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伊勢神宮において行われる式年遷宮 ウィキペディアから
(じんぐうしきねんせんぐう)は、神宮(伊勢神宮)において行われる、定期的な遷宮のことである。式年は、基本的に20年ごととされている。
原則として20年ごとに、内宮(皇大神宮)・外宮(豊受大神宮)の2つの正宮の正殿、14の別宮の全ての社殿を造り替えて神座を遷す。このとき、宝殿外幣殿、鳥居、御垣、御饌殿など計65棟の殿舎のほか、714種1576点の御装束神宝(装束や須賀利御太刀等の神宝)[1]、宇治橋[注釈 1][注釈 2]なども造り替えられる。
記録によれば神宮式年遷宮は、飛鳥時代の天武天皇が定め、持統天皇4年(690年)に第1回が行われた[1]。その後、戦国時代の120年以上に及ぶ中断や幾度かの延期などはあったものの、2013年の第62回式年遷宮まで、およそ1300年にわたって行われている。
2005年から第62回式年遷宮の各行事が進行し、2009年に主要な行事である内宮に係る「宇治渡始式」が、2013年には正遷宮(神体の渡御)が斎行された。神宮司庁によると、2013年までの各行事を含む第62回式年遷宮全体の費用は、建築、衣服、宝物の製作を含め約550億円と公表。このうち、330億円が伊勢神宮の自己資金で、220億円が寄付で賄われた[2]。
なお、伊勢神宮が世界遺産に登録されていない理由として、この式年遷宮が世界遺産に求められる「不変性」「保護」の観点と相容れないことが挙げられている[3][4]。
式年遷宮を行うのは、萱葺屋根の掘立柱建物で正殿等が造られているためである。塗装していない白木を地面に突き刺した掘立柱は、風雨に晒されると礎石の上にある柱と比べて老朽化し易く、耐用年数が短い。そのため、一定期間後に従前の殿舎と寸分違わぬ弥生建築の殿舎が築かれる。
漆を木の塗装に用いるのは縄文時代から見られ、式年遷宮の制度が定められた天武天皇の時代、7世紀頃には、既に礎石を用いる建築技術も確立されていた。現に、この時代に創建(または再建)された法隆寺の堂宇は、世界最古の木造建築としての姿を今に伝えている。
2013年の式年遷宮広報本部は、式年遷宮を行なう理由として、神の勢いを瑞々しく保つ「常若(とこわか)の思想」があると説明している[5]。『延喜式』にも記された20年という間隔の由来については、式年遷宮記念せんぐう館の小堀邦夫館長が糒(ほしい)の貯蔵年限が20年だったことを挙げているほか、20が聖なる数とされていたという見解、古代の暦法、宮大工や神宝職人の技術伝承など諸説ある[5]。
遷宮においては、1万本以上のヒノキ材が用いられる。その用材を伐りだす山は、(みそまやま)と呼ばれる。
御杣山は、14世紀に行われた第34回式年遷宮までは、3回ほど周辺地域に移動したことはあるものの、すべて神路山と島路山[6]、高倉山[7]という内宮・外宮背後の山であった。
その後、内宮の用材の御杣山は第35回式年遷宮から三河国に移り、外宮の用材の御杣山は第36回式年遷宮から美濃国に移り、第41回式年遷宮から第46回式年遷宮までは伊勢国大杉谷を御杣山とした。この伊勢国大杉谷は、徳川御三家の一つである紀州徳川家の領地である紀州藩にあった。
しかし、原木の枯渇による伐り出しの困難さから、第47回式年遷宮から、同じ徳川御三家でも尾張徳川家の領地である尾張藩の木曽谷に御杣山は移された。以後、第51回式年遷宮のみ大杉谷に戻ったものの、300年以上にわたり木曽谷を御杣山としている。
明治時代には、木曽谷を含む尾張藩の森林は国有化された。明治時代後期から大正時代にかけて、木曽の赤沢をはじめとする地域に神宮備林が設定され、樹齢200年から300年の用材の安定提供を可能とする計画的植林が行われ始めた。第二次世界大戦後、神宮備林の指定は外されたものの、以後も遷宮用材の主な供給地となっている。
