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武具のひとつ ウィキペディアから
槍(やり、英: spear)は、長い柄(え)の先に鋭利な刃物を着装した道具。刺突を主目的とする猟具、武器・武具の一種。先史時代から人類が使用し続け、軍によって戦場で主要な兵器のひとつとして使われ続け、槍と銃の双方の機能を備えた銃剣にその機能は受け継がれた。鎗、鑓とも書く。
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槍は人類最古の狩猟道具・武器の一つで、人類の戦いの歴史(en:Timeline of wars)を見るとどの時代でも槍は使われており、白兵戦用武器の中で最も活躍した実用的な武器の一つである。刺突だけでなく斬撃(上にかまえて、刃先を相手の視野の外におき、頭をめがけて切りおろす)や打撃などを駆使して戦うことができる。投擲することを目的としたものは投槍という。
剣を使うより有利に戦うことができる。欠点は、大型ゆえ閉所での戦闘や乱戦には向かないことや、近接戦闘では長い柄が不利に転じ得ること、携帯に不便なことなどである。
戦闘時に相手との距離がとれることによる恐怖感の少なさや、振りまわすことによる打撃や刺突など基本操作や用途が簡便なため、練度の低い徴用兵を戦力化するにも適した武器であり、洋の東西を問わずに戦場における主兵装として長らく活躍した武器である。
槍を長くするほど、相手との距離を空けて戦えるうえに相手の攻撃が届かず優位に立てる。一方で、槍が長くなればなるほど接近戦が絶望的になるのと同時に、森林や狭所での移動や取り回しが難しくなるなどの大型の武具全般に言える欠点がある。この欠点は洋の東西を問わず認識されており、ファランクスや槍衾(やりぶすま)など野戦で槍兵の密集陣形を作り「鋭い槍先の壁」を作ることで敵を圧倒し撃破する方法が発展した。大軍と大軍が激突する戦争においては槍兵の密集陣形は圧倒的な威力を発揮する。
密集陣形で使うことを前提にしつつ、古代マケドニアの国王ピリッポス2世は、当時の常識を覆し、古代ギリシアの槍をさらに2倍ほどの長さの4.0- 6.4mに進化させたサリッサを生み出し、そのサリッサのファランクスで勝利を重ね国を大きくした。
ただし戦場での戦列が乱れた乱戦状態での使用は困難である[1]。しかし、乱戦での使用が不可能という訳ではなく、日本の戦国時代の乱戦においては槍組足軽が「横槍を入れる」といい、槍で側面攻撃する場合もある[2]。
個人戦(一対一の戦い)の場合も、俗に「剣にて槍に対抗するには三倍の段位が必要」と言われるように[3]、一定技量を持った者同士の場合、一対一の戦いでも槍のほうが剣より圧倒的に有利である。
長柄形の武器は、基本的に使用者の身長からその2倍程度までが無難であるとされるが、使用者の身長の数倍以上のものを扱う者もいる(約4〜6m)。逆に1mくらいのものもあり、片手で扱う武術もある。「無用の長物」と言うように、使用者が扱えないほど長くなれば戦闘にほとんど使えないということもあり得るので、特殊な方法(集団戦法など)を除いて自分の力量や戦術に似合った大きさのものを選ぶ方が良い。
右手で柄尻に近い側を握り、左手を前に出して支える構えから、左手の中で滑らせながら右手の力で突き出すというのが最も基本的な使い方である。重量のある長槍では両手で握り締め突進しながら突き出すほか、高く差し上げて打ち下ろす使い方も洋の東西で見られる。古代ギリシャの重装歩兵は盾と併用し片手で投槍の要領で肩の上に構えたが、いずれにしても得物の長さや状況に応じて臨機応変に構えを変えたようである。突き刺す以外にも、叩く、なぎ払う、かすめ・叩き斬る、絡める、引っ掛ける、フェイント的に柄の側を使うなど、さまざまな用法が開発されている。
日本では槍術と呼ばれる技術体系がある。槍術は、棒術と組み合わせることも多く、棒術などの他の武術体系の領域とも重複し習得内容の幅が広く、非常に難しい。とは言え、同じ長物である大剣などと比較すると、そこまで扱いづらいものではない。
