浅草寺
東京都台東区にある仏教寺院 ウィキペディアから
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浅草寺(せんそうじ)は、東京都台東区浅草二丁目にある都内最古の寺で、正式には金龍山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)と号する。聖観世音菩薩を本尊とすることから、浅草観音(あさくさかんのん)として知られている。山号は金龍山。 元は天台宗に属していたが、昭和25年(1950年)に独立して聖観音宗の本山となった[1]。都内では坂東三十三観音唯一の札所(第13番)、また江戸三十三観音札所の第1番でもある。全国有数の観光地であるため、正月の初詣では毎年多数の参拝客が訪れ、参拝客数は常に全国トップ10に入っている[注釈 1]。
本尊真言:おん あろりきゃ そわか
ご詠歌:ふかきとが今よりのちはよもあらじ つみ浅草にまいる身なれば
『浅草寺縁起』等にみえる伝承によると、浅草寺の創建の由来は以下の通りである。
飛鳥時代の推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像となる。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも [2]、「土師真中知」(はじのまなかち)[3]とも)は出家し、自宅を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。その後大化元年(645年)、勝海という僧が寺を整備し観音の夢告により本尊を秘仏と定めた。観音像は高さ1寸8分(約5.5センチ)の金色の像と伝わるが、公開されることのない秘仏のためその実体は明らかでない。平安時代初期の天安元年(857年。天長5年(828年)とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったという。これらを機に浅草寺では勝海を開基、円仁を中興開山と称している。天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に七堂伽藍を整備したとの伝えがあり、雷門、仁王門(現・宝蔵門)などはこの時の創建といわれる。
一説に、本尊の聖観音像は、現在の埼玉東京の県境に近い飯能市岩淵にある成木川沿いにある岩井堂に安置されていた観音像が大水で流されたものとする伝承がある。浅草寺創建より100年程前に、岩井堂観音に安置されていた観音像が大雨によって堂ごと成木川に流され、行方不明になったという。成木川は入間川、荒川を経て隅田川に流れており、下流にて尊像発見の報を聞いた郷の人々が返還を求めたが叶わなかったという。
浅草寺の文献上の初見は鎌倉時代の『吾妻鏡』である。同書によれば、治承5年(1181年)、鎌倉の鶴岡八幡宮造営に際し、浅草から宮大工を呼び寄せている。また、建久3年(1192年)、鎌倉の勝長寿院で後白河法皇の四十九日法要が営まれた際、浅草寺の僧が参加している。後深草院二条の『とはずがたり』には、彼女が正応3年(1290年)浅草寺に参詣した時の様子が描写されている。
天正18年(1590年)、江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えた。浅草寺の伽藍は中世以前にもたびたび焼失し、近世に入ってからは寛永8年(1631年)、同19年(1642年)に相次いで焼失したが、3代将軍徳川家光の援助により、慶安元年(1648年)に五重塔、同2年(1649年)に本堂が再建された。このように徳川将軍家に重んじられた浅草寺は観音霊場として多くの参詣者を集めた。
貞享2年(1685年)には、表参道に「仲見世」の前身である商店が設けられた。これは、寺が近隣住民に境内の清掃を役務として課す見返りに開業を許可したものである。江戸時代中期になると、境内西側奥の通称「奥山」と呼ばれる区域では大道芸などが行われるようになり、境内は庶民の娯楽の場となった。天保13年(1843年)から翌年にかけて、江戸三座の芝居小屋が浅草聖天町(猿若町、現・台東区浅草六丁目)に移転し、そうした傾向はさらに強まった。