神宮では、1923年に森林経営計画を策定し、再び正宮周辺の神路山・島路山・高倉山の三山を御杣山とすべく、1925年または1926年から、三山へのヒノキの植林を続けている。遷宮の用材として使用できるまでにはおおむね200年以上かかるため、この三山の植林から生産された用材が本格的に使用されるのは100年以上後の2120年頃となる。また、この計画は、400年後の2400年頃には、三山からの重要用材の供給も目指す遠大なものである。なお、内宮正殿の御扉木について、本来の様式通りに一枚板とするためには、樹齢900年を超える用材が必要となると試算されている[8]。2013年(平成25年)に行われた第62回式年遷宮では、約700年ぶりに、この正宮周辺三山からの間伐材を一部に使用し、全用材の25%が賄われた。
さらに、明治100年記念として神宮が購入した宮崎県・鹿児島県の記念林は、当初の目的は財政補給であったものの、ヒノキの生産に適していると見られることから、三山および瀧原宮の神域林とあわせて、用材の供給源となることが期待されている[9]。
式年遷宮の際に解体される旧殿に使用された用材は、神宮内やその摂社・末社をはじめ、全国の神社の造営等に再利用される。例えば、内宮正殿の棟持柱については宇治橋神宮側鳥居となり、さらに関の東の追分の鳥居となる習わしである。また、外宮正殿の棟持柱は宇治橋おはらい町側鳥居となり、さらに桑名の七里の渡しの鳥居となる習わしである。
2013年の遷宮では、ヒノキ不足から遷宮史上初めて、青森県産のアスナロ(ヒバ)が用いられた[10][11]。
2016年2月、伊勢神宮の内宮と外宮に納められていた神宝のうち、革御靭、銅黒造の御太刀、梓御弓、御楯が兵庫県姫路市の射楯兵主神社に譲渡された[12]。
神宮司庁は、式年遷宮に必要な大量の用材や、屋根用の萱の加工のための工場である「神宮司庁山田工作場」を外宮敷地内に持っている。場内には、製材所・加工所・加工材木の乾燥倉庫・屋根用の萱の乾燥倉庫及び加工場・用材を加工まで保存しておく堀や、各工場を結ぶトロッコ軌道などがある。ここでは常に小規模な社殿の建て替えや修復のために製材が行われているが、正遷宮の前後は多くの伝統技術を持った大工らが全国から集まって来るため、職人用の寮も敷地内にある。多くの大工に神宮の建築様式を伝承していくのも、山田工作場が持つ大きな役割である。
式年遷宮では、多くの祭典と行事が行われる。
下記の年月日は、左側が第61回神宮式年遷宮の日程、右側が第62回神宮式年遷宮の日程である。年月日が記されていないものは、未決定のものである。
なお「※」印が付されたものは、(ごじじょう)といい、天皇が日程を定める。
年月日 | 事柄 | 天皇 | 備考 | ||
---|---|---|---|---|---|
天武天皇14年(685年) | 式年遷宮の制を制定 | 天武 | |||
持統天皇4年(690年)9月16日[注釈 3] | 第1回式年遷宮 | 内宮 | 持統 | ||
持統天皇6年(692年)9月15日[注釈 4] | 外宮 | ||||
和銅2年(709年)9月16日 | 第2回式年遷宮 | 内宮 | 元明 | ||
和銅4年(711年)9月15日 | 外宮 | ||||
天平元年(729年)9月16日 | 第3回式年遷宮 | 内宮 | 聖武 | 1年延引。 | |
天平4年(732年)9月15日 | 外宮 | 2年延引。 | |||
天平19年(747年)9月16日 | 第4回式年遷宮 | 内宮 | 1年繰り上げ。 | ||
天平勝宝元年(749年)9月15日 | 外宮 | 孝謙 | 2年繰り上げ。 | ||
天平神護2年(766年)9月16日 | 第5回式年遷宮 | 内宮 | 称徳 | ||