槍はその威圧感を利用されることもあり、特に衛兵や門番は槍を持った姿が多い。
槍を投擲する概念も、紀元前から存在する用法である。腕の延長としてスイング半径を拡大し飛距離を増大させる槍投器が世界各地から発掘されている。投擲用の槍は、適当な重量やバランスが手持ち用の物とは異なるため、独自の発展を遂げた。古代ローマのピルムは最も高度に発展したものの一つと言える。
弓の発明・伝来がなかったアフリカ、オーストラリア、ニュージーランド、ニューギニア島、ポリネシア・メラネシア・ミクロネシア太平洋諸島圏及びハワイ諸島、南米奥地などでは、近代まで狩猟具や武器として用いられてきた。現在の陸上競技でも投げた槍の飛距離を争うやり投が存在する。
両手剣類を扱いやすくする形で槍に似た形を得た武器もある。長巻やツヴァイヘンダーなどが好例であり(刀身根元付近に刃着けしないかあるいは革柄で覆ったリカッソと呼ばれる部分を施したグレートソードや、同様に大太刀から長巻に変遷する途中に刀身中程まで柄巻きを施した中巻野太刀のように、形状は異なっても扱いが槍や薙刀に近似しているものもある)。
最初期の銃も、すでに存在していた同じ投射武器である弩には似ておらず、むしろ槍に似た長柄の先に薬室と銃身を取り付けた形態であった。その銃が発明された中国では現在でも主力小銃を「歩槍」と呼ぶなど銃に「槍」の字を充てている。
19世紀頃になるとその銃器の普及が進み、槍は取って代わられていった。しかし、戦闘時における槍としての機能の有効性は未だ健在であり、軍用のサバイバルナイフの中には柄の部分が空洞になっていて、木の枝などを挿し込んでソケット式の槍にするものもある。銃剣は剣と書くが、実質は扱い・形状共に槍(剣部=穂、銃身=柄、とも見て取れる)であり、現代の主力歩兵小銃もほぼ全てに銃剣が取り付け可能であり、実戦で使用するための訓練も行われていることから、未だもって銃剣ひいては槍は全世界で実戦配備されているとも言える。
21世紀に入っても、イギリス軍がアフガニスタン紛争において銃剣突撃で武装勢力を壊乱させた事例が存在する。その他、土木用具のシャベルも、特に塹壕戦では白兵戦用の武器の中で最も活躍した立派な武器として認知されている。現代の非対称戦においては、いかに先進した軍備を誇る大国の軍といえども、劣弱な後方部隊が襲撃される状況がままあり、銃剣を含めた兵士個々人の気力体力に依存する戦闘力の意義がむしろ大きくなっているとも言える。
軍旗の旗竿としても使われる。(そこから転じた優勝旗などの旗竿はしばしば槍を模した穂先などの装飾が施される。) 担架やもっこの代用品として、戦場で負傷者や荷物などを運ぶ道具として使用されることもある。
旧石器時代には既に人類は投石と棍棒と槍を使用していたことがわかっている。鋭い牙や爪、突進力を有する動物に対するために槍の長さは有効であり、この利点はそのまま対人の兵器としても発展していった。
古代世界では槍の使用は広まっていた。
戦斧・鎌・フック・鶴嘴・ウォーハンマー・戈など多種多様な長柄武器に発展していった。
近世以降は銃剣を着剣した小銃が狭義の槍に取って代わったが、銃剣の使用法も槍そのものである。
槍は主に、長い棒(柄)とその先端に付く硬質な部品(槍頭)の二つで構成される。基本的に衝撃に耐え得るように分厚く丈夫に作られていることが多い。
柄は最も重要な部品で、柄の造りで槍の強度が左右されると言っても過言ではない。また、状況や使用法によっては柄自体も打撃武器となり得る。そして、柄の造りは千差万別でひと括りにはできない。
柄の長さは、短いもので数10cm、長いものでは8m程度に及ぶものも存在する。断面形状は円柱形(突く・振り回す・叩くことにはこちらが使いやすい)が多いが、刃の角度が手の感覚で分かりやすく、手首のひねりで角度を変えやすい斬撃用に特化した楕円形・倒卵形、栗形(宝珠形とも:たまねぎ状)や多角形(角を丸めた三角・四角や五角〜八角、十二角〜ほぼ円に近い五十二角など)のものもある。太さは個人の好みや使いやすさにより様々であり、さらに柄に枝や節が付いているものや、木刀の柄のように木の素地を生かす・またあるいは打刀や長巻のように柄巻きを施して手だまりをよくし(握りやすい程度の摩擦力を生じさせ)打撃や斬撃に適したもの、漆や蝋などを塗り滑りやすくしたものもある。
