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多数の小さい弾丸を散開発射する大口径の銃 ウィキペディアから
散弾銃(さんだんじゅう、英: Shotgun)は、多数の小さい弾丸を散開発射する大口径の銃。
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散弾銃は、近距離で使用される大型携行銃で、弾丸の種類によっても特性が変わるが、散弾は概ね50m以内で最大の威力を発揮する。スラッグ弾を使用した場合でもライフルに比べ、弾は遠距離までは飛ばず、貫通力も低い。
散弾銃用の一般的な装弾(ショットシェル)はプラスチック製のケースと金属製のリムで構成され、ケースの中にはあらかじめ多数の小さな弾丸(散弾)が封入されており、銃口より種々の角度をもって放射状に発射され、一定範囲に均等に散らばり着弾する。これ以外に一発の大きな弾体を発射するスラッグ弾という弾種も発射できる。 散弾は動く対象に当てやすく、面に対しては大きな破壊をもたらすが、細かな狙撃は構造上不可能で、用途的にも考慮されない。スラッグ弾では有効射程が延長され、ある程度の狙撃も可能である。
散弾はシェルの中にあるワッズと呼ばれるプラスチック製の部品とともに燃焼ガスによって射出されるが、ワッズは空気抵抗により発射後すぐに分離し落下する。散弾は直径に応じた号数があり用途によって使い分けられる。
競技としては、クレー射撃などに使用される。これはかつては鳩を放ってそれを撃ち落としていたものだが、動物愛護・コスト・競技としてのコンディションの同一性の確保、などさまざまな理由から変更された。現在では装置によって射出された素焼きの円盤(クレー・ピジョン=粘土製の鳩)を撃ち落とす競技になっている。
猟銃としてよく使用される。動きの速い鳥類の狩猟には小粒の散弾が使用され、対象が大型の動物の場合には大粒の散弾、あるいは単体のスラッグ弾が使用される。日本国内での狩猟用ライフル銃の所持には10年以上の装薬銃所持実績が必要であるため、ライフル銃所持条件に満たない場合には、大型動物の狩猟用にスラッグ弾と散弾銃の組み合わせで代用することになる。
クレー射撃競技や狩猟用途では、散弾の飛散パターン[要説明]と速射性から中折れ(元折れ)式上下二連や水平二連銃が好んで使用されるが、銃身を2本備えることから重く、また薬室に込められた2発の弾薬を撃ち尽くすたびに装填作業が必要になる。多数の弾を連射するために弾倉を設け、ガスの圧力や反動を使って自動的に装填する半自動式(セミオート)や、手動でレバーやスライドを前後させるだけで装填できる連発式(レピータ)の散弾銃もあり、中にはこれらを必要に応じて切り替える機能がついたものもある。手動の連発式は自動式に比べて速射性に劣るものの、機構が簡単で送弾不良も少ないため、警察や軍で近接戦闘用武器として多く採用されている。
日本国内においては、銃身の1/2にライフリングを刻むことが許されており、銃身手前側に刻んであれば単体弾(スラッグ弾)発射時においても比較的良好な弾道が得られる。このような散弾銃のことを、ハーフライフルドショットガンと呼称し、スラッグ弾専用に販売されている。 もしスラッグ弾でなく散弾に使った場合、散弾が飛び散る円錐の角度が大きくなって威力が落ちたり、着弾のパターンがドーナッツ状になり中心部が薄くなるため無意味である上に、散弾によってライフリング自体も損傷する。
「スネークショット」という、拳銃で撃てる口径のショットシェルもある。文字通り毒蛇退治に用いるもので、散弾が威力を保つのはごく近距離にとどまる。また、通常の散弾銃と同じ口径のショットシェルを扱える拳銃も存在する。
近世フランスで、鷹狩りに替わってマスケット銃による鳥撃ちが行われるようになると、命中率を上げるために散弾が使われるようになった。やがて、鳥撃ちで散弾を撃つことに特化した、軽くて長銃身の鳥撃ち銃(fowling piece)が開発された。
