始まった[31]。
醤油には大豆、伝統的には丸大豆が使用されていたが、太平洋戦争を契機に原料の有効利用の観点から、大豆油を採取した残りの脱脂大豆が原料に使われるようになった。大豆の油脂成分は本質的に醤油製造に不可欠なものはではなく、醪(もろみ)の圧搾後副生物として油分が分離されるが[注釈 2]食用にはならないからである[33][34]。
第二次世界大戦前後には、深刻化した食糧難に伴い、主原料の大豆が確保出来ずに製造自体が危機的状況に陥り、質の向上より量の確保が先決であったため、本醸造製法の醤油は僅かな量しか作られず、アミノ酸液で醤油を増量したアミノ酸液混合醤油や、アミノ酸液に甘味料やカラメル色素など化学調味料を加え、香り付け程度に醤油または醤油粕の絞り汁を混合しただけの「アミノ酸醤油」も市場に出回るようになった[29][31][34]。しかしアミノ酸醤油は醤油の香りはほとんどせず、むしろ酸によるアミノ酸加水分解時に副生する含硫アミノ酸由来の特有な鼻をつく異臭があった[35]。
1940年(昭和15年)に醤油は味噌とともに統制物資の対象となり、1942年(昭和17年)2月1日からは配給規制を受けた[36][注釈 3]。配給にあたり全国の醤油製造会社で製造された醤油は、1941年に設立された全国醤油統制会社、日本アミノ酸統制会社が一元的に買い上げた後、地方統制会社を通じて配給された[37]。
この時期、まだ丸大豆に比べ脱脂加工大豆では色が淡い醤油は作れずにいた[38]。龍野では戦時下の統制で配給が途切れ、出荷量を年々減らし、1944年(昭和19年)には淡口醤油の製造が止まった[39]。
終戦後、1948年、GHQは脱脂加工大豆の原料配分を「醤油醸造業界 2、アミノ酸業界 8」とすると決めた。その根拠は、アミノ酸液の歩留まりが80 %なのに比べ、当時の醤油は60 %しか原料の利用率がなく、また製造に約1年かかることだった[35][31][39][注釈 4]。ここに至り、日本の醤油の伝統的な醸造技術は一時的にせよ断絶する危機になった[35][31]。
この危機を救ったのが、野田醤油(今のキッコーマン)の技術者、舘野正淳、梅田勇雄らが発明した「新式2号醤油製造法」である[35][31][39]。これは加水分解法によるアミノ酸液製造より低濃度の6 %程度の希塩酸で脱脂大豆を低温処理[注釈 5]し、タンパク質をポリペプチド状態にてその大半を塩水に可溶化した状態で醪を仕込む方法で、仕込み期間1.5か月から2か月、アミノ酸液並みの高歩留まりにしつつも、本醸造醤油に近い品質の醤油を醸造する製造法であった。また、野田醤油はこの特許を独占することなく無償公開し、全国の醤油メーカーに教え歩いた[35][31]。
GHQの当時の担当者アップルトン女史はこの発明を聞き[注釈 6]、 消費者嗜好についての市場調査が行われ[注釈 7]、「正田・大内会談」[注釈 8]による協定を認め、一回内定していた脱脂加工大豆の配給を「醤油醸造業界 7、アミノ酸業界 3」に変えた。ここに醸造醤油の歴史的危機は回避されることとなった[40][41]。
「新式2号醤油製造法」は、全国2,500の業者が技術取得をした。この技術はアミノ酸液製造と違い、従来の醤油醸造工場の設備にわずかな手直しをすることで容易に採用できたことから、一挙に全国に普及した[40][41]。この功績により、1951年(昭和26年)、野田醤油の舘野らは日本発明協会から恩賜発明賞に推され、受賞した[40][41]。
1950年(昭和25年)配給公団の廃止と価格統制の撤廃がなされた[注釈 9][42]。しかし、原料の効率が悪くなかなか本醸造造りに戻せないでいた。また龍野では淡口醤油の製造を再開した[39]。