柄は主に木製であり、特別に製作される場合を除き、地域ごとに自生し普及性のある材が最も多く用いられることが普通である。基本的には樫、栗、胡桃、椎、ブナ、梓、オーク、桜などの頑丈な木材が加工されて使われることが多い。クヌギ、ナラ、柏、カツラは、上で挙げた木々などに次いで重硬かつ柔軟性もありやや割安なので比較的利用された。磨けば光沢も美しく硬いが柔軟性には欠ける柘、椿、カヤ、ケヤキ、槐、ビワ、トチノキ、イスノキ、イチイ、柿(黒柿と呼ばれるタンニン分を多く含んだ心材)は、衝撃にやや脆くあまり長く作れないうえ、材自体も希少でコストパフォーマンスが悪い、あるいは飢救食料であるなどの理由により、美術装飾用など特別な生産の場合を含め、生産はごくわずかである。
また、日本では、室町時代後期から戦国時代にかけて一時期即席の槍として、その急務性と軽さから農民兵に貸し出し用に生産された「お貸し槍」などに杉、松、ヒノキ、サワラ、ツガなど針葉樹が使われたが、一部の特殊なもの(山岳北斜面に植えるなど日照生育を作為的に悪くし年輪が詰まって重硬・頑健になった吉野杉、北山杉、秋田杉、雨が多い地域で充分に育ち樹脂分を多く含み耐水・耐不朽性が強い屋久杉や松、ヒノキ)を除き、さほど頑丈ではないためあまり普及しなかった。
中国では元来天秤棒やもっこ、物干し竿などの竿に竹とともに日常的に使われていた、軽くてしなやかで叩き付けても折れにくい白蝋棍(白蝋樹・白蝋木とも。大陸産の柳の一種。近年での少し高級な材ではトネリコやアオダモも代用される)が汎用性もある高品質の柄として、また棒術の棍・棒としても用いられてきた(→長器械)。
後記にある熱帯性の木材が手に入りにくい大航海時代以前の欧州では、北欧などの北方地域では重硬な木材が手に入りにくいため、松、ヒノキ、栂、ヒマラヤスギ類などの比較的軽くて耐寒性と水や湿気に耐腐朽性があり普及している針葉樹系の心材や柊、アッシュ、樺が用いられ、南欧では椎、ブナ、オノオレカンバ、オーク、ウォールナット、セイヨウイチイ、マロニエ、オリーブ、月桂樹、レバノン杉、カシューナッツ、など比較的重硬な材が使われた。また、大西洋航路の確立後は北米からヌマスギも安価な用材として比較的多く流入した。また古代ローマ・ギリシアをはじめとする地中海周辺ではまだ絶滅危惧ではなかったレバノンスギが豊富に使われた。
東南アジア・中南米・西アフリカなど熱帯多雨林地域では、重硬な丁子、ムクロジ、菩提樹、ニセアカシア、ゴムノキ類など木材類や黒檀、シャム黒柿、紫檀、鉄木、タガヤサン(テットウボク)、癒創木(リグナムバイタ)、ブビンガ(プビンカ)、ローズウッド類などの最も硬質な木材類が、生育もよく、採集も容易だったため多く用いられた。
その他、軽量さや生産コストの低さを求め、強度に不安のある低品質な木材が使用されることもあったようであるが、これらは往々にして折れやすいものであった。また例外的に、装飾用・儀礼用として実戦を想定しない類のものには、柄の材料としては向かない上記以外の木材が使用されることもあった。鯨のヒゲ、イッカクの角、象牙、サイの角など、動物性の材も、儀礼・装飾用や木材の採れない地域での槍に用いられることはあるが、木材と比較すると脆く強度に欠けるのでセイウチの牙、水牛の角などとともに芯材の補強用にとどめる場合が多い。