浅草は近代以降も庶民の盛り場、娯楽場として発達し浅草寺はそのシンボル的存在であった。明治6年(1873年)には境内が公園地に指定され(浅草公園)、明治18年(1885年12月27日)には表参道両側の「仲見世」が近代的な煉瓦造の建物に生まれ変わった。明治23年(1890年)には商業施設と展望塔を兼ねた12階建ての「凌雲閣」(通称「浅草十二階」)が完成している。
大正6年(1917年)からは日本語の喜歌劇である「浅草オペラ」の上演が始まり、映画が普及する以前の大衆演劇として隆盛した。関東大震災では浅草区は大半が焼失する被害にもかかわらず、浅草寺では地元の鳶職の親方が境内の避難民を指揮してバケツリレーによる防火作業を行った結果、一部建築物が延焼するだけの被害で済んでいる。しかし昭和20年(1945年)3月10日、東京大空襲で旧国宝の本堂(観音堂)、五重塔などが焼失。第二次世界大戦後の浅草は、娯楽の多様化や東京都内の他の盛り場の発展などによって一時衰退した。しかし、地元商店街のPR活動等によってかつての賑わいを取り戻しつつあり、下町情緒を残す街として東京の代表的な観光地となっており、羽子板市、ほおずき市などの年中行事は多くの人出で賑わっている。
表参道入口の門。切妻造の八脚門で向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから正式には「風雷神門」というが「雷門」の通称で通っている。慶応元年(1865年)に焼失後は仮設の門が時折建てられていたが、1960年(昭和35年)に常設の門が鉄筋コンクリート造で再建された。実業家・松下幸之助が浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のために寄進したものである。
門内には松下電器産業(現パナソニック)寄贈の大提灯がある。雷門の大提灯には表面に「雷門」、裏手に「風雷神門」と書かれている[4]。後述の宝蔵門にかかる大提灯(小舟町大提灯)とともに、三社祭の時(神輿通過のため)と台風接近など自然災害に備える必要がある場合には提灯が畳まれる[5]。
風神雷神像は頭部のみが古く、体部は慶応元年(1865年)の火災で焼失後、1874年(明治7年)に補作。1960年(昭和35年)の門再建時に補修と彩色が加えられている。門の背面の間には、「金龍・天龍」の像を安置する。西の金龍(女神)は仏師・菅原安男、東の天龍(男神)は彫刻家・平櫛田中の作で、1978年(昭和53年)に奉納されたものである。
雷門から宝蔵門に至る長さ約250メートルの表参道の両側には土産物、菓子などを売る商店が立ち並び、「仲見世通り」と呼ばれている。商店は東側に54店、西側に35店を数える。寺院建築風の外観を持つ店舗は、関東大震災による被災後、1925年(大正14年)に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。
浅草寺は付近の住民に境内の清掃を賦役として課すかわりに、南谷の支院の軒先に床店(小屋掛けの店)を出す許可を与えた。貞享2年(1685)頃のことで、これが仲見世の発祥といわれている。
雷門をくぐり、仲見世通りの商店街を抜けた先にある。入母屋造の二重門(2階建てで、外観上も屋根が上下二重になっている門)である。江戸時代には一年に数度2階部分に昇ることが可能であった。現在の門は1964年(昭和39年)に再建された鉄筋コンクリート造で、実業家・大谷米太郎夫妻の寄進によって建てられたものである。門の左右に金剛力士(仁王)像を安置することからかつては「仁王門」と呼ばれていたが、昭和の再建後は宝蔵門と称している。その名の通り、門の上層は文化財「元版一切経」の収蔵庫となっている。
2体の金剛力士像のうち、向かって左(西)の阿形(あぎょう)は仏師・錦戸新観、右(東)の吽形(うんぎょう)像は木彫家・村岡久作の作である。阿形像のモデルは力士の北の湖[要検証]、吽形像のモデルは明武谷と言われている。門の背面左右には、魔除けの意味をもつ巨大なわらじが吊り下げられている。これは、前述の村岡久作が山形県村山市出身である縁から、同市の奉賛会により製作奉納されているもので、わら2,500キログラムを使用している[6]。
わらじは10年おきに新品が奉納されているが、稲藁は長い方が加工しやすいものの、近年の稲作では全国的に稲藁の利用の激減や、風雨で倒れにくく収穫しやすいことから、丈の低い品種への品種改良が進んでいる。同市ではこのために丈の高い古い品種を特別に栽培している。
