真清田神社
愛知県一宮市にある神社 ウィキペディアから
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真清田神社(ますみだじんじゃ、旧字体:眞淸田神󠄀社󠄁)は、愛知県一宮市真清田にある神社。式内社(名神大社)、尾張国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
愛知県北西部、一宮市の中心部に鎮座する。創建は詳らかでないが、古代に尾張地方を治めた尾張氏の奉斎に始まるとされ、尾張氏祖神の天火明命を祭神とする。中世には尾張国の一宮に位置づけられ、一帯の地名「一宮」はこの真清田神社の社格に由来する。現在でも一宮市の市章は真清田神社の神宝がモチーフとされるように、古くから一宮地域の発展に関わってきた古社である。
社殿は第二次世界大戦中の一宮空襲で焼失したため、現在見られるものは戦後の再建である。そのうち、本殿・祭文殿(さいもんでん)などは神社建築としての造形を評価され、国の登録有形文化財に登録されている。また国の重要文化財の木造舞楽面12面、朱漆器25点をはじめとして、多くの文化財も伝世する。そのほか、創建日とされる4月3日に行われる例祭は「桃花祭(とうかさい)」として知られる。
祭神は次の1柱[1]。
本地仏は『真清田神社縁起』では毘盧遮那仏、『神道集』では地蔵とする[2]。
現在、真清田神社の祭神は上記の通り天火明命とされるが、かつては国常立尊祭神説や大己貴命祭神説など複数説が存在した[3]。これらのうち国常立尊祭神説は、『真清田神社縁起(古縁起)』(室町時代末期頃成立)に記される説で、最も古い時代に遡る[4]。国常立尊は神話では天地開闢の時に最初に現れた神とされ、『古縁起』では崇神天皇の時に国常立尊を勧請して祀ったとする[4]。しかし近年では、同書が続けて真清田神社を日本中の一宮と主張していることから、伊勢神宮と比肩するために天照大神より古い国常立尊が持ちだされたものと考えられている[4]。一方、大己貴命祭神説は『大日本国一宮記』に見える説で、出現は室町時代末期から江戸時代初期頃に遡り、諸文献に散見される[4]。
これらに対して天火明命祭神説は、江戸時代に吉見幸和や栗田寛により唱えられたものである[4]。天火明命は、『日本書紀』『古事記』の神話では天照大神の孫神(天忍穂耳命の子神)とされ、『先代旧事本紀』では饒速日命と同一視される神である。そしてこの天火明命に比定する説において、社名の「マスミ」が真清鏡(ますみのかがみ)のように鏡に関係する語であるとして、鏡作氏や尾張氏の祖神の天火明命が祭神だと想定された[4]。しかしながら、尾張氏は尾張地方に広く勢力を持った氏族ではあるが、真清田神社との関係を示す文献・伝承は知られていない[5]。また尾張氏を鏡作氏とする文献も存在せず、実際には鏡作氏は三上氏の支流であったと見られる。
歴史的には、中世末期から江戸時代までは国常立尊祭神説が主流で[5]、明治の時点での祭神は国常立尊のほか天照大御神・月夜見神・大己貴神・大竜王神の5柱となっていた。しかし『特選神名牒』において「天照大御神」が「天火明命(天照国照彦天火明尊)」の誤記と見なされ、かつ他の4柱が省略され天火明命1柱とされた関係で、以後は現在まで天火明命1柱説が採用されている[4]。なお、『真清田神社史』では国常立尊祭神説を荒唐無稽としながらも、天火明命と大己貴命については、それぞれ尾張氏の祖先神と奉斎神(土地神)であった可能性を指摘する[4]。
なお祭神の性格に関しては、過去の祭神に龍神が見えることから水神の性格が指摘されるほか[6]、『赤染衛門集』の記述から農業神の性格も指摘される[2]。
創建について現在の真清田神社社伝では、祭神の天火明命は大和国葛城地方(現・奈良県葛城地方)の高尾張邑を出て、神武天皇33年3月3日に当地で鎮祭されたのが始まりとする[1]。
一方古文献では、真清田神社の創建に関して初代神武天皇の時とする説、第10代崇神天皇の時とする説の2説が知られる[7]。
上記の文献はいずれも中世以降の成立になるため、これらの伝承の真偽や、神武天皇や崇神天皇の時期に淵源を求めた理由は明らかとなっていない[7]。このうち神武天皇33年3月3日という年月日については、すでに存在した桃花祭(3月3日)から逆に創造されたとする説がある[7]。これら文献を受け『真清田神社史』では、尾張氏が大和葛城地方から尾張に進出し、崇神天皇頃にあたる尾張氏一族の倭得玉彦命(『先代旧事本紀』「天孫本紀」に見える人物)の時期に神社が創祀されたと想定している[8]。
社名「ますみだ」の語源は明らかでないが、後述のように文献では「真清田」「真墨田」の2種類の用字が存在する[5]。この相違に関して、『延喜式』のみ「墨」の用字であることから、『延喜式』の表記が実は『弘仁式』(820年)の古い表記の踏襲と推測する説がある[9]。歴史的には、その後は好字「清」の表記が定着した[9][5]。なお『延喜式』神名帳では美濃国各務郡に村国真墨田神社(岐阜県各務原市)とも見え、真清田神社との関連が指摘される[9]。
国史での初見は承和14年(847年)[原 1]で、「真清田天神」の神階が無位から従五位下に昇叙されたとある[10]。その後、仁寿元年(851年)[原 2]に「真清田神」は官社に列し、またその神階が仁寿3年(853年)[原 3]に従四位下、貞観7年(865年)[原 4]に正四位上に昇叙されている[10]。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では尾張国中島郡に「真墨田神社 名神大」と記載され、名神大社に列している[5]。また『尾張国内神名帳』(尾張国内神名牒)では、「正一位 真清田明神」と記載されている[10]。