神護景雲2年(768年)9月15日 | 外宮 | ||||
延暦4年(785年)9月18日 | 第6回式年遷宮 | 内宮 | 桓武 | ||
延暦6年(787年)9月15日 | 外宮 | ||||
延暦11年(792年) | 臨時遷宮[注釈 5] | 内宮 | |||
弘仁元年(810年)9月16日 | 第7回式年遷宮 | 内宮 | 嵯峨 | 6年延引。 | |
弘仁3年(812年)9月15日 | 外宮 | 6年延引。 | |||
天長6年(829年)9月16日 | 第8回式年遷宮 | 内宮 | 淳和 | ||
天長8年(831年)9月15日 | 外宮 | ||||
嘉祥2年(849年)9月16日 | 第9回式年遷宮 | 内宮 | 仁明 | 1年延引。 | |
仁寿元年(851年)9月15日 | 外宮 | 文徳 | 1年延引。 | ||
貞観10年(868年)9月16日 | 第10回式年遷宮 | 内宮 | 清和 | ||
貞観12年(870年)9月15日 | 外宮 | ||||
仁和2年(886年)9月16日 | 第11回式年遷宮 | 内宮 | 光孝 | 1年繰り上げ。 | |
寛平元年(889年)9月15日 | 外宮 | 宇多 | |||
延喜5年(905年)9月16日 | 第12回式年遷宮 | 内宮 | 醍醐 | ||
延喜7年(907年)9月15日 | 外宮 | 1年繰り上げ。 | |||
延長2年(924年)9月16日 | 第13回式年遷宮 | 内宮 | |||
延長4年(926年)9月15日 | 外宮 | ||||
天慶6年(943年)9月16日 | 第14回式年遷宮 | 内宮 | 朱雀 | ||
天慶8年(945年)12月15日 | 外宮 | 3か月延引。 | |||
応和2年(962年)9月16日 | 第15回式年遷宮 | 内宮 | 村上 | ||
康保元年(964年)9月15日 | 外宮 | ||||
天元4年(981年)9月17日 | 第16回式年遷宮 | 内宮 | 円融 | 1日延引[注釈 6]。 | |
永観元年(983年)9月15日 | 外宮 | ||||
長保2年(1000年)9月16日 | 第17回式年遷宮 | 内宮 | 一条 | ||
長保4年(1002年)9月15日 | 外宮 | ||||
寛仁3年(1019年)9月17日 | 第18回式年遷宮 | 内宮 | 後一条 | 1日延引。 | |
治安元年(1021年)9月15日 | 外宮 | ||||
長暦2年(1038年)9月16日 | 第19回式年遷宮 | 内宮 | 後朱雀 | ||
長久元年(1040年)9月15日 | 外宮 | ||||
天喜5年(1057年)9月16日 | 第20回式年遷宮 | 内宮 | 後冷泉 | ||
康平2年(1059年)9月15日 | 外宮 | ||||
承保3年(1076年)9月16日 | 第21回式年遷宮 | 内宮 | 白河 | ||
承暦2年(1078年)9月15日 | 外宮 | ||||
嘉保2年(1095年)9月16日 | 第22回式年遷宮 | 内宮 | 堀河 | ||
承徳元年(1097年)9月15日 | 外宮 | ||||
永久2年(1114年)9月16日 | 第23回式年遷宮 | 内宮 | 鳥羽 | ||
永久4年(1116年)9月15日 | 外宮 | ||||
長承2年(1133年)9月16日 | 第24回式年遷宮 | 内宮 | 崇徳 | ||
保延元年(1135年)9月15日 | 外宮 | ||||
仁平2年(1152年)9月16日 | 第25回式年遷宮 | 内宮 | 近衛 | ||
久寿元年(1154年)9月19日 | 外宮 | 4日延引。 | |||
観応元年(1169年) | 臨時遷宮[注釈 5] | 内宮 | 高倉 | ||