鉄・青銅・真鍮などによる総金属造りのものも存在するが、金属部をしなやかな細身にしたり鋼管技術が発達するまでは柄として用いられたことは多くはない。これは、総金属製の柄でできた槍が重く、扱うために平均以上の膂力と全身持久力が必要となること、また寒冷・高山地では熱伝導率上持ち手が凍える、同様に熱で素手では触れないほど熱くなることもあるが(もっとも、この場合柄の表面に布・紐・革など別の素材を張り合わせれば解決できる。ただし、重い金属製を扱う場合は磨耗に耐久性のある材質でないと使用頻度により取り替えることになるのでコストパフォーマンスはそれだけ下がる)、感触が硬く衝撃の際に手がしびれる、手の内が汗などで滑りやすい、などの理由によるものである。そのため、鍛錬や己の壮健さをアピールするなどの特殊な場合以外では、熱帯地域以外ではあまり好まれて使われない。
複合素材を用いた例として、日本では室町時代後期から「ウチ柄(うちえ:打柄)」と呼ばれるものが存在する。これは、頑丈な木材ほど重くしなりがなく脆くなりやすく、柄を長くすると扱いづらいため穂先が小さく短くなりやすく、また、重硬な木材は製造が高価になるという問題を克服するためである。制作法は、厚めの竹を裂いて断面が台形もしくは三日月型・小波紋型になるように割った長く加工した竹板を、心材(木・あるいは鉄製)の周囲に放射状に巻いて円柱状になるよう取り囲んで組み(断面の構造としては〇の中に❉、あるいは❂️に近い形状)、ニカワで接着して麻紐や籐・革で巻き、さらに補強と防水・防汚をかねて漆を掛けて固めるという加工を施す。これは、敢えてあらかじめ分かれている竹板を寄せ集めて集成することで竹刀のように撓り衝撃を逃す役割がある。また、工程量に大きく差はあるものの、打ち柄より先に確立していた和弓の合成弓の製造法に類似している。ウチ柄の中でも、中心に檜を用い周囲に嵯峨竹と革を用いた柑子打は、万に一つも折れる心配がないと評されている。
一般的に穂先近くの柄に打撃や斬撃によって折れないよう補強が施されることが多く(日本では太刀打および物打ちという)、柄全体には布、皮や蔓、樹皮等を巻き付けるものや、縦に細長い鉄板を前後左右どちらかの片側か両側に貼り付けるタイプのもの、その両方を組み合わせてあるものも多い。
例外的に蛭巻きという鉄・銀・真鍮・銅合金などの蛭金というテープ状の金属帯を柄に巻き付ける手法や板金でぐるりと覆う手法もある。千段巻という元は弓を補強する技術から流用された籐や針金などで巻きつける方法もあり、これは滑り止めにもなり柄を握る際の手だまりをよくする。
日本の槍において補強を施す一番の理由は、槍の強度的な弱点である目釘の部分を補強するためにある。さらに敵を打撃した場合の破損を防ぐほか、柄に傷が入った場合、柄を削り直すか交換する必要があるが、補強部分だけの交換だけで済むことにある。また金砕棒や棍棒のように破壊力と強度を合わせ持つことにもある(中には十手のように横に鉤状の突起が出たものもある)。
補強に使われる素材は竹、籐(ラタン)、樺、蔓紐、等の植物性素材や和紙を紙のりとして用いた天然樹脂や縄や紐等の加工品、鉄や真鍮、青銅などの金属および合金素材、皮革、毛、腱、牛やサイなどの角、骨、象牙等の動物性素材や、鉱石など非金属など多様で、柄と同じく漆や蝋や膠、天然樹脂などで塗り固めて作ったものも存在する。
柄の中には鍔が付属されているものもあるが、打撃に耐え得るように太く作られている場合が多い。慣性などが大きくなるのを防ぐためか、サイズは小さくなる傾向が見られる。また、刃渡り自体が短いので鍔のリーチを伸ばすために柄の方に寄っている、または刺突時や振り回すときのストッパーや邪魔にならないように小さめにして柄の中間辺りに付くものもある。ランスでの突撃や、手元の防護や体当たりの補助のために根元辺りに鍔として付いている。
また、日本では十文字槍などのなかには打刀同様鍔を設けたものがあるほか、項目「日本における槍」でも後述するように滑り止めのための血留玉や項目「槍及び長柄武器の分類」でも後述する管槍が存在する。