やがて鳥撃ち銃はさまざまな用途用に発展し、船上での暴徒鎮圧用の喇叭(ラッパ)銃(BLUNDERBUSS、前装式)なども現れた。
これらはスカッターガン(scatter gun、スキャッターとも。scatter―散乱)とも呼ばれていた。
散弾は当初鉛線を刻んで丸めるなど手間のかかる方法で生産されていたが、18世紀後期にイングランドのWilliam Wattsにより、高所から熔融した鉛をこぼし落下中に表面張力によって球状になった状態で固化させて下の液体を満たした容器で変形しないように受ける方法が発明された。
歴史上ショットガンという名称が最初に使用されたのは1776年で、ケンタッキー州で西部開拓者の用語として紹介されたことが始まりである。
散弾銃は、高い阻止能力や単純な構造から、西部開拓者らによって猟やインディアンとの戦闘、犯罪行為やそれへの対抗に重要な役割を果たした。例えばOK牧場の決闘では、ドク・ホリデイがショットガンを使用した。騎兵隊などもショットガンを好んで使用した。19世紀に従来のラッパ銃より連射しやすい水平二連式散弾銃が普及されており、欧州市場にも流行していた。
1830年代後半、フランス人のカジミール・レファショーがショットシェルを発明した。
1882年、クリストファー・スペンサーとシルベスター・ローパーがポンプアクション式ショットガンを発明し、構えを崩さない連続速射が可能になった(ただしそれ以前にも、リボルバー式ショットガン、レバーアクション式ショットガンは存在した)。そして1897年でジョン・ブローニングが開発した完成度が極めて高いウィンチェスターM1897が発売したことによりポンプアクション式は普及した。
1904年、ジョン・ブローニングが世界初の反動利用式セミオート散弾銃であるブローニング・オート5を発表。1963年にガス圧利用式のレミントンM1100が登場するまで、セミオート散弾銃の代名詞として世界的なヒット商品となった。
1931年、ジョン・ブローニングの遺作となる世界初の上下二連式散弾銃ブローニング・スーパーポーズドが発売された以降、上下二連式が従来の水平二連式を取って代わり、狩猟用とクレー射撃用二連式散弾銃の主流となっている。
アメリカ独立戦争では、ジョージ・ワシントンのアイデアで、ブラウン・ベスマスケット銃に通常の単体弾と散弾を同時に詰めて使用した(バック・アンド・ボール弾)。
アメリカ南北戦争では、将兵の私物のショットガンが広く使用された。特に南軍の騎兵隊がショットガンを愛用した。その後の西部開拓時代にはコーチガンと呼ばれる銃身が短い二連散弾銃が、元軍人であることが多かった開拓者たちに愛用された。同時期、インドやパキスタンなど英国植民地領では、駐屯地への侵入者(多くは困窮した現地人であった)を射撃する目的で、制式装備のリー・エンフィールドとは別に、旧式化したスナイダー・エンフィールドをバックショット実包と共に配備していた。
第一次世界大戦は塹壕戦となり、塹壕内での近接戦闘が発生した。その中で切り詰めた散弾銃を米軍が多用したことで知られる。一例としては、ウィンチェスターM1897散弾銃が既に開戦前から制式採用となっていたが、銃剣ラグと銃身カバーとを加える改造を受けて、塹壕戦向けに配備された。同銃は構造上、引き金を引いたままポンプ操作を行うと連射(スラムファイア)ができたため、自動銃並みの速射が可能であった。こうした散弾銃の使用に対してドイツ側は、人道上の理由や鉛弾の使用について、外交ルートを通じて正式に抗議している。この抗議は最終的には却下された。
第二次世界大戦においては塹壕内が主戦場ではなくなったこともあり、ヨーロッパで使用されることは少なくなったが、太平洋戦線では多数が使用され、ジャングル戦で威力を発揮した。戦争末期のドイツ軍や日本軍では部隊を編成するための小銃が不足し、一部で徴用した狩猟用散弾銃で代用していた。