承安元年(1171年)9月16日 | 第26回式年遷宮 | 内宮 | |||
承安3年(1173年)9月15日 | 外宮 | ||||
建久元年(1190年)9月16日 | 第27回式年遷宮 | 内宮 | 後鳥羽 | ||
建久3年(1192年)9月15日 | 外宮 | ||||
承元3年(1209年)9月16日 | 第28回式年遷宮 | 内宮 | 土御門 | ||
建暦元年(1211年)9月15日 | 外宮 | 順徳 | |||
安貞2年(1228年)9月16日 | 第29回式年遷宮 | 内宮 | 後堀河 | ||
寛喜2年(1230年)9月15日 | 外宮 | ||||
宝治元年(1247年)9月16日 | 第30回式年遷宮 | 内宮 | 後深草 | ||
建長元年(1249年)9月26日 | 外宮 | 11日延引[注釈 7]。 | |||
文永6年(1266年)9月16日 | 第31回式年遷宮 | 内宮 | 亀山 | ||
文永5年(1268年)9月15日 | 外宮 | ||||
弘安8年(1285年)9月16日 | 第32回式年遷宮 | 内宮 | 後宇多 | ||
弘安10年(1287年)9月18日 | 外宮 | ||||
嘉元2年(1304年)12月22日 | 第33回式年遷宮 | 内宮 | 後二条 | 3か月延引。 | |
徳治元年(1306年)12月20日 | 外宮 | 3か月延引。 | |||
元亨3年(1323年)9月16日 | 第34回式年遷宮 | 内宮 | 後醍醐 | ||
正中2年(1325年)9月16日 | 外宮 | ||||
興国4年/康永2年(1343年)12月28日 | 第35回式年遷宮 | 内宮 | 後村上/光明 | 1年延引。 | |
興国6年/貞和元年(1345年)12月27日 | 外宮 | 1年延引。 | |||
正平19年/貞治3年(1364年)2月16日 | 第36回式年遷宮 | 内宮 | 後村上/後光厳 | 2年延引。 | |
天授6年/康暦2年(1380年)2月8日 | 外宮 | 後亀山/後円融 | 16年延引。 | ||
元中8年/明徳2年(1391年)12月20日 | 第37回式年遷宮 | 内宮 | 後亀山/後小松 | 8年延引。 | |
応永7年(1400年)2月28日 | 外宮 | 後小松 | 1年延引。 | ||
応永18年(1411年)12月 | 第38回式年遷宮 | 内宮 | 1年延引。 | ||
応永26年(1419年)12月21日 | 外宮 | 称光 | |||
永享3年(1431年)12月28日 | 第39回式年遷宮 | 内宮 | 後花園 | 1年延引。 | |
永享6年(1434年)9月15日 | 外宮 | 4年繰り上げ。 | |||
寛正3年(1462年)12月27日 | 第40回式年遷宮 | 内宮 | 12年延引。以降、長期中断。 | ||
永禄6年(1563年)9月23日 | 外宮 | 正親町 | |||
天正13年(1585年) | 10月13日 | 第41回式年遷宮 | 内宮 | 3年延引。以降、同年斎行が常例となる。 | |
10月15日 | 外宮 | ||||
慶長14年(1609年) | 9月21日 | 第42回式年遷宮 | 内宮 | 後陽成 | 5年延引。 |
9月27日 | 外宮 | ||||
寛永6年(1629年) | 9月21日 | 第43回式年遷宮 | 内宮 | 後水尾 | 以降、20年周期での斎行が常例となる。 |
9月23日 | 外宮 | ||||
慶安2年(1649年) | 9月25日 | 第44回式年遷宮 | 内宮 | 後光明 | |
9月27日 | 外宮 | ||||
寛文9年(1669年) | 9月26日 | 第45回式年遷宮 | 内宮 | 霊元 | |
9月28日 | 外宮 | ||||