槍頭(穂)は打突時の構造上強度がある三角錐状・四角錐状や刀剣の刃状、円錐状で、石製のものから金属製のものまで時代や地域によって異なる。穂先が刃状の場合、斬撃の機能もあり、同種の武器である薙刀と比較すると刃に反りがない分、刃物としての切断効率は幾分劣るが、打撃によって叩き斬ることを目的に設計されているものが多い。これは細身の刃では斬撃の衝撃に耐えるのが難しいため、無理に刃を付けるよりも、打撃力そのものを強化した方が効率的だったからである。槍の種類の発展型としてハルバードのように斧・鎌・鉤などを組み合わせ、斬撃の機能を強化する、引っ掛ける、敵刃を捕らえるなど多機能化した枝物が存在する。矛先が複数に分かれているものは場合によっては刺突の際、威力が分散されることが多く、三叉、二又などの銛と同一、戦場では多少改善されているものが主流。先端が尖ってさえいれば5cm程度の刃渡で刺突には全く差し支えなく使えるため、その他多くの槍、特に突きや打撃に特化したものの多くは刃渡が5cmにも満たず、刃が付いていないものもある。
刃と逆の先端部分は石突と呼ばれる。
さまざまなタイプがある。 そもそも、素朴な段階の槍では、槍先と反対側は木材の柄のままで、特に石突は無いものが一般的ではあった。時代が古いものでは石製のものもある。全体の重心のバランスをとったり重くしたりするため、青銅・真鍮・鉛製のものもある。量産型(数物)では簡略されたものもある。地面に突き立てる、突き立てる際の柄の保護、重心を中央に安定させるなどの他にも、先を鋭く尖らせて刺突や疾走時の補助として棒幅跳びのように槍を用いたときの接地時の支柱やブレーキ機能及び、同じ要領で流れの緩やかな河底を鎧着込みのまま潜って移動する際に錨のように一時固定する爪としての機能を持たせたものもある。錘、メイスを取り付け打撃力を強化したものなどの、攻撃用に特化されているものもある。通常の石突でも突いたり殴ったりすることは可能である。
(どこの地域?、いつの時代?に関して)「半球型の鉄製キャップが多い[要出典][要検証]」と言った人がいる [誰?]{。
石突の部分が穂先と同じように刃や剣身、針などのように鋭利な形状に作られているものも少数存在するが、実戦では自分自身や騎乗している馬、味方さえも傷つけやすいうえ、地面に突き立てられないため、扱えるのは技量が高い者に限られることからあまり普及していない。逆に日本の薙刀は基本的に地面に突き立てないため、石突は半月形等の斬り付ける用途に向いた形状が大半で、多くの薙刀術にも石突で斬りつける技が含まれている。
柄と槍頭の構成は基本的に、柄に被せる袋穂式(ソケット状)と挿し込み式(日本刀の茎(中芯・中心:なかご)のような造り)があり、単純に武器としての耐久強度としては挿し込み式の方が高いが、総合的に見ると絶対的に有利とは限らない。また、これらの接合に使われる部品は必然的に柄の補強とも統合される場合が多い。
袋穂式は、完全に包み込むものと両側で挟み込むもの、片側のみで柄と繋ぐものなどがある。柄の製作や修理が比較的容易にできる代わりに、特に斬る・打つことがし難く、造りによっては挿し込み式より頑丈になることもあるが、金属製の補強用材(鉄及び真鍮・青銅など)のため重量が膨大になりやすい(袋槍を参照)。ヨーロッパ諸国の多くや中国をはじめとする東・東南アジア諸国などで使われていた槍はかぶせ式が多い。
日本では縄文時代には既に石器や骨器の石槍や矢、銛などの狩猟具や漁具でごく短い挿し込み式を天然アスファルトで接着し接合されていた。[4][5]
挿し込み式は、途中まで半分に割った柄の間に挟む形式(柄その物が二つに分かれるものもある)と、柄を空洞になるようにくり抜き中に入れる形式などがある。修理に時間と専門技術が必要だが比較的丈夫にできるため、頑丈な槍を作りやすい。また、日本の槍の多くはこの造りであり、柄と槍頭を安定させると同時に相手からの斬撃で容易に柄から穂が斬り落とされないようにするために刃:茎の比率を1:2〜1:3と長く作る(鎌倉時代から槍と同じく台頭してきた大太刀は初期のこの構造になる前の槍の穂(袋穂か短い茎の穂)を柄ごと斬り落とすために開発された長物ともいわれている。また同様に平安時代後期に台頭してきた薙刀にも同じく槍以前に袋穂を持つ矛の穂先を斬り落とす用法がある)。
