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映画監督 ウィキペディアから
工藤 栄一(くどう えいいち、1929年7月17日 - 2000年9月23日)は、日本の映画監督である。本名は同じ。北海道苫小牧市出身。
沼ノ端の商家に生まれ、8人兄弟の長男。弟にはニッセイバックステージ賞を受賞した舞台大道具背景制作者の工藤和夫、フィールドホッケーメキシコシティ五輪日本代表の工藤明朗、家業を継ぎ苫小牧で画家としても活動する工藤裕司がいる。
北海道庁立苫小牧中学校から慶應義塾大学予科を経て1952年、同大学法学部を卒業。同年4月、東映に入社。最初は本社の企画部を経て、1954年、京都撮影所に転属、同撮影所製作部助監督となる。
1959年9月、『富嶽秘帖』で監督に昇進。以後、時代劇黄金時代の東映で、数多くのチャンバラ活劇を手がけた。1960年代中期、チャンバラもののブームが過ぎた後は、集団抗争時代劇を手掛け、『十三人の刺客』(1963年)、『大殺陣』(1964年)を生み出す。特に『十三人の刺客』では、第11回京都市民映画祭で監督賞を受賞している。1960年代後半から東映の新たな主流路線となった任侠ものでも、『日本暗黒史・血の抗争』(1967年)、『日本暗黒史・情無用』(1968年)のやくざ映画を手がけた。
この時期と前後して、1970年代には舞台をテレビ映画に移す(おりしも60年代からの邦画の斜陽化で、多くの監督がテレビ映画に進出していた)。特に朝日放送(ABCテレビ)制作の人気時代劇「必殺」シリーズでは、2作目の『必殺仕置人』から演出に参加。一時期を除き、60本以上を演出。劇場映画『必殺! III 裏か表か』でもメガホンを取る。また日本テレビ系の伝説的ドラマ『傷だらけの天使』でも最多の6本を手掛けた。
1980年代から再び映画に復帰、『その後の仁義なき戦い』(1979年)、『影の軍団 服部半蔵』(1980年)、『ヨコハマBJブルース』(1981年)、『野獣刑事(デカ)』(1982年)、『リング・リング・リング/涙のチャンピオンベルト』(1993年)などを監督した。2000年9月23日、脳幹出血のため死去。71歳没。
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