天和3年(1683年)3月10日 | 臨時遷宮[注釈 5] | 内宮 | |||
元禄2年(1689年) | 9月10日 | 第46回式年遷宮 | 内宮 | 東山 | |
9月13日 | 外宮 | ||||
宝永6年(1709年) | 9月2日 | 第47回式年遷宮 | 内宮 | 中御門 | |
9月5日 | 外宮 | ||||
享保14年(1729年) | 9月3日 | 第48回式年遷宮 | 内宮 | ||
9月6日 | 外宮 | ||||
寛延2年(1749年) | 9月1日 | 第49回式年遷宮 | 内宮 | 桃園 | |
9月4日 | 外宮 | ||||
明和6年(1769年) | 9月3日 | 第50回式年遷宮 | 内宮 | 後桜町 | |
9月6日 | 外宮 | ||||
寛政元年(1789年) | 9月1日 | 第51回式年遷宮 | 内宮 | 光格 | |
外宮 | |||||
文化6年(1809年) | 10月16日 | 第52回式年遷宮 | 内宮 | ||
外宮 | |||||
文政12年(1829年) | 9月2日 | 第53回式年遷宮 | 内宮 | 仁孝 | |
9月5日 | 外宮 | ||||
嘉永2年(1849年) | 9月2日 | 第54回式年遷宮 | 内宮 | 孝明 | |
9月5日 | 外宮 | ||||
明治2年(1869年) | 9月4日 | 第55回式年遷宮 | 内宮 | 明治 | |
9月7日 | 外宮 | ||||
明治22年(1889年) | 10月2日 | 第56回式年遷宮 | 内宮 | ||
10月5日 | 外宮 | ||||
明治33年(1900年)10月2日 | 臨時遷宮[注釈 5] | 内宮 | |||
明治42年(1909年) | 10月2日 | 第57回式年遷宮 | 内宮 | ||
10月5日 | 外宮 | ||||
昭和4年(1929年) | 10月2日 | 第58回式年遷宮 | 内宮 | 昭和 | |
10月5日 | 外宮 | ||||
昭和28年(1953年) | 10月2日 | 第59回式年遷宮 | 内宮 | 4年延引[注釈 8]。 | |
10月5日 | 外宮 | ||||
昭和48年(1973年) | 10月2日 | 第60回式年遷宮 | 内宮 | ||
10月5日 | 外宮 | ||||
平成5年(1993年) | 10月2日 | 第61回式年遷宮 | 内宮 | 上皇 | |
10月5日 | 外宮 | ||||
平成25年(2013年) | 10月2日 | 第62回式年遷宮 | 内宮 | ||
10月5日 | 外宮 | ||||
※日付は1872年(明治5年)までは旧暦(太陰太陽暦)。1873年(明治6年)からは新暦(太陽暦)。
南北朝時代に入ると、国政の混乱により延引が常態化し、日付も当初の式日からずれ、完全に不定例化する。南北朝統一後も混乱は続き、永享3年(1431年)の第39回遷宮(内宮)では、材木の調達不足に加えて金物の寸法違いもあり、社殿が完成しないまま遷宮を実施し、一部殿社は結局造替されなかった。続く第40回遷宮は、内宮については、神宮側から朝廷に向けて愁訴を繰り返し上奏し、寛正3年(1462年)、室町幕府第8代将軍足利義政や造営使大中臣秀忠の私費でもって、12年の延引で実現したが、直後に勃発した応仁の乱で幕府が分裂する事態に至り、続く外宮についてはついに斎行のめどが立たず、1世紀にわたり遷宮は中絶を余儀なくされた[14]。
