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日本の東大寺正倉院に収蔵されている香木 ウィキペディアから
蘭奢待/蘭麝待(らんじゃたい)は、正倉院に収蔵されている香木。天下第一の名香と謳われる。
正倉院宝物目録での名は黄熟香(おうじゅくこう)で、「蘭奢待」という名は、その文字の中に"東・大・寺"の名を隠した雅称である。
長さ156.0cm、最大径42.5cm、重量11,600g(11.6kg)で[1]、不整形な木材。内部はほぼ空洞となっている[2]。空洞になっている部分について、幾多の成書に「朽ちてうつろになった」と記されるが[3]、数度の調査を行った薬史学者の米田該典は「燃焼時に予期せぬ香りを発しないように余分な部分を切除することは、現在も普通に行われていることで、香気成分が沈着しない部分を積極的に切除したため」としている[2]。昭和30年(1955年)の『正倉院薬物』には「外側の樹脂分の多い部分は削り取られてしまって、樹脂分のほとんどない木部だけが残っているように考えられる」と記している[4]。
米田該典は、ジンチョウゲ科ジンコウジュ属(Aquilaria)の植物の樹幹に樹脂や精油が沈積した沈香の一種で、産地としてラオス中部からベトナムにかけてのインドシナ半島東部の山岳地帯と推定している[2]。米田該典は「現在でも、そのままでも沈香特有の香りがする」(2000年)とし、正倉院事務所長であった米田雄介は「顔を近づけるとわずかではあるが芳香を放っている」(1998年)としている[5]。
蘭奢待が正倉院に納められた経緯については諸説あるが特定できていない。
蘭奢待という通称の由来について室町時代後期の公家三条西実隆の日記『実隆公記』には、東大寺別当の公恵が手元にあった蘭奢待を後土御門天皇に献上した際の逸話として「この沈香は聖武天皇のもので東大寺と申すべきだが、焚き物であるため縁起が悪いので、東大寺という文字を込めて蘭奢待と称する」と記している。この通称をつけた人物について堀池春峰は足利義政としたが、本間洋子による『実隆公記』の検討によりこの説は否定されており、命名者は不明である[6]。
「蘭奢待」の初見について、本間は貞治6年(1367年)の『新札往来』に記される名香のリストが最も早いと指摘している。また「黄熟香」の初見は建久4年(1193年)の『東大寺勅封蔵開検目録』とされるが、記される寸法から当該の香木は全浅香[注釈 1]とする説もある[8]。
蘭奢待の伝来について記される史料はない。和田軍一は羂索院の双倉に収蔵されていた宝物が倉の老朽化に伴い永久4年(1116年)に勅封倉(正倉院)に移された記録を根拠として、この時に蘭奢待が正倉院に納められたとする。また堀池春峰は延暦24年(805年)に早良親王の御霊鎮護において用いられた名香を蘭奢待と推定したうえで、同年7月に唐から帰朝した藤原葛野麻呂が舶載したものとする。ただしいずれの説も推測の範疇を出ない[8]。
米田該典は平成9年(1997年)の調査で38箇所の截香跡があるとした上で、繰り返し切り取られた跡もみられることから50回くらい切り取られたとしている[9]。これまで足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武[要出典]、織田信長、明治天皇らが切り取っている。現在、3箇所の切り口に「足利義政拝賜之處」「織田信長拝賜之處」「明治十年依勅切之」の付箋がつけられているが、いずれも明治期のものであり明治以前の切り口については不明である[9]。徳川家康も切り取ったという説があったが[10]、慶長7年(1602年)6月10日、東大寺に奉行の本多正純と大久保長安を派遣して正倉院宝庫の調査を実施し[11]、蘭奢待の現物の確認こそしたものの、切り取ると不幸があるという言い伝えに基づき切り取りは行わなかった(『当代記』同日条)。同8年2月25日、宝庫は開封して修理が行われている(続々群書類従所収『慶長十九年薬師院実祐記』)[11]。
『満済准后日記』によれば、永享元年(1429年)9月24日に足利義教は東大寺を訪れて受戒を受け、その後に同寺西室で宝物を見たうえで碁石3個と共に「沈(黄熟香)二(二寸ばかり)切、同じく之を召される」と記す。さらに続けて「至徳の時も此の如くか。何様先規に任され了んぬ」と記されているが、これは足利義満が至徳2年(1385年)8月30日に東大寺で受戒し宝物を拝見したとする『至徳二年記』の記述に対応するものとされ、義満が黄熟香を切り取った先例に義教も倣ったと考えられている[12]。