第二次世界大戦後もジャングル戦となったベトナム戦争などでも使用されたが、散弾銃は兵士の私物であることがほとんどであった。兵士にとって狩猟などで使い慣れ、構造の信頼性がある散弾銃を戦闘に使用するという発想は自然なものであった。
戦国時代の天文12年(1543年)の種子島への鉄砲伝来以降、明治維新に至るまで、日本の狩猟は主に弓矢や火縄銃が用いられており、散弾はほとんど使用されなかった[1]。
明治時代に入り、外国から元込式ライフル銃や元折水平二連銃が輸入されるようになる中、明治13年(1880年)に村田経芳の手により、日本初の元込式ライフル銃である村田銃が発明される。
この村田銃を猟銃に転用すべく、松屋兼次郎が村田経芳の指導の元、明治14年(1881年)に火縄銃の銃身を流用して開発し村田式散弾銃が日本初の元込式散弾銃となった。後に村田経芳が民間に広く村田銃のパテントを販売したことが契機となり、刀鍛冶や鉄砲鍛冶が村田式散弾銃の銃身や機関部を作り、指物師が銃台を作る状況が生まれ、日本の散弾銃産業の端緒となっていった。
有坂成章の手により明治30年(1897年)に三十年式歩兵銃、次いで明治38年(1905年)に三八式歩兵銃が開発されると、それまで制式であった軍用村田銃や洋式ライフル銃はライフリングを削り取られ、散弾銃として民間に払い下げられるようになった。
明治・大正期には英国製水平二連銃やブローニング・オート5などが輸入されていたが、この頃、原蔦三郎の手により明治32年(1899年)に日本初の水平二連銃が製造され、次いで大正3年(1914年)には岡本銃砲店の太田政弘によって日本初の上下二連銃が製造された。この時代に川口屋林銃砲店の石川幸次郎、岡本銃砲店の名和仁三郎、浜田銃砲店の浜田文次らが各種二連銃の名工として名を馳せた。
しかしこれらの輸入銃・国産ハンドメイド二連銃は専ら上流階級のハンター達が購入するに留まり、庶民の猟銃の主流は昭和20年(1945年)の敗戦まではほとんどが軍用銃の改造品、若しくは民間銃器メーカーにてライセンス製造された村田式散弾銃であった。昭和12年(1937年)に日中戦争が勃発し、日本国内が戦時体制に移行。翌昭和13年(1938年)には散弾銃をはじめとする狩猟銃は「不要不急の贅沢品」として輸入及び製造の一切が禁止される。この日本政府による禁止令は、第二次世界大戦敗戦後の昭和25年(1950年)まで継続されたが、約13年に渡り市井に新銃が全く供給されなかったことにより、戦後の狩猟銃生産解禁時に市場が一気に活性化する一因ともなった[2]。なお、第二次世界大戦末期には、連合艦隊の壊滅で組織的な海上行動がほぼ不可能となった大日本帝國海軍によって、市井に残る散弾銃5万挺余りが供出させられ、サイパンの戦いなどで海軍陸戦隊守備兵に供出された散弾銃が配備されたという[2]。
敗戦後の昭和28年(1953年)、GHQにより狩猟銃の生産が解禁されると、それまでの銃砲店に所属する銃職人によるハンドメイド体制に代わり、軍用銃・機関銃・村田式散弾銃などの製造に携わっていたミロク製作所、SKB工業[注釈 1]、晃電社[注釈 2]などが元折単身銃、上下二連銃、水平二連銃の本格的な量産に乗り出し始めた。
昭和38年(1963年)に日本猟銃精機(後のフジ精機[注釈 3])にて国産初の反動利用式セミオートのフジ・ダイナミックオートが開発される。昭和40年(1965年)にはSKBや川口屋林銃砲店(KFCブランド。製造はシンガー日鋼)も反動利用式オートに参入、村田式散弾銃が主流であった日本の狩猟界に大きな反響を巻き起こすが、1963年に米国レミントン社からガスオートのレミントンM1100が発売されると、セミオートの主流は反動利用式からガスオートに移り変わっていき、昭和40年代中期にはフジ精機、SKB、KFCの3社ともガスオートに生産の主力を移していく。