1955年(昭和30年)野田醤油からNK(野田キッコーマン)式タンパク質処理法が発表された[43][44]。この技術は大豆の蒸煮方法の改良で、それまで蒸煮後すぐに取り出さず翌日まで釜の中に留め置いていたのを、回転式蒸煮釜で必要最低限の蒸煮に留め、直ちに真空冷却する大豆原料の処理法で、この技術により大豆原料の利用率を60 %から80 %近くまで飛躍的向上を遂げ、かつ醤油内の旨味成分のグルタミン酸を50 %以上も増大させる画期的なものであった。さらに環境負荷となる大豆の煮汁も無くなり、公害防止の観点からも高く評価されるものであった[45]。そしてこの技術も野田醤油が醤油業界の発展のため公開するのである[45][44][注釈 10]。このNK式タンパク質処理法は、味噌業界にも翌年1956年に公開された[45][44]。この発明に対して、1963年(昭和38年)、野田醤油の舘野らは全国発明表彰で「内閣総理大臣賞」、翌年には社長茂木、顧問仲谷が「発明実施賞」を受賞している[45][44]。その後大豆の蒸煮処理はさらに高温高圧・短時間の条件が模索され、現代の大手醤油メーカーでは大豆は160 - 170 ℃(ゲージ圧 5 - 7 kg/cm3)・数十秒で連続蒸煮され、原料歩留まり率は限界近い90 %に達している[46]。
1970年(昭和45年)頃から大手醤油メーカーは本醸造だけに切り替えているが、コスト的な問題もあり全国的に中小メーカーは本醸造に切り替えることができず、今でも混合醸造方式、混合方式が残っている[47]。
戦前まで塩角を取るため程度の砂糖やみりんの添加はあったが甘くなるほどではなかった[48][49][50]。また人工甘味料の添加は法令で禁止されていた[51]。戦中・戦後の食糧難を経て、醤油作りに新しい技術、製法が積極的に導入され、醤油醪を搾ったままの生揚げ醤油にアミノ酸液や甘味料等を添加したり、本醸造醤油に加味して甘味やうま味のレベルを自由に変えられるようになり生まれたのが甘口醤油、旨口醤油である[48][52]。価格競争の中での生き残りをかけて、また全国ブランドの醤油の味に対抗する必要性から生まれた[48][53]。
1963年(昭和38年)の日本農林規格(JAS)制定後、1968年(昭和43年)に1リットルパックが登場。1973年(昭和48年)以降、企業による日本国外の生産も盛んになった。
1978年(昭和53年)にJAS規格が改訂され、「新式醸造」に「諸味にアミノ酸等を添加し醸造したもの」[注釈 11]だけでなく「生揚げ[注釈 12]にアミノ酸等を添加し最小1か月発酵、熟成したもの」も含むようになった。2003年(平成16年)のJAS規格の改訂の際に、「諸味にアミノ酸等を添加し醸造したもの」は混合醸造方式、「生揚げにアミノ酸等を添加し最小1か月発酵、熟成したもの」は混合方式に分類しなおされた。
1985年(昭和60年)の時点で、濃口醤油は8割近くが本醸造であり、淡口、白、再仕込み醤油は6割が本醸造であった[54]。またすでにこの頃にはうすくちしょうゆ、さいしこみしょうゆは北海道を除く全地域で製造されている[55]。
食事の欧米化と減塩志向に伴い、1980年代以降日本人1人当たりの消費量は減少傾向にある[56]。一方、日本において醤油を原材料とした調味料、めんつゆやたれの需要・消費量が伸びていることから、出荷量の割合において1980年代に業務・加工用が家庭用を上回っており、世帯当たり支出金額では1990年代にめんつゆ・たれの購買額が醤油の購買額を上回っている[56]。2000年代では、家事の負担軽減化を求める傾向や食に対して簡便性の高さを求める傾向からめんつゆやたれの普及が進み[56]、料理の味付けにおいて醤油よりもめんつゆやたれを中心に使用する家庭が増加している[57][58]。