宝蔵門には「小舟町」と書かれた大提灯が架かる(小舟町大提灯)[7][4]。小舟町大提灯は1659年に日本橋小舟町の信徒から寄進されたのが最初で、日本橋小舟町奉賛会によって奉納が続けられておりほぼ10年ごとに新調されている[7][4]。
耐震性の向上と参拝客に対する安全確保のため2007年(平成19年)に屋根改修工事を行い、軽量さと耐食性に優れたチタン製の瓦を全国で初めて採用した[8]。(カナメ社製瓦:TranTixxiiチタン素材使用)表面のアルミナブラスト加工をランダムに配置することで、土瓦特有の「まだら感」を再現している。また、主棟・隅棟・降棟・妻降棟すべての鬼飾もチタンで製作された。これ以降、境内の建物の瓦は順次チタン製に置き換えられている[9]。
本尊の聖観音像を安置するため観音堂とも呼ばれる。旧堂は慶安2年(1649年)の再建で近世の大型寺院本堂の代表作として国宝(当時)に指定されていたが、1945年(昭和20年)の東京大空襲で焼失した。現在の堂は1958年(昭和33年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造である。再建にあたっては、建設資金を捻出するために瓢簞池の敷地(2400坪)が江東楽天地などに売り払われた[10]。
外陣には川端龍子(かわばたりゅうし)筆「龍の図」、堂本印象筆「天人散華の図」の天井画がある。内陣中央には本尊の聖観音像(絶対秘仏)を安置する八棟(やつむね)造りの宮殿(くうでん、「厨子」と同義)がある。宮殿内部は上段の間と下段の間に分かれ、上段の間には秘仏本尊を安置する厨子を納め、下段の間には前立(まえだち)本尊の観音像(伝・円仁作)安置する。下段の間にはこのほか徳川家康、徳川家光、公遵法親王(中御門天皇第二皇子、天台座主)がそれぞれ奉納した観音像が安置されている[11]。
宮殿の扉の前には「御戸帳」と称する、刺繍を施した帳(とばり)が掛けられている。宮殿の手前左右には梵天・帝釈天像が立つ。宮殿の裏には秘仏本尊と同じ姿という聖観音像(通称裏観音)、堂内後方左右の厨子内には本尊の脇侍として不動明王像と愛染明王像を安置する[11][注釈 2]。
毎年12月12・13日に煤払(すすはらい)と開扉法要が行われる。本尊は絶対秘仏で公開されないが、「お前立」の観音像は12月13日午後2時からの開扉法要の際に一般の信徒も拝観することができる[12]。
浅草寺本堂の向拝には「志ん橋」と書かれた大提灯が架かる(志ん橋大提灯)[13][14]。志ん橋は新橋の異表記で、東京大空襲で焼失した本堂が再建された1958年(昭和33年)から東京新橋組合により奉納されている[14]。本堂の大提灯は2020年(令和2年)4月18日に9回目の掛けかえが行われており、高さ4.5メートル、幅3.5メートル、重さ約600キログラムである(浅草寺の大提灯の中で最も大きい)[13][14]。雷門や宝蔵門の大提灯とは異なり、三社祭の時には畳まれないが、台風接近など自然災害に備える必要がある場合には畳まれる[5]。
2009年2月から2010年12月にかけて、「平成本堂大営繕」が行われた。屋根の葺き替えは1958年(昭和33年)の再建以来50年ぶり。宝蔵門の改修工事でも用いたチタン瓦(カナメ社製瓦:TranTixxiiチタン素材使用)を採用[9]。使用色も2色から3色に増やし、より粘土瓦に近い風合いを醸し出している。
2020年6月13日午前、新調された扁額の奉納法要が行なわれた。「施無畏」と書かれた扁額は1727年に奉納されたが、1945年の東京大空襲で焼失し、写真による複製が飾られていた。新調された扁額は大ケヤキの一枚板で、天台宗僧侶で書家の豊道春海の筆による「施無畏」の文字が、井波彫刻の彫刻師、南部白雲によって彫られた。幅約4メートル、縦約1.3メートル、厚さ約15センチメートル、重さ約700キログラム。文字の掘り込みは5センチメートル以上となっている、1958年の本堂再建時に新調予定だったが、大きな一枚板を調達できず長らく実現できずにいた[15]。