1960年代末ごろより欧米圏、とりわけ北米市場への輸出の道が開かれたことも日本の散弾銃メーカーにとって成長の追い風となった。1960年代まで米国の銃器メーカーはOEM供給元として主に欧州の銃器メーカーを選定していたが、1970年代に入り欧州各国でインフレーションが進行したことにより収益を出すことが難しくなり、より為替差損が少なく丁寧な工作精度を持つことで知られていた日本の銃器メーカーがこの頃より欧米メーカーのOEM供給元として採用される事例が増加した。日本メーカーによるOEM供給体制はトルコなど新興国の銃器メーカーが台頭する2000年代中盤ごろまで盛んに行われていたが、欧米の銃器業界関係者からの評価も非常に高く、全米ライフル協会のライターであるフィル・バージャイリーは、1984年から2004年に掛けてウェザビーのOEMを担当した新SKB工業を評して「信頼性が高く、本当に素晴らしい完成度であった」と記していた[3]。
一方、国内では1970年前後に猟銃の暴発、誤射による事故が相次いだ。宮澤喜一通商産業相は「国内の銃砲刀剣類の売り上げが年間50億円に達している。狭い国土でハンターの撃つに任せて良いのだろうか」「通商産業省としては散弾銃の製造を禁止しても良いと思っている」といった批判の声を挙げ、猟銃所持の許可や猟場、ハンターの資格など狩猟全体のあり方が厳格化される契機となった[4]。
さらにその後、1970年代後半から80年代後期に入ると日本の狩猟界全体が高齢化と新規参入者不足で内需が減少する構造不況に陥っていき、各メーカーとも生産した銃の大半を為替相場の変動で収益が安定しにくい輸出に回さざるを得ない状況となり、安定したOEM供給先が確保できなかった国内メーカーの多くが倒産・撤退していった。2000年代以降イタリア、スペイン、トルコなどの新興国の銃器メーカーが日系メーカーの価格競争力を上回る実力を付けていき、日系メーカーのOEM供給先を徐々に侵食していったことも逆風となった。
2000年代まで日本の散弾銃量産メーカーはミロク製作所と新SKB工業の二社体制となっていたが、2009年9月11日に新SKB工業が世界金融危機及び円高の影響を受けて輸出が伸び悩んだ結果、資金繰りに行き詰まり廃業に至ったこと[注釈 4][5]で、国産散弾銃メーカーは事実上ミロク製作所のみとなった。
なお、戦前のオーダーメイドスタイルでの散弾銃製作を現在でも行っている工房として、三進小銃器製造所が存在する。
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散弾の材質としては、比重が重く球形散弾への加工が容易な鉛が一般的であった。これらは「レッド(リードは発声間違い)ショット(lead shot)」と呼ばれる。
鉛は、水に容易に溶け重度の重金属汚染を引き起こし、また、強い金属毒があり重篤な中毒(鉛中毒)を引き起こす物質でもあった。狩猟時に使用された散弾を鳥が砂や小石にまじってついばみ、砂嚢内で微粒子化して消化器から吸収されることで、水鳥は鉛中毒に陥る[注釈 5]。また、鉛中毒で死んだが獲物とされずに放置された個体・弱った個体が他の鳥獣に食べられることによって生物濃縮され、生態系上位者に向けて連鎖的に鉛中毒が拡大した[注釈 6]。そのため、鉛の散弾から軟鉄製の散弾へ切り替える無鉛化が行われるようになった。鉄の散弾は「スチールショット」と呼ばれる。
デンマークでは、1985年に、ラムサール条約登録湿地での鉛散弾の使用が禁じられた。アメリカ合衆国では、1991年-1992年猟期から、水鳥とオオバンの狩猟について、全面的に鉛散弾の使用が禁止された。カナダでは、鉛被害が重い場所を指定し、1990年から鉛散弾の使用が禁止されている。日本国内でも鉛散弾による狩猟が禁じられている地区がある。
また、クレー射撃場でも、雨水などに溶出した鉛が検出されるなどして、問題化した。環境団体などの指摘により、公営及び私営ともにクレー射撃場が一時閉鎖ないしは今もなお閉鎖され続けている事例がある。北欧では既にクレー射撃公式競技でも軟鉄装弾が使用されているが、米国では薬剤散布による鉛毒の中和や特殊ネットによる鉛散弾の全回収を併用するなど、各国の動きにはそれぞれ差違が見られる。