輸出量は、日本人海外渡航者数の増加や日本国外における健康食としての日本食の流行などにより増加していった。こうした状況を受け、キッコーマンは1957年(昭和32年)にアメリカ合衆国に進出、製造工場を建設するなど、国際的な調味料として愛好されている。ただし海外の醤油消費は料理段階で合わせ調味料として使われる「照り焼き」が圧倒的であり、日本のように卓上調味料として使われることは稀である(そもそも海外では卓上調味料が一般的でない)。
野田と銚子の二大産地を抱える千葉県はメーカーも多く、生産量は日本全体の約3分の1を占める。兵庫県がそれに次ぎ、上位2県で過半数を占めるが、中小のメーカーは日本各地に存在する[59]。
長い歴史があり、各地で独自の風味や味わいを持つものが開発されてきた。1963年に制定された日本農林規格(JAS 1703)では、本醸造、混合醸造、混合、の3つの製造方法がしょうゆの製法として定義されている。また、製造方法、原料、特徴などから、「こいくち」「うすくち」「たまり」「さいしこみ」「しろ」の5種類に分類されている。そして醤油は「しようゆ」と表記されている[注釈 13]。
以下はJAS規格上は上記5つに含まれる。
長い歴史の中で、地方ごとの食文化に適したものが好まれ、作られてきたため、地方ごとに物性面・官能面の傾向が異なる。このような地域性は、地方の食文化と密接に関連したものであり、歴史が関係している。
淡口醤油と、濃口醤油とをメリハリを付け、両者を使い分けることが一般的である。煮物や吸い物の味付けには淡口醤油を用い、色を付けず素材の色合いを活かす一方、濃口醤油のコクをアクセントとして調味することがある。
この地域では、他の地域と異なる利用文化が見られる。
大豆以外の食材を発酵させた醤油に近い見かけ・用法の調味料が日本の国内外にある。伝統食品として古来作られてきたもの(前述の「起源」参照)以外に、醤油とは違った味やコクを持つ商品として復活・開発する企業もある。比較的有名なのは魚醤で、このほかに大豆以外の穀物から作る穀醤、椎茸などキノコ・野菜から作る草醤、鶏モツなどを用いた肉醤などがある。一例として、まるはら(大分県日田市)は『和名類聚抄』を参考に大豆以外を原料とした調味料を4種類をブレンドした商品を販売している[72]。また、のだみそ(愛知県豊田市)は2020年11月1日から、コオロギを主原料に醸造した「こおろぎ醤油」の販売を開始した[73][74]。
キッコーマンでは大豆・小麦のアレルギーにより醤油を利用できない顧客向けとして、えんどう豆で濃口醤油の味を再現した製品を販売している。
健康食として日本食が世界各地で好まれるようになってから、日本の製品が世界各地で手に入れることができるようになった。現在発展途上国を中心に100か国以上の国に輸出されており、生産は年14万キロリットルにも達する。大手メーカーでは現地生産も行っている。
アジアの他の国々にも醤油に似た調味料が存在する。英語では産地や種類にかかわらず "Soy sauce" と呼ばれている。
現在、国内で生産されているものの大半が本醸造であり、またこの濃口醤油が大半を占める。「本醸造」の条件は、大豆、麦、米等の穀物を蒸煮し、麹菌を用いて作成した麹に、塩水または生揚げを混合して発酵・熟成させたものを指す。麹に、蒸した米や甘酒を添加したり、分解を促進するための、セルラーゼ等の酵素を添加することも許されている。ただしプロテアーゼを除く[83]。JAS特級の条件には「本醸造であること」という項目も含まれているため、特級醤油であれば常に本醸造醤油である。
以下に近代的な製造工程の例を示す。
混合醸造方式、混合方式ともに、塩酸で原料処理を行い、水酸化ナトリウムで中和して得られたアミノ酸液を利用している。2004年(平成16年)のJAS(日本農林規格)の改正に伴い、旧名「新式醸造」のうち混合先がもろみのものが「混合醸造方式」となり、混合先がもろみではなく生揚げ醤油のものと旧名「アミノ酸添加法」が「混合方式」と変更された。現在の醤油生産は、本醸造がその多くを占めるが、アミノ酸液には独特の香りと味があり、特にそれが好まれる地域において混合醸造・混合方式も残っている。