『蔭凉軒日録』によれば、寛正6年(1465年)9月24日に、足利義政が東大寺にて受戒し、西室にて宝物を拝見したとある。さらに『東大寺三倉開封勘例』には「室町殿、当寺にて宝物を御覧、御香を召し上げらる」と記されており、義満、義教の先例に倣っていたことが分かる。この際の詳細として「1寸角を2個切り出して1つを後土御門天皇に献上し、もう一つを義政が受け取る。また5分角を1個切り出し東大寺別当の公恵に献じた」と記されている[13]。
『天正二年截香記』によれば、天正2年(1574年)3月23日に、織田信長は塙直政と筒井順慶を使者に出し、蘭奢待拝見の希望を伝えた。東大寺は足利家以外に正倉院宝庫の開封例がないとしつつも、信長の内裏修造などに配慮して勅使によって封が解かれれば聞き入れると返答。勅許を得た信長は多聞山城に入り、勅使が到着を待つ。3月28日に正倉院中倉から黄熟香が城に運ばれ、東大寺僧3人の立会のもと、大仏師トンシキが持参した鋸で1寸角2個を切り取る。信長は「1つは正親町天皇に献上し、もう1つは我等が拝領」と述べた[14]。
信長による截香は横暴なイメージで語られる事が多いが、米田雄介や和田軍一は上記の記述より好意的な評価をしている[14]。そして、金子拓は東大寺側の記録(上生院浄実『三蔵開封日記』・蓮乗院寅清『寺辺之記』・薬師院実祐『三蔵開封之次第』)を検証したところ、信長は先例を確認した上で切り取りを行い、27日には信長自らが東大寺や春日大社を参詣して謝意を示したことを指摘し、信長の申し入れに当初は東大寺側も反発はあったものの、信長の東大寺に対する配慮により平穏に終わったとしている(特に、上生院浄実は前述の切り取りに立ち会った3人の東大寺僧の1人で、『三蔵開封日記』は『天正二年截香記』の原本であることも検証している)[15]。
なお、東山御文庫内には「蘭奢待香開封内奏状案」(勅封三十五函乙-11-15)と呼ばれる文書が伝えられている。この文書は元々、信長の蘭奢待切り取りに先立って空席であった東大寺別当に三条西実枝(実澄)の子を任じた女房奉書とセットになっていたことから、蘭奢待切り取りの許可を求める内奏に対する返事と考えられていた。また、その文章の内容が不満を吐露するものであったため、古くから「信長ノ不法ヲ難詰セラル」(『大日本史料』天正2年3月28日条)と解釈され、長年"正親町天皇が信長の奏請に対する不満を吐露した書状"として理解されてきた。しかし、内奏状は天皇に充てて出される文書であるのに天皇の心境が述べられている矛盾が指摘され、金子拓はこれは女房奉書の受取先であった三条西実枝から正親町天皇に充てられた書状と再解釈した。つまり、この文書の筆者が正親町天皇では無く三条西実枝である以上、不満を吐露したのも天皇ではないことになる。そして、不満の対象も書状の宛先である正親町天皇その人と考えるしか無く、少なくとも"正親町天皇が信長の奏請に対する不満を吐露した書状"ではありえないと結論づけている[16]。なお、金子の解釈によれば、「不満」の内容は東大寺は皇室の寺院で正倉院の開封には勅使を使わすのが習いであるのに、藤氏長者の二条晴良と藤原氏の氏寺である興福寺が関与しているのを天皇が止めていないことに対する批判ということになる[17]。
蘭奢待を切り取った信長は、これを周知する目的で4月3日に茶会を催し、その場で千宗易と津田宗及に蘭奢待を下賜している。また、その他に村井貞勝にも下賜したほか、正親町天皇も九条稙通に下賜している[18]。
『明治天皇紀』には、明治10年(1877年)2月9日に奈良行幸の際に正倉院宝物を御覧ののち、内務省博物館局長の町田久成に命じて長さ2寸、重さ8.9グラムを切り取り、東大寺東南院で聞香し「薫煙芳芬として行宮に満ちた」と記録されている。なお、これとは別に明治5年(1872年)に蜷川式胤と町田久成が正倉院宝物を調査したときの記録『奈良の道筋』によると、「黄熟香一名蘭奢待。少々粉を火に入れたところ、香気軽く清らかにして、誠に微かな香りあり」と記している[19]。
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