また、前述の太刀打ちと茎挿し込み式の強度を利用して足軽や農兵は長柄槍とも呼ばれるお貸し槍(貸し出された槍)で文字通り「叩き合った(≒戦った:たたかった)」[6]。これは、不慣れな長物で敵を刺突するよりも唐棹などで脱穀する動作に近い叩く方が慣れているからとも、傭兵として相手方にも雇われている身内・親類もしくは同郷の友人・知人を昏倒させるにとどめて殺傷しないように配慮したからとも言われている。
また、日本のほとんどの槍には挿し込み式・袋穂式ともに穂から柄にかけてくびれた首のようなものがあり、これを塩首(けらくび・しおくび)という。この部位は細く柄と穂を繋ぐもっとも衝撃と圧力が加わる部位の一つなので、それらを分散するように三角・平三角穂は五角柱、四角錘穂や剣刃状穂の場合は八角柱に形作られている。
槍の携行時や運搬時に槍頭(穂)の防汚・防錆や欠損防止、また人員や馬などの家畜・物資や構築物に接触した際に損傷させることを防ぐために、中世以降は戦時以外では刀剣と同じように鞘に収めることも考えられた。
材質としては西欧では皮革製、アジアでは布を巻きつける簡素な手法や陶器製・木製のものが多い。日本では打刀の鞘と同じように木製が多く、後世(少なくとも江戸時代前期)にはのりで厚く重ねた和紙を漆で固めた簡易の鞘も出てきた。緊急時に地面に叩きつけて鞘を外せるようにわざと細かく分割した木材を貼り合わせて作られることもある。さらに凝ったものや装飾用のものには西欧ではスエードや羊毛、ビロードなどを鞘の内張りにすることがあり、日本では平安時代から獣の毛皮を内側に張るなどして緩衝と防湿・防水の効果を持たせる場合があった。室町時代以降皇族や各時代の為政者・権力者が所持する高価な物や献上品等、神事の山車鉾用鞘などでは前述の西欧同様舶来輸入品であるスエードや羊毛、ビロードで内貼りされたものもわずかながらあった。また戦国末期から江戸時代にかけて、日本では螺鈿細工などの蒔絵細工を施すなど装飾する場合や家紋を入れる場合もあった。
槍や長柄武器の中には敵を威圧・挑発・威嚇するためや上司や敵に己の奮闘ぶりを見せ付けるため、個人が所有を特定するため、あるいは敵に対する目くらまし、宗教的・呪術的な儀礼や生存への渇望や戦勝祈願・加護・心理的な威力付与・敵に対し怯ませる効果を求めての護符(アミュレット)や縁起かつぎ、または闘争用ではなく元から装飾及び宝飾用であるものや、奉納・祈祷に用いるため、または補強を兼ねるためや補強を隠すために装飾を施したものもある。
日本では槍頭を保護する鞘は運搬や保護用の簡素な物が主流であるが、有力な武将は戦地において旗印となるように彫刻や塗装により装飾された物を別途用意していた。特に鳥の羽根を付けた「毛槍」が大名行列など儀仗用として用いられていた。ヨーロッパでは軍旗の竿として利用することもあった。
片手用の剣や斧などを持った相手のリーチ外から攻撃する、馬上から、あるいは馬自体または騎兵を攻撃する、盾越しに攻撃する、など、用途は多岐に渡る。欠点は、特に大型武具に多く見られる取り回しの悪さと携帯性の悪さである。
柄の長さを変えて攻撃範囲を変動させるうえ、二方向に攻撃力を持たせるため、そこから繰り出される攻防は変幻自在で、相手は慣れていなければ混乱しやすい。また、長柄による大きな回転運動や重量によって打撃や斬撃に高い威力を持たせることも可能で、遠心力、重力の活用により その破壊力は凄まじく 腕や足など骨ごと切ることさえあるという。また、腹、足、肩などを支点として梃子の原理を応用して振り回す技もある。棍棒のような使われ方もされる。槍の中には形状や流派などにより使用方法が全く異なる物がある。太刀と同じ使用法も可能。
集団戦では、人と人との間をできるだけ狭めた、密集した陣形(ファランクス:槍衾)を築き、その陣形の形や盾持ち、弓兵などの支援兵種を布陣させ防衛ラインの形成や反撃、攻撃または、騎兵を馬から叩き落とす陣形などもある。もちろんこれほど密着した陣形を取ると、振り回すことが困難になり、前方以外からの攻撃に脆く、また軍団の移動速度が極端に遅くなるデメリットがあり、ありとあらゆる解決方法が多国で試された。さらに、これらの戦法で使われる槍は5〜8mと長くなる傾向がある。