天慶5年(942年)平公雅が塔を建立したと伝わる。この塔は三重塔であったといわれ、『江戸図屏風』にも描かれている。焼失を繰り返したのち慶安元年(1648年)に五重塔として建立され、本堂と同様、関東大震災では倒壊しなかったが1945年(昭和20年)の東京大空襲では焼失した。現在の塔は本堂の西側、寛永8年(1631年)に焼失した三重塔の跡伝承地付近に場所を移して、1973年(昭和48年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺き、基壇の高さ約5メートル、塔自体の高さは約48メートルである。基壇内部には永代供養のための位牌を納めた霊牌殿などがあり、塔の最上層にはスリランカ・アヌラーダプラのイスルムニヤ寺院から請来した仏舎利を安置している。なお、再建以前の塔は東側にあった。その位置(交番前辺り)には「塔」と刻まれた標石が埋め込まれていたが、2009年(平成21年)、新たに「旧五重塔跡」と記された石碑が設置された。周辺には木が植えられ、憩いの場となっている。江戸四塔、江戸六塔の一つに数えられる。
アルミ製の瓦を使用していたが、2017年6月には本堂で使われた3色のチタン瓦(カナメ社製瓦:TranTixxiiチタン素材使用)を導入した[9]。
重要文化財。本堂の東側に東向きに建つ、切妻造の八脚門である。元和4年(1618年)の建築で、第二次世界大戦にも焼け残った貴重な建造物である。この門は、本来は浅草寺境内にあった東照宮(徳川家康を祀る神社)への門として建てられたものである(東照宮は寛永19年(1642年)に焼失後、再建されていない)。現在、門の左右に安置する二天(持国天、増長天)は上野の寛永寺墓地にある厳有院(徳川家綱)霊廟から移されたものである。2010年(平成22年)、改修により創建当初の様式に戻された。
本堂の東側にある。拝殿、幣殿、本殿は重要文化財。浅草寺の創建に関わった3人を祭神として祀る神社である。明治の神仏分離以降は浅草寺とは別法人になっている。
宝蔵門の手前西側にあり、浅草寺の本坊である。小堀遠州の作と伝えられる回遊式庭園がある。通常、一般には公開していないが、特別公開されることがある。2011年(平成23年)、国の名勝に指定された。院内にある天祐庵は表千家不審庵写しの茶室で、江戸時代後期の建立。もとは名古屋にあった。
境内北側にて社会福祉法人浅草寺病院を運営。1910年に発生した大水害の被災者のための救護所「浅草寺診療所」を念仏堂に設けたのが始まり。1952年に現病院に改組。
宝蔵門のそばに「浅草不動尊」と「三宝荒神堂」があるが、天台宗の大行院という寺院で、浅草寺には属していない。
この他、浅草神社境内には久保田万太郎句碑、川口松太郎句碑、河竹黙阿弥顕彰碑、市川猿翁(二代目市川猿之助)句碑、初代中村吉右衛門句碑などがある。
東京・浅草公園は、かつて浅草寺の境内地を中心にあった公園。日本初の都市公園の一つとして[注釈 4]、1873年(明治6年)3月25日に誕生した。 公園用地は1871年(明治4年)寺社領・境内地の上地令により公収され、明治6年太政官布達第16号で東京府から公園の指定を受け、整備を始めた。当初は浅草寺境内と仲見世や奥山地区等に限定していたが、東京府は他の4公園の維持管理費を賄うため浅草公園から上がる地代収入に期待して、1876年(明治9年)11月以後伝法院、浅草寺火除地、界隈16ヶ町等を組入拡大した。1882年(明治15年)にはようやく浅草寺西側の浅草田圃と呼ばれる火除地を埋め立て、林泉地区(後の四区)と興行地区(後の六区)の造成に着手。1883年(明治16年)9月26日に造成完了、1884年(明治17年)1月公園地は6つの区画に分かれ、同年9月に7区目が追加(後に除外)。こうして浅草公園の開園式は、1886年(明治19年)5月20日より行われた[20]。
第二次世界大戦後となり、1947年(昭和22年)4月2日の公共団体所有の社寺地財産処分の政府通牒を受けて、浅草公園は同年5月1日公園地の指定解除、1951年(昭和26年)10月再び浅草寺の所有地になった[21][22]。浅草寺は束の間、東京大空襲で焼失した本堂の復興資金を捻出するために四区の瓢簞池を売却。その後も町名として1965年(昭和40年)8月1日の住居表示制度が導入される時まで存続していたが、現在は無い。行政町名としての「浅草公園地」は、概ね現在の浅草一丁目と二丁目に内包される。もはや都立公園でも区立公園でもない浅草公園[23]が、昔からの名残として、地図上の浅草寺境内地に表記されている。
