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日本の俳優 (1971-) ウィキペディアから
筒井 道隆(つつい みちたか、1971年3月31日 - )は、日本の俳優。東京都調布市出身。舞プロモーション所属。父は風間健[2]。
つつい みちたか 筒井 道隆 | |||||||||||
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本名 | 筒井 道隆 | ||||||||||
生年月日 | 1971年3月31日(53歳) | ||||||||||
出生地 | 日本・東京都調布市 | ||||||||||
身長 | 180 cm[1] | ||||||||||
血液型 | A型 | ||||||||||
職業 | 俳優 | ||||||||||
ジャンル | テレビドラマ・映画・舞台 | ||||||||||
活動期間 | 1990年 - | ||||||||||
活動内容 |
1990年:俳優デビュー 映画『バタアシ金魚』 | ||||||||||
著名な家族 | 風間健(父) | ||||||||||
事務所 | 舞プロモーション | ||||||||||
公式サイト | 公式プロフィール | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
テレビドラマ 『二十歳の約束』 『あすなろ白書』 『君といた夏』 『王様のレストラン』 『総理と呼ばないで』 『私の青空』 『新選組!』 『功名が辻』 『Around40〜注文の多いオンナたち〜』 『ゴンゾウ 伝説の刑事』 『サザエさん』 『半沢直樹』 『ミステリと言う勿れ』 映画 『バタアシ金魚』 『きらきらひかる』 『死国』 『俺は、君のためにこそ死ににいく』 『BALLAD 名もなき恋のうた』 舞台 『12人の優しい日本人』 | |||||||||||
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1971年3月31日、キックボクシングの東洋ミドル級チャンピオンで俳優の風間健の長男として生まれる。
堀越高等学校[1]卒業後すぐに芸能事務所に所属し、その後ほどなく映画出演の仕事が舞い込む。その作品がデビュー作の映画『バタアシ金魚』(1990年)である。
20歳代は、『二十歳の約束』への出演を皮切りに『あすなろ白書』や『君といた夏』などの恋愛ドラマで主演して脚光を浴びる[2]。一部からは、「トレンディドラマを代表する俳優の1人」「トレンディ俳優の1人」と評された。当時はアイドル的な人気を博したため[2]、若い女性向け雑誌のインタビューやグラビアなどにもたびたび登場した。
20代前半は上記の出演作の役柄の影響から、「女性にモテるが優柔不断な男性」のイメージを持たれることも多かった。しかし、20代半ばで『王様のレストラン』などの三谷幸喜脚本作品に起用されると、作品自体がヒットしたことで「頼りないが憎めないお人好し」という役柄も得て、コメディー路線も確立。
その後テレビドラマでは警察もの(『ボーダー』、『ゴンゾウ』、『警視庁継続捜査班』など)でのトラウマを持った人物の心理を表現した。
映画では『KT』での自らのルーツに戸惑う韓国人ボディガード、『俺は、君のためにこそ死ににいく』での望まない戦争に身を投じる特攻兵などの厚みのある演技を見せる。その反面、デビュー作『バタアシ金魚』や映画『ブレス・レス』では恋に突っ走る明るい役柄も演じている。
2013年8月、世界的にも過酷な自転車レースとして知られる「オートルート・アルプス」の大会に3人組の「Team TAUGE Japan」(チーム・トーゲ・ジャパン)の一員として出場し、同大会における日本人初の完走者となった(筒井個人としては、男子完走449選手の内368位)[注釈 1][3][4]。
2020年のドラマ『半沢直樹』においては、それまでの「好青年イメージ」を大きく覆す悪徳弁護士役を見事に演じ切り、SNS上などで反響を呼んだ[5]。
子供の頃から、武道家である父親から「何事も死ぬ気でやらなければいけない」と厳しく育てられた。毎朝4時や5時に叩き起こされ、走らされた後筋トレをし、家の中と庭の掃除をしてから登校していた。運動自体は好きだったが、父親に怒られることはあっても笑い合うような会話は全然なく、家では苦痛を感じながら生活していた[2]。
このような親子関係はその後も続き、高校生時代は反抗期を迎える機会もなかったという[6]。役者デビューのきっかけは、高校卒業直前に俳優業も行っていた父親から「(芸能事務所の関係者にスカウトされていた)役者になるか、自衛隊に入るかどちらかを選べ」と言われたため。それまで本人は、デパートにでも就職するつもりだったと語っている[6]。
その他のプライベートはあまり語られる機会はないが、年少の頃に妹とスタジオジブリ映画『火垂るの墓』を観て号泣したエピソードを語ったことがあり[6]、妹の存在は明らかになっている。
俳優デビューから数年間、トントン拍子に仕事が舞い込んだことやアイドル的人気になったのとは裏腹に、本人は戸惑いや悩みを抱えながら活動していた[注釈 2]。
先述の父の「何事も死ぬ気で」という考えが影響し、若い頃は「とにかく与えられた仕事を命懸けでやる」との思いで取り組んだ。同時に「自分ごときが仕事を選べる立場じゃない」と思っていたため、周りからの指示や要望を受け入れていた[2]。
しかしその後とある作品で出演を後悔することがあり、「中途半端な覚悟で仕事をするのは相手にも失礼」との考えが生まれた。このため30代半ば頃から、事務所に相談をした上でやりたくない仕事は前もって断り、自分の意見も告げるようになった[2]。
デビュー作から映像作品続きで選択肢になかったからと当初舞台出演には興味がなかったが、三谷幸喜脚本の『王様のレストラン』への出演や、三谷の舞台を観劇したことがきっかけで、1990年代半ばから舞台に出演するようになった[2]。また、それまでは演じる苦しさを感じながら俳優業をしてきたが、三谷作品やその常連俳優たちのコメディ演技に刺激を受けて、人を笑わせる芝居もあることを知った[2]。
子供の頃から運動好きだったことや、小学生の頃に日本でスポーツ自転車のロードマン[注釈 3]が流行ったこともあり[7]、自転車で長距離を走ることが好きになった[2]。小学生と中学生の頃にそれぞれ父親から1万円の旅費をもらい、東京の自宅から名古屋にある祖母宅まで(片道約350kmの道のりで[8]、国道1号線を走り箱根越えするルートだった[7])を一日半かけて一人で自転車で往復したことがある[2]。
役者デビュー後から仕事場に行く時に自転車を利用していたが、ある時知人から誘われたことをきっかけにロードレーサーに乗り始める。その後ヒルクライムレース[注釈 4]に出場したり、“激坂”として知られる「ふじあざみライン」で走るのも好きになる[7]。
このことから自転車・バイク関連の雑誌インタビュー・表紙に登場することも多く、レース出場にも意欲的である。出場した大会の一例として、先述の2013年の『オートルート・アルプス』や、2016年のハワイ・オアフ島で開かれたホノルル・センチュリーライド[9]などがある。
本人は自転車の魅力について、「買い物に行く時には気軽に乗れて、遠くまで行けばいい運動にもなる。他の乗り物に比べて置き場所にも困らないし維持費も安い。かと思ったらツール・ド・フランスのようなハイレベルなレースもあって、幅が広いです」と語っている[7]。
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