軟鉄散弾は、鉛散弾と比べて「素材の比重が軽いため威力が落ちる」「硬いため銃身に与える衝撃が大きい(特にチョークの部分)」「高価」といった欠点があった。威力低下については使用散弾をやや大きくし、かつサイズが大きな実包を用いて弾数が減少しないようにすることで、対策とすることができる。銃身については、軟鉄散弾対応銃身を使用することで悪影響を避けることができる。しかしながら、旧来の鉛散弾用散弾銃では軟鉄散弾に切り替えた場合、鉛散弾を用いた場合と同様の威力は維持できない。そのため、狩猟用散弾銃には「鉛散弾時代のもの」と「軟鉄散弾が登場したあとのもの」との間で、多少の世代差が認められる。最近ではこうした鉛散弾時代のものにも鉛散弾と同じ感覚で使用できる非鉛性の散弾(タングステンやビスマスが用いられる)も登場してきた。
軟鉄散弾が広まることで、鉛散弾とは異なる新たな問題が起きることを指摘する意見もある。軟鉄散弾は通常、保存時の腐食を防ぐためにメッキが施されている物が多いが、猟場に放出され長期間放置されることで錆が発生し、流れのない溜め池などでは大量の軟鉄散弾による錆が浮くなどの問題が起きる可能性が指摘されている。
狩猟が王族・貴族の趣味として定着していた欧米諸国では、古くから政治家や文化人の多くが散弾銃を用いた狩猟や射撃を趣味としており、クレー射撃もその文化から発展してきたものであった。近年の米国ではディック・チェイニー米国副大統領(ジョージ・W・ブッシュ政権)が狩猟を趣味として公言している政治家として著名であり、2006年にはウズラ猟の最中に散弾銃で友人を誤射する事故を起こしてしまっている[6]。テレビ番組でも散弾銃を用いた狩猟や射撃を主題としたものが成立しており、メリッサ・バックマンのような女性のハンター兼パーソナリティも活動している。
日本でも徳川将軍家以来の伝統を持つ鴨場が存在していたことにより、明治時代以降は明治天皇[注釈 7][7]以降の歴代天皇を筆頭に、皇族や華族、士族の中でも没落を免れ富裕層の地位を獲得していた者達等に欧米から輸入されたり、国内の鉄砲鍛冶の手で製造された散弾銃を所持して「趣味としての狩猟」[注釈 8]を愉しむ階層が形成されていたが、第二次世界大戦以降は芸能人や文化人の少なからぬ数が相互交流の場としてクレー射撃を活用しており、2017年現在も「芸能文化人ガンクラブ」として活動を継続している。同クラブは1960年(昭和35年)から1965年(昭和40年)に掛けて活動した映画人ガンクラブを母体としており[8]、1976年(昭和51年)前後にザ・ドリフターズのリーダーであったいかりや長介が発起人となって1978年(昭和53年)に正式発足したもの[9]で、著名なメンバーでは高木ブーらドリフメンバー全員[9]、森繁久弥、三船敏郎、三橋達也[注釈 9][8]、梅宮辰夫、松方弘樹、ジョージ川口らが所属しており[9]、名誉会長としてクレー射撃選手でもあった麻生太郎元内閣総理大臣も在籍[9]、1988年(昭和63年)時点では正会員43名、会友130名もの規模に達していた[8]。しかし、2010年代中盤以降は会員の高齢化や銃規制の強化により散弾銃の所持許可を返納する会員や死去に伴う退会者も増えており、存命者も海外旅行の際に現地の射撃場で銃を撃つ程度に留めている者も少なくないという[9]。
散弾銃は、古くから軍や警察が近接戦闘用武器として採用している。散弾銃は機構が簡単であることから安価で機械的な信頼性が高いため、塹壕戦やジャングル戦、あるいは室内戦と行った極至近距離の戦闘に用いられる。特に出合い頭の戦闘に強く、隊の先頭を務めるポイントマンが使用することが多い。室内戦闘においては扉の蝶番を破壊する際にも使用されるためマスターキーとも呼ばれており(戸板そのものに穴を開けるのは能力的に不可能)、各国の軍隊でドア破り用途専用の散弾実包の開発を行っていたが、1980年代にはナイツアーマメント社がレミントンM870をベースにM16シリーズ向けのアンダーバレル・ウェポンとしてナイツアーマメント マスターキーを開発している。