ガラス瓶、ペットボトル容器、タレ瓶(主に弁当用の小型プラスチック容器)、プラスチック製パック(主に弁当用)などの形で販売されている。卓上用の製品の場合、容器がそのまま卓上用の醤油入れとして用いることができるようになっているものもある。
少量のアルコールと塩分を多く含む発酵食品であるために、冷暗所において品質の劣化は遅い。ただし開封後は、極力酸素を避けて密封し、冷蔵保存することが望ましい。酸素存在下で放置すると、揮発性成分が揮発して香りが減少するほか、特に防黴剤として安息香酸が含まれない場合は、液面に酵母(産膜酵母)が白く膜状に繁殖する[90] ことがある。そのため醤油側に空気が入らなくても注げる容器がワインのBag-In-Box(略してBIB)を応用して商品化されている。
このような産膜酵母の実態は、醤油の主発酵酵母と同種のZygosaccharomyces rouxiiであり、いわゆる「醤油に生えるカビ」である。害は無いが香りは悪くなり、糖を消費するため味も劣化する。さらに、酸化によりメイラード反応が進み、色は黒くなる。なお、醸造期間にも劣化は平行して進行するため、単純に「長期醸造」が高品質というわけではない。
日本国内の醤油メーカーは、日本各地に存在する。大正時代には1万社以上[91]、1980年代には2,000社以上存在したが[92]、年々減少傾向であり、1990年代に2,000社を切り[92]、2000年代中盤では約1,500[92][93] - 1,600社[91][94] 程度となっている。これは、価格が低迷している上、大手メーカーの地方進出に加え、副製産物の廃棄コストや設備の維持費高騰のため、地方の零細・小規模メーカーが廃業を続けているためである。なお、現存する最も古いメーカーは、室次(福井県福井市)である。
商品としてはコモディティ化が進んでおり、他の食品と比較して利益は一般的に低い。その一方で、年々、衛生面での要求は厳しくなり、廃棄物に対する規制は強くなっている。特に、エネルギーコストが必要な製麹工程、人的・場所的コストが必要で、醤油油や醤油粕などの廃棄コストが必要な仕込工程を省略し、全工程を独力で行わない製造者が増加している。製麹工程までを外部に依存するケース、仕込工程までを行わずに大手生産者より生醤油を購入し、火入・詰工程を行うケース、OEMやスーパー・生協などのプライベートブランドとして大手製造者に発注するケースがある。また、協業組合として複数の生産者が、製麹・仕込工程までを行う工場を作るケースもある。地方の中小メーカーの存在は、地域の食文化に密接に関係するもののため、文化保全の意味も含めて、「残って欲しい」と惜しまれている[要出典]。
都道府県別の生産量では、2018年の統計でキッコーマン(野田市)、ヤマサ、ヒゲタ(いずれも銚子市)等の大手が存在する千葉県が約34 %[95][96]、ヒガシマル(たつの市)が存在する兵庫県が約16 %[95][96]と上位2県で半数を占めている。
メーカーの名称は縁起の良い「亀甲(きっこう)」に由来する「キッコー○○」、醤油・味噌が寺院で造られていたことにちなむ「ヤマ○○」の商標名が各地に多い。