永万元年(1165年)の「神祇官諸社年貢注文」に「尾張国一宮 八丈五疋」とあるのを初見として、平安時代末期以降に真清田神社は尾張国で一宮の地位にあったとされ[2]、これは現在の一宮市の市名の由来にもなっている[5]。一宮に次ぐ尾張国二宮は大縣神社(犬山市宮山)、三宮は熱田神宮(名古屋市熱田区)とされるが[2]、神階・格式の点では熱田神宮の方が尾張国で最高位にあり矛盾する[2]。この点については古来諸説が挙げられているが、今日では尾張国府との距離関係の反映とする説や、東海道における京からの位置関係の反映とする説が一般視されている[2]。
真清田神社は古来多くの社領を有したが、それらは「真清田荘」として荘園化し、平安時代末には八条院領のうち安楽寿院領に含まれた[11]。嘉禎元年(1235年)の文献によると、社領は水田129町9反300歩、うち定田は96町120歩で、旧中島郡のほか葉栗郡・愛智郡・海東郡・海西郡一帯に分布したとされる[3]。中世期の他の文書からも、社領が広範囲に渡った様子が指摘される[3]。また天文年間(1532年-1555年)からは佐分氏が神職を務めるようになった(幕末まで世襲)[3]。その後天正12年(1584年)には大地震で社殿が崩壊し、豊臣秀吉に社領も没収されて社勢は衰えたという[10]。
江戸時代に入ると徳川氏から庇護を受けて復興し、尾張藩主松平忠吉から社領200石の寄進、さらに寛永4年(1627年)には藩主徳川義直から105石余の寄進を受け、336石6斗余の社領を有するようになったという[3]。寛永16年(1639年)には義直から細別を記した黒印状が下されたほか[3]、寛文5年(1665年)には4代将軍徳川家綱から朱印状が下されている[10]。
明治維新後、明治18年(1885年)に近代社格制度において国幣小社に列した[1]。かつて「真清田大名神」「真清田大明神」「一宮真清田大神」「一宮大明神」と称された社名も、明治に現在の「真清田神社」に統一された[6]。その後、大正3年(1914年)に国幣中社に昇格した[1]。戦後は神社本庁の別表神社に列している。
境内は約30,090平方メートル[13]。社殿は昭和20年(1945年)の一宮空襲で焼失したため、いずれも戦後の再建である[14]。昭和26年(1951年)から再建計画が立てられ、昭和32年(1957年)までに本殿・祭文殿・渡殿・拝殿・廻廊透塀・神饌所・社務所などが再建された[14]。これらのうち、本殿及び渡殿(1棟)、北門及び透塀(1棟)、祭文殿(1棟)がそれぞれ国の登録有形文化財に登録されている。主要社殿の詳細は次の通り。
なお空襲で焼失した社殿は、典型的な尾張造として知られた。楼門はその空襲による焼失を免れたが、これも昭和36年(1961年)に再建されている。
中世期の真清田神社の様子を知る絵図としては、「真清田神社古絵図」(一宮市指定有形文化財)がある。この絵図は室町時代頃の社頭と桃花祭の様子を描いたもので、主要社殿として朱塗りの本殿・縦長拝殿・勅使殿・楼門、その左右に末社・神庫、さらに境内両端や参道には東神宮寺、西神宮寺、新八幡社、山王社の様子が表されている。また中央の広場では山車2台とともに当時の風俗の様子が描かれている[19]。一宮市博物館では、この絵図に基づいた1/150スケールの復元模型が展示されている。
現在(1994年時点)の摂末社は、摂社2社(境内2社)・末社36社(境内11社・境外25社)の計38社。
かつて室町時代には別宮4社(四所別宮)・末社88社があったというが、江戸時代の延宝年間(1673年-1681年)頃には末社45社(別宮不明)、『真清探桃集』(江戸時代中期)の頃には別宮は荒廃し末社10余社の状態であった[20]。明治から大正にかけての摂末社整理ののち、昭和40年(1965年)に服織神社の新設、平成5年(1993年)に三明神社の復興がなされたほか、境内外末社も変遷を経て現在に至っている[20]。
現在の境内末社は次の11社。社殿はいずれも昭和20年(1945年)の焼失以後の再建[23]。
このほか、境外末社として25社が分布する[25]。主なものとしては、旧第三別宮の神明社(一宮市真清田)・浜神明社(一宮市桜)、旧第四別宮の大神社(一宮市天王)・大石社(一宮市桜)、真清田神社社家の祖神を祀る古守社(一宮市松降)がある[25]。『真清探桃集』では末社88社はいずれも境内社とし、これら現在の境外末社は「属社」の分類で24社を掲載する。これら境外末社は江戸時代には神職・社僧の控とされたが、その鎮座地はかつて中世期の真清田神社神領地であった可能性が指摘される[26]。
『真清探桃集』(江戸時代中期)で挙げる旧別宮4社・旧摂社2社。
真清田神社で年間に行われる祭事の一覧[1]。
「 | 其ころ、国人はらだつ事ありて、田もつくらじ、種とりあげほしてんといふとききて、又ますだの御社といふ所にまうでたりしに、神に申させし、 賤が男の 種ほすといふ 春の田を つくりますだの 神にまかせん かくてのち、田みなつくりてきとぞ。 |
」 |
—『赤染衛門集』 |
「 | 一宮といふやしろをすぐとて 一宮 名さえなつかし 二つなく 三なき法(のり)を まもる成べし |
」 |
—『十六夜日記』建治3年10月19日 |
所在地
付属施設
交通アクセス
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