アメリカでは軍において第一次世界大戦時の塹壕戦用に使われたことからウィンチェスターM1897の短銃身モデルが「トレンチガン」(trench-gun)、警察では暴徒鎮圧用に使われることが多いために「ライアットガン」(riot-gun)とも呼ばれる。“散弾を浴びたら命はない”という威力がよく知られ、装備していれば独りで道路封鎖が可能なため、パトロールカーには必ず搭載されている。これらの銃は戦場や群衆の中での取り回しを考慮し狩猟用散弾銃より銃身が短く、装填できる弾数も多くなっている。また、銃床が折り畳み式になっているものもある(英語版では「ライアットガン」と「ライアットショットガン」は別の銃である。下記の各種非致死性武器全般が「ライアットガン」、散弾銃だけが「ライアット・ショットガン」)。
市販実包の種類も多いために号数やスラッグを状況に応じて選択でき汎用性があるのも、散弾銃の利点である。実包サイズが大きいために用途に応じた軍・警察用の特殊弾も開発され、主なものに防弾ベストなどに対する貫通力を高めた多針弾頭弾(フレシェット弾)、暴徒鎮圧用弾丸として催涙弾(CN弾)やゴム弾(スタン弾)、ビーンバッグ弾、RIP弾などがある。さらに近年では、実包状の電撃弾なども実用化されている。また、ランチャー(発射筒)を銃口に付けて、手投げでは届かないような高層階の部屋へ催涙ガス弾・煙幕弾を撃ち込む擲弾発射器の代用としても使われる。
銃種としてはU.S. AS12のように機関銃のような全自動にも設定できる(セレクティブ・ファイア)のもの、SPAS-15のように箱型弾倉(ボックスマガジン)で多弾数と短時間での弾薬交換を可能にしたもの、ベネリM3のように状況や故障時に半自動式(セミオート)とポンプ式の切替可能なもの、さらにはAA-12のようなフルオート式のものもある。また、M26 MASSの様に、M4A1やM16シリーズを中心としたアサルトライフルのハンドガード下に装着し使用する物もある。いわばアドオン型擲弾発射器のショットガン版であり、これが「どんな扉も開ける鍵」“マスターキー”と呼ばれる。
軍用・警察用は狩猟用に較べて殺傷力が高いわけではないが、装弾数が多いなどの理由により治安上の観点からほとんどの国では一般人の所持が制限されている。日本でも12番を超える口径は、トド猟などの許可がある場合以外は制限されている。銃所持に寛容なアメリカでも銃身や銃床を切って全長18インチ(45センチ)以下としたもの―いわゆるソードオフ・ショットガン(イタリアではルパラとも呼ばれる)を一般人が許可証なしで持つことはアルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局(BATFE)が厳しく制限している(全長の短縮により隠匿しての携行が容易で、狭い空間でも扱いやすく、銃口付近のチョーク(絞り)が除去されることで、発射された散弾がすぐに拡散、至近距離の殺傷能力が増大するために、銀行強盗など屋内での犯罪に利用されやすいことから。持っているだけで強盗予備罪に問われる)また、軍用銃と指定され所持が制限されている散弾銃も少なくない。
日本国内では一般の警察官は散弾銃を所持していない。しかし、特殊急襲部隊(SAT)にはモスバーグM500が配備され、室内戦闘において扉の蝶番や強化ガラスを破壊する際に使用している[10]。また、海上保安庁では、レミントンM870、モスバーグM500が配備され、逃走船追跡の際に使用されている。自衛隊では陸上自衛隊が機種不明の散弾銃を採用しており、海上自衛隊も護衛艦の搭載火器としてベネリM3T[11]を採用している。