浅草寺では先祖供養も出来る。
霊験あらたかと言われる浅草寺では毎日、家の宗派と無関係に先祖供養を受け付けている。浅草界隈を長年取材している五木寛之によれば、宗派を問わず全く無関係な人でも供養を申し込めるため、五重塔内の位牌には昭和天皇、マザーテレサ、ダイアナ妃の位牌まで存在するという。
毎日6時(10月から3月は6時半)・10時・14時から先祖供養、厄よけ等の祈祷が行われる。特定の個人の名前で受け付ける他、○○家先祖代々、という形でも受け付ける。志納金は3,000円から。
秘仏本尊の聖観音像は、長期間にわたって見る者がなかったので、明治時代には実在が疑われるようになった。このため明治2年(1869年)に役人が来て調査を行ったところ、本尊はたしかに存在していることが明らかになったという。この時の調査によれば、奈良時代の様式の聖観音像で、高さ20センチメートルほど、焼けた跡がうかがえ、両手足がなかったという[26]。現在、常時拝観可能な「裏観音」が秘仏本尊と同じ様式であるとされるが、高さは89センチメートルと異なっている[27]。本尊の大きさについて、しばしば「一寸八分(約5センチメートル)の観音様」と言われるが、浅草寺によれば「一寸八分」は江戸時代以来の俗説であるという[28]。
浅草寺のおみくじは、細い棒の入った両手で抱えられる程度の大きさ・重さの角柱・円柱形の筒状の箱を振って箱の端の小さな穴から棒を1本出し、棒に記された番号のくじを受けとる方式である。その内訳は、大吉、吉、半吉、小吉、末小吉、末吉、凶の7種類であり[29]、末吉まではお守りとして持ち帰り、凶を引いてしまった場合だけ、傍の結び棒にておみくじを結ぶことになっている。
招き猫の発祥については全国に由縁の地といわれるところがある中で、記録と実物、錦絵などによってその発祥が確実視されるのが、浅草寺境内である。武江年表や藤岡屋日記嘉永5年の項目には、当寺境内三社権現鳥居横にて老婆によって今戸焼製の招き猫が売りだされ大流行になったと記されている。その特徴としては背面に丸に〆の陽刻があり、「金銭や福徳を丸く勢〆る」という縁起が担がれたものであって、具体的に招き猫とも浅草観音猫とも丸〆猫(まるしめのねこ)とも記されている。同じ嘉永5年に出された錦絵「浄るり町繁華の図」には、浄瑠璃の登場人物になぞらえて丸〆猫を売る床店が描かれている。近年都内の近世遺跡からは、色のとれた背面に「丸に〆」の陽刻のある招き猫の出土が数件確認されている。これらから総合的に、実物と記録のはっきりした最古の招き猫ということができる。
その他、江戸時代の絵馬が多数保存されており、中には谷文晁、菊池容斎、鈴木其一、歌川国芳、狩野一信、柴田是真のような著名絵師の作品もある[31][32][33]。
古代から中世・近世(江戸時代)と長い歴史を有す浅草寺は、考古学上重要な歴史資料をその地下に包含した浅草寺遺跡[34]でもある。戦災で焼失した五重塔再建に先立ち1970年(昭和45年)には再建地点の発掘調査が行われ、学術的に貴重な成果が得られた。特にこの調査は葛飾区葛西城跡の発掘調査や千代田区都立一橋高校内の発掘調査と並び、それまでの日本考古学では研究対象とされていなかった中世や近世(江戸時代)の遺跡調査の嚆矢となり特に近世考古学の出発点となる学史上の記念碑的調査となった。その後も台東区教育委員会による浅草寺境内および周辺での発掘調査が地道に続けられ、従来の文献資料研究が描いてきた浅草寺および浅草の歴史像の大幅な修正を迫る発見が相次いでいる。
浅草寺では、江戸開府400年記念事業として『輝く21世紀の浅草』をスローガンに、2003年10月から本堂・五重塔・宝蔵門・雷門のライトアップを始めた。ライトアップのデザインを手がけたのは、東京タワーやレインボーブリッジも担当した石井幹子。また、2010年からは二天門が赤・青・紫と色が変化するようにLEDでライトアップされるようになった。ライトアップ時間は、毎日日没から午後11時まで。夜は本堂の扉は閉められているが、参拝はできるようにされている。日本夜景遺産指定の地域遺産。
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