※未だ詳しく地域と時代別には分けられてはいません、ご注意ください。
槍の分類としては大きく分けて「長槍」「短槍」「投槍」に分けられるがこれらの分類に明確な違いはなく曖昧なうえ、その他の「長柄武器」との混合で厳格な分類は非常に難しくなっている(なお、この分類も正式なものではない)。
長槍は、集団同士の戦闘で効果を発揮しやすく、長ければ長いほど有利に働くために短槍から完全に分離して独立した武器となるが接近されると対処が非常に難しい武器である。
短槍は、個人戦や室内戦などの閉所で活躍しやすく、また複雑な形状をしている物も短槍が多い、また騎兵槍もここに入る。
投槍は、投射しやすいように造られた物で、短槍の中にも投射できるように造られた物も存在する。
日本における槍の一般的な構造は、木製あるいは複合材の「打柄」の長い柄の先端に、先を尖らせて刃をつけた金属製の穂(ほ)を挿し込んだもの。穂や柄の形によって、素槍(すやり)、管槍(くだやり)、片鎌槍(かたかまやり)、鎌槍(かまやり)、十文字槍(じゅうもんじやり)、鉤槍(かぎやり)など様々な種類がある。特に刃長の長いものは「大身槍」と呼ばれ、概ね刀身が1尺(30cm)を超えるものを「大身槍」として分類している。
なお日本で(現代日本語の意味で)「槍」という言葉が使われた例は、絵画では『紙本著色拾遺古徳伝』(1323年 <元亨3年>)まで辿ることができる。
日本では弥生時代より矛の使用が見られるが、槍の使用例はそれほど多くはない。その数少ない例として、宴会で酔った大海人皇子が槍を床に刺したという伝承がある[12]。
弥生時代前・中期は弓と盾と鉄矛を主力とした時代である[13]。弥生時代後期は弓と盾と鉄大刀を主力とする時代である[13]。盾を持った散兵戦の場合、手矛より刀の方が有利なのは論を要さないためである[13]。鉄大刀は中国より輸入した日本刀の前身である。
そして、古墳時代前期は両手で槍を使用し、密集隊形を組んだ[13]。歩兵の装甲が強化されたため、両手での長柄兵器の使用が可能になった[13]。中期には、槍から柄をやや短くした矛に主力武器が変わった[13]。乱戦になった場合に振り回して斬るという便利さを考えてのことである[13]。
古墳時代後期は、強化された装甲と再び盾と大刀が主力となった[13]。
剣に長柄をつけた刺・斬両用の兵器を矛、穂先が細鋭で刺突専門のものを槍という説がある[13]。
その後は矛は廃れ、平安時代末期からは薙刀のほうが普及する[14]。しかし、戦国時代後半には薙刀よりも集団戦向きであるとして、槍が普及することとなる[1][15]。
矛と槍の違いについては諸説ある(詳細は矛の項目を参照のこと)が、前述の大海人皇子が使ったとされる槍も、矛が使われた時代であることから、詳細は不明だが矛とは構造的に異なるものであったと思われる。しかしながら、矛が廃れた後で登場した槍については、同じものを古代は矛、中世以降は槍と称したと解釈して問題ないように思われる。例えば「柄との接合部がソケット状になっているのが矛。茎(なかご)を差し込んで固定する方式が槍」という説があるが、実際には接合部がソケット状になっている袋槍が存在する[16]。新井白石も槍について「"やり"というのは古の"ほこ"の制度で作り出されたものだろう。元弘・建武年間から世に広まったらしい」と著書で述べている。そして文中の記述において、"やり"には"也利"、″ほこ"には″槍"の字を充てている。
俗説では箱根・竹ノ下の戦いにおいて菊池武重が竹の先に短刀を縛り付けた兵器を発案したとされる(菊池槍)[16]。菊池千本槍は、熊本県の菊池神社で見ることができる。後に進化し、長柄の穂と反対側の端には石突きが付けられるようになった。