口径寸法は12ゲージの.730インチを基準とする。メーカーによって同じチョークでも口径に若干の差違が見られることもある[12]。
日本においては、散弾実包は「装弾」と呼称される。
ゲージ番号は1ポンドの鉛球の(1/ゲージ)直径に対する一定の割合の実包を使用できる口径を持つ物をさす。
号数 | 直径 | 鉛弾10g当たりの個数 | 軟鉄弾10g当たりの個数 |
---|---|---|---|
TT | 5.84mm | 8 | 12 |
T | 5.59mm | 10 | 14 |
FF | 5.33mm | 11 | 16 |
F | 5.08mm | 13 | 19 |
BBB | 4.83mm | 15 | 22 |
BB | 4.57mm | 18 | 25 |
B | 4.32mm | 21 | 30 |
1 | 4.06mm | 25 | 36 |
2 | 3.81mm | 30 | 44 |
3 | 3.56mm | 37 | 54 |
4 | 3.30mm | 47 | 68 |
5 | 3.05mm | 59 | 86 |
6 | 2.79mm | 78 | 112 |
7 | 2.54mm | 120 | 174 |
7 1/2 | 2.41mm | -- | -- |
8 | 2.25mm | 140 | 202 |
8 1/2 | 2.16mm | -- | -- |
9 | 2.03mm | 201 | 290 |
10 | 1.75mm | -- | -- |
号数 | 直径 | 鉛弾10g当たりの個数 |
---|---|---|
000B | 9.1mm | 2.2 |
00B | 8.4mm | 2.9 |
0B/SG | 8.1mm | 3.1 |
SSG | 7.9mm | 3.4 |
1B | 7.6mm | 3.8 |
2B | 6.9mm | 5.2 |
3B | 6.4mm | 6.6 |
4B | 6.1mm | 7.4 |
実包は規格により全長が定められている。この場合の全長とは散弾やスラッグをクリンプする前のケース長であり、適合した長さの薬室で発射する必要がある。12番の場合は標準が2・3/4インチであるが、ケース長を伸ばした3インチのものもある。3インチの実包は、より大きな破壊力と遠射性を得るために薬量や弾重量を増やしたもので、3インチマグナムとも呼ばれる。鉛散弾においては純粋に射程と散弾量のさらなる増大のために3インチケースが用いられるが、軟鉄散弾では2・3/4インチクラスの鉛散弾と同様の威力を確保できるように薬量を増強する意味で用いられる。3インチ薬室の散弾銃では2・3/4インチ弾の使用が可能であるが、2・3/4インチ薬室で3インチ弾を用いるとケース先端が銃身内に入り込んで異常腔圧による銃の損傷を招く恐れがあるため、購入の際には自分の銃の薬室長を事前に把握しておく必要がある。
散弾の実包はケースに収める散弾の重量による種類があり、12番の2・3/4インチ(75mm)では24グラムから32グラムまでの商品が通常弾として販売されている。クレー射撃公式競技では現在では24グラムのみが用いられるが、自動散弾銃でのクレー射撃向けに28グラムや32グラムの射撃装弾も販売されている。狩猟用では28グラム以上の物が主流であるが、クロスボルトのない一般的な水平二連銃では30グラムまでの装弾を用いることが推奨されている。 強装弾では2・3/4インチ(33グラム、36グラム、43グラム)、3インチマグナム(56グラム)がある。
銃器の歴史上、元折式は英国でほとんどの機構が発明された[62]。
2017年現在、日本の銃刀法施行規則及び鳥獣保護法施行規則上は、下記の手動連発式及び半自動散弾銃は弾倉2発、薬室1発の計3発まで装填できるため、狩猟用として広く用いられている。海外では箱型弾倉、管状弾倉共により大容量の替え弾倉や延長弾倉が用意されている場合もあるが、日本国内で所持することは禁じられている。