醤油醪の発酵において、味噌と同様、アルコール発酵も同時に起きる。また仕上げにアルコールを少量加えるのも一般的な製法である。日本食の国際化を受け、イスラム文化圏への食品・食材の輸出・ムスリム向けの食事提供の必要から、超低アルコール発酵プロセスによる醤油醸造が試みられ、ハラール認証を受けた醤油が数社から製品化された[97]。なお、一般社団法人ハラル・ジャパン協会認証のハラールしょうゆはマレーシア政府イスラム法(ファトワ)委員会の「しょうゆを含む果物、ナッツ、シリアルなどにおいて、製造時に発生する自然発酵したアルコール成分はナジャス(イスラム法において不浄なもの)ではないとする。」の見解をもとに、自然発酵したアルコール成分であればハラール認証の際に使用を認める、として、醸造用アルコール他、一切の添加物を含まないしょうゆにハラール認証を与えることとした。このため旧来の製法によるアルコールその他添加物を使っていない無添加しょうゆのいくつかが、ハラル・ジャパン認証のハラールしょうゆ認証を受けている[98]。
品質は「色」「香り」「味」で評価される。高品質の製造をするためには高い醸造技術・醸造管理・衛生管理・保存管理が必要となる。
「きき味」により、主に色・香り・味が評価される。「色は淡色で赤みがある色調で、かつ香り高く、味が良い」ものが良質とされる。
花のような甘い香りや爽やかに鼻に抜ける香が一般的に良しとされるが、製品によっては生乾きの雑巾のような臭い、汗のような臭いなど「悪い香」を呈するものもある。また、「麹の香」「味噌の香」「アルコールの臭」などの香りが加わっているものもある。
「よい香」とされる香も強すぎると問題となるため、それらのバランスにおいて製造者ごとに特徴が出る。
JAS(日本農林規格)では、品質基準に、含有する窒素分、無塩可溶性固形分(エキス分)、アルコールの量に従って格付けされている。その中でもっとも重要とされるのが、「うま味」の指標となる全窒素分である。
また、JASの他に日本醤油協会が定めている基準がある。
また、醤油業中央公正取引協議会が定めるものとして、以下の表示を利用することができる。
カビの中で、麹を作る際に用いられる菌が麹菌である。ニホンコウジカビ(Aspergillus oryzae)および、ショウユコウジカビ(Aspergillus sojae)は、ともに醤油醸造に用いられている。
仕込中期にアルコール発酵を行う酵母を「主発酵酵母」と呼ぶ。過去、主発酵酵母は耐塩性のサッカロミセス属と分類されていたが、現在はジゴサッカロミセス・ルーキシー(Zygosaccharomyces rouxii) と分類されている。古くなった醤油に生える白いカビ状のものも同種のもの。また、仕込後期に穏やかに香気成分を生産する酵母を「後熟酵母」と呼ぶ。Candida versatilis等、主にカンジダ属の酵母である。
過去、Pediococcus属の乳酸菌と考えられており、Pediococcus halophilusやPediococcus sojaeと分類されていたが、DNA相同性による分類の結果、アンチョビやキムチから分離された耐塩性乳酸菌と同種であることが判明し、現在ではTetragenococcus halophilusと分類されている。また、塩分を減少させた減塩醤油では耐塩性乳酸菌が増殖しやすく、耐塩性乳酸菌による"腐敗"が生じる事がある[99]。
醤油などの大豆発酵食品に含まれる微生物は認知機能低下の防止に役立つ可能性がある[100]。
日本の料理には欠かせない調味料であるが、江戸時代における濃口醤油の発明はその後の日本料理の発展において重要な役割を果たした。握り寿司、蕎麦、蒲焼、天ぷらといった江戸で生まれた料理は濃口醤油の誕生なくしては存在していなかったと言っても過言ではない。今日の日本料理の代表となっている多くの江戸料理は濃口醤油と密接に関係している。江戸時代の料理書である『料理早指南』には、味噌汁や澄まし汁の味を引き立てるためにたまりを少し差すとの解説がある。これを「影を落とす」と表現するとされ、すでにうま味を与える調味料としての醤油の性格が認識されていることが理解される[101]。
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