また、別の俗説として、藤原行定『雑々拾遺』(元和3年(1617年))6巻10丁によれば、南朝の武将和田賢秀(楠木正季の子で、楠木正成の甥)が暦応年間(1338–1341年)に、短兵(短い武器)に対して有効な武器として、手鉾(てぼこ)を改良して発明し、のちに南朝総大将楠木正儀(正成の三男)が正平10年/文和4年(1355年)の京都奪回戦(神南の戦い)の時に使用しておびただしい戦果をあげたため、他の武家も真似をして広まったという[注釈 1]。
しかし、この菊池槍が槍の始祖であるという説はデマの一種である[18]。和田賢秀が始祖というのも後世の牽強附会に過ぎない[19]。
実際には鎌倉時代中期以降には実戦で用いられていたとみられる[20]。茨城県那珂市の常福寺蔵の国の重要文化財『紙本著色拾遺古徳伝』(奥書は元亨3年(1323年)11月12日)には片刃の刃物を柄に装着した槍を持つ雑兵が描かれている。
「槍」という漢字は日本でも古くから使用されたが、本来「槍」という漢字は「ほこ」と読まれた[21]。「やり」という言葉の史料上の初見は、大光寺合戦に関する『南部文書』所載の元弘4年(1334年)1月10日に書かれた手負注文(負傷者リスト)である。この戦いは、建武政権の北畠顕家側についた曾我光高と、北条氏残党の安達高景側についた曾我道性の間で行われた。そして、「一人、矢木弥二郎以矢利被胸突、半死半生了、正月八日、」[22]と、曾我光高の部下が「矢利」で胸を突かれて半死半生にあるというのが、現在知られている最も古い例である[19][注釈 2]。なお、前記の楠木正儀は、正平7年/文和元年(1352年)に北畠顕家の弟の伊勢国司北畠顕能と共同して戦っているため(八幡の戦い)、顕家→顕能→正儀という経路で槍を有効に使う戦術が伝搬したと考えればそれほど不自然な話ではない。[要出典]
南北朝時代までの槍は貧乏人の薙刀がわりとして使われ、それほど有効な武器ではなかった[23]。14世紀以前は兵が密集隊形をとらず戦っていたためでもある[23]。
その後、戦国時代後半には薙刀より盛んに用いられた[15]。戦国時代の戦闘用の槍には大名以下の打物騎兵と徒士組が使う長さ272.7cm以下の入念な作りの「持槍」と、454.5cmから636.3cmの「数槍」と呼ばれる足軽用に量産されたものとが存在した[24]、織田信長は8.2mもの長さの槍を戦場で歩兵に使わせていたという説もある[23]。16世紀には、武将は戦でより効果的に槍を使えるようになった[23]。16世紀中ごろには槍組足軽はおよそ5mの槍を使ったが、短い槍も用いられた[23]。持槍と長柄槍は共に足軽槍でもあるが、持槍は訓練を積んだ槍足軽が使い、長柄槍は多くが農民上がりの本当の雑兵が使った[25]。戦場においては、その長大さにより、刺突よりも集団を形成して敵の頭上より振り下ろして打撃を与え、倒れたところに脇差などでとどめを刺す、という戦法に用いられることも多かったとされる[16]。また、合戦時に一番乗りで敵と槍を交えることを一番槍といった[2]。
刀で鎧を貫くのは非常に困難だが[1]、槍で突かれると貫通する場合がある[2]。大身槍なら鎧を貫き、馬の足を薙ぎ払うこともできる[1]。
また、この頃になると多くの素槍には蕪巻(かぶらまき)、血留玉(ちどめだま・ちだめだま・ちどめのたま)と呼ばれる2-3mmほどの太さの麻紐を太刀打や物打の下あたりにぐるぐると巻いて拳大の球状にし、ニカワで固めた鍔のようなものを設けた。これは、相手を仕留めた際の返り血で濡れて滑り、手だまりが悪くならないように考案された。この血留玉は返り血でニカワが溶け紐がほつれたり敵刃の斬撃で破損したりするので戦の度に換えられていた。また、つけたまま保存したとしても虫食いや湿度やカビのために維持が難しく、そのため、現存する槍の中で血留玉がついたままの物は極めて珍しい。
打柄の槍を持ち、地面に立て掛けて馬の突撃を跳ね返した[要出典]、としている書物(書名??)[要出典]がある。槍折という言葉の通り、折れて柄だけになった槍で戦うことが戦で実際にあり、その際、棒術で戦ったという記述がある[要出典]。
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