日本では1971年(昭和46年)の銃刀法及び鳥獣保護法施行規則改正までは、ブローニング・オート5をはじめとする半自動散弾銃は管状弾倉に4発まで装填可能であったため、薬室の1発と合わせて5連発であり、水平二連や上下二連に対して自動五連銃と呼ばれた[72]。米国では反動利用式が主流であった1960年代中ごろまでは管状弾倉を延長し、5連発以上に改造[注釈 23]して鳥猟を行うことが当たり前であったが、1918年(大正7年)に米連邦法として施行された1918年連邦渡り鳥条約法(連邦鳥類規正法、MBTA)に基づき、第二次世界大戦後に合衆国魚類野生生物局は狩猟で用いる半自動散弾銃の最大装填数を3発まで[注釈 24]と規定し、連邦各州も次第にこの規制に基づく州法を適用していった[73]。日本は1970年(昭和45年)にMBTAを基にした日米間条約である渡り鳥条約に批准し、翌1971年(昭和46年)に銃刀法及び鳥獣保護法施行規則を改正する形で半自動散弾銃の弾倉装填数を最大3発に規制。この時、従来の自動五連銃は銃砲店などで装填数減少のための改造を施すよう通達が行われ[74]、その後最大2発の現行法に至るまで同様の措置が行われた。なお、米国では護身のために半自動散弾銃やポンプアクション式散弾銃を所持する者も多いことから、銃器メーカーの多くは管状弾倉内に弾倉を分解しなければ取外し不能な樹脂製のプラグを挿入したり[75]、管状弾倉に横からピンを打ち込むなどの方法[76]で装填数を制限して出荷しており、狩猟銃として用いない場合には装填制限を所有者の任意で解除することが許容されているのが現状であるが、狩猟・有害鳥獣駆除・標的射撃以外の用途で散弾銃を使用することが許されていない日本では、制限を解除する行為は銃刀法及び武器等製造法違反であり、銃刀法第13条に基づき年に一度行われる銃砲全国一斉検査[77]や、大日本猟友会が所轄する狩猟指導員による猟場の巡回指導などによってこうした違法改造に対する厳しい監視体制が敷かれている。そのため、豊和工業など一部の国産メーカーでは国内向け仕様において弾倉そのものを短縮して制限の解除自体を行えない対策を施す例も見受けられた。
散弾銃は銃刀法により基本的に所持が禁止されているが、一般人でも地元の公安委員会に申請し試験を受ければ、合法で所持することができる。しかし、歴史的には散弾銃を用いた重大犯罪が度々起きており、その度に銃規制が強化されてきた経緯がある。著名なものでは1938年の津山事件、1970年の瀬戸内シージャック事件、1972年のあさま山荘事件、1979年の三菱銀行人質事件、1987年の赤報隊事件、2002年の宇都宮主婦散弾銃射殺事件などがある。
近年では、散弾銃を使った犯罪や事故が相次ぎ問題になっていた中、2007年(平成19年)12月14日に長崎県の佐世保市にあるスポーツクラブ・ルネサンス佐世保店で散弾銃乱射事件が発生して大きな社会問題となり、各マスメディアを含め散弾銃所持の厳格化の声が高まった。そして日本の警察は散弾銃所持者の訪問を開始した。民主党が、全銃器の共同管理と狩猟時間を朝6時からの短時間に限定する事実上世界初の所持完全禁止に近い法案を3月に提出したが、国会で否決された。
実際には、狩猟人口の減少による有害鳥獣の農作物被害などに悩まされている地方公共団体も多く、現状では警察組織に、個人が所有する銃を管理するための権限・用地もない[注釈 27]といった実情のため、大胆な規制強化はできなかった。
かつては銃砲店での対面販売や、地元猟友会・射撃協会への相談を経ての所持(その際に自然に入会となり、地元組織が所持者の情報を把握できた。)が多かったものが、近年ではインターネットの普及やECサイトでの販売解禁により、こうした既存組織に全く所属しておらず、警察以外に所在の実態が把握できない所持者が増えている[注釈 28]ことも課題の一つとなっている。
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