この間、殿社は荒廃の一途をたどり、湿気により建材や装束、神宝が湿損し、神事に際して神職が昇殿することすら危ぶまれる状態になった。正規の遷宮は行える状況ではなく、仮殿への一時動座を伴う応急の修繕で急場をしのぐことが常態化したが、明応6年(1497年)には、内宮は仮殿を造営することすらままならなくなった。勅許を得ないまま、正殿がいよいよ倒壊目前の状態になったため、神職が私費で「儲殿」を建てることを検討せざるを得ない状態となったが[注釈 9]、この時は最終的に、神宮側が全経費を負担することを条件に、仮殿の造営が認められた。更に外宮に至っては、文明18年(1486年)、山田合戦に直接巻き込まれ、正殿が戦火で炎上するという未曽有の珍事に至った。やむなく御神体は古殿に遷され、ここからさらに仮殿への遷宮を繰り返して急場をしのいだ[15]。
遷宮が中断したまま1世紀近くが経過したのち、慶光院清順が、宇治大橋の架橋を果たしたのを皮切りに、式年遷宮の復興に乗り出す。内宮側は清順が仏教僧侶であることを理由に難色を示したので、外宮側の了解を取り付けて、清順の名で全国の戦国大名諸将に書を送り、遷宮費の奉納を求めた。これが実を結び、永禄6年(1563年)、内宮の遷宮から101年目にして、外宮の遷宮が成った。次いで第41回の遷宮では、清順の跡を継いだ周養が諸大名に働きかけ、足利将軍に代わって天下人となった織田信長が寄進を行う。造営開始直後に本能寺の変で横死した信長に代わって天下の覇権を握った豊臣秀吉も同じく大規模な寄進を行い、天正13年(1585年)、両宮の式年遷宮が復活した。この時、両宮の式年を同年に行う初例となり、その前後をめぐって両宮の間で意見の相違がみられた(伊勢神宮遷宮前後相論)。また、外宮の神宝については、内宮に准ずる形で品目が中断前の規定と比べて増加しており、また、遷宮に際して旧神宝を引き続き神宝として納めて、点数が増えていた例も確認されている、
続く天下人となった徳川家康のもとでの慶長14年(1609年)、第42回式年遷宮においては、造営料3万石が寄進され、山田奉行の指揮のもと、親藩の尾張藩、紀州藩から御用材が調達されるなど、安定的に式年遷宮が繰り返されるようになる。儀式次第については、寛文9年(1669年)の第45回式年遷宮でほぼ旧令に復した。
遷宮される社殿は、同じ広さの敷地が左右に並び、二つの敷地に20年間隔で交互に社殿を建て、御神体が行き来する。二つの敷地の内、神が鎮座していない、空の状態の社殿の敷地は「(こでんち)」あるいは「(みしきち)」と呼ばれる。
古来、古殿は神が隣の新社殿に遷御してからも、社殿自体は引き続き参拝者の崇敬、拝礼を受け続けており、神宮側も、特に古殿地を守る神職を置いていた。そして、次の遷宮に際して新しい社殿を建てる直前に、壊却されていた。この時点では、旧社殿はその聖性ゆえに、原則として次期遷宮まで、建築から数えて約40年間は存置することとされ、社殿に損傷や剥落が見られても早期の壊却は行われず、心御柱にまで倒壊の恐れが生じて初めて、壊却が認められた[16]。
そのため、敷地には原則、現在用いられている社殿とその前の古殿が並んで立っていた。この間、現行の社殿が不慮の火災や破損などによって臨時遷宮を行うことになった時には、社殿再築までの間の御神体の安置場所として仮殿を設ける必要があるが、その時に古殿地の旧社殿を仮殿とした例がある[17]。
明治期に入ると、この慣例が大転換し、旧社殿は遷御後、速やかに壊却されるようになった。明治5年(1872年)、神宮司庁内の検討において、従前の古殿の存置を「非常の備え」のためのものであったと解釈、却って失火の時に延焼の恐れがあるなどの理由により、神祇省に申し立てを行い、結果、3年前の第55回遷宮で残されていた旧社殿が壊却された。一説には、神宮司庁が神宮大麻の頒布を始めるにあたり、撤下古材をもってその材料とした、とされる[18]。
これ以降、旧社殿は遷宮からほどなくして壊却されるようになり、両敷地には原則、現行の社殿と、次期社殿の建築を待つ更地が並び立つようになった。
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