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広島市南区に位置する地区 ウィキペディアから
宇品(うじな)は、広島市南区に位置する地区であり、ここでは「宇品」を町名に冠する地区の総称として用いる。
「宇品」という地名は広島湾頭の一島嶼の名称として歴史に登場する(宇品島 / 現在の元宇品。#地名と地誌参照)が、現在の宇品地区は、宇品築港事業(1884年(明治17年)着工)の結果造成された広大な新開地(埋立地)として成立した。1887年には、この「宇品新開」は広島区(広島市の前身)に編入され「宇品町」となった。さらに1889年11月に築港が竣工すると宇品島(当時は安芸郡仁保島村内)がこの新開地と地続きになった(宇品島は1904年2月、広島市に編入され同年10月には元宇品町と改称した)。
1894年に日清戦争が始まり広島(当時、山陽鉄道の西の終着点であった)が軍事拠点として注目されると、同年8月山陽鉄道により広島~宇品間に軍用鉄道が敷設(のちの宇品線)された。これにより宇品地区・宇品港には続々と兵員が輸送され、この地区は大陸進出の前進基地とみなされた。なお1894年に作られた唱歌「港」(旗野十一郎・林柳波作詞、吉田信太作曲)は当時の宇品港の賑わいを歌ったものである。さらに1897年に広島陸軍糧秣支廠、1902年に陸軍運輸部が設置されたことで、宇品の兵站基地化は決定的なものとなった。その後1911年には陸軍糧秣支廠に全国一の規模をもつ缶詰工場が建設されている。
一方、宇品地区は市街地としての発展も著しく、1915年(大正4年)には、宇品線に続く第2の鉄道線として、地区西端(京橋川東岸)の土手沿いの道に広島電軌(広島電鉄の前身)の路面電車線が敷設され、のちの広島電鉄宇品線となった。この路線は1935年(昭和10年)にやや東よりの宇品本通に移設され現在に至っている。1933年には錦華紡績の工場が宇品町東部(現・宇品東のマツダ宇品工場)に設立された。
また、主要な文教施設としては、1921年に(旧制)広陵中学校(広陵高等学校の前身)が現在の宇品御幸一丁目に設立(その後1973年沼田町に移転し、跡地は再開発され、みゆきプラザ(イオンみゆき店・みゆきパークマンション)になっている)され、1935年には広島女子専門学校(県立広島女子大学⇒県立広島大学の前身)が桜土手沿い(現・宇品東)に移転(現在地)した。
1945年8月6日の原爆被災に際し宇品地区はその大半が爆心地から3km以上隔たった位置にあり、「半壊地区」とされているものの比較的被害が軽微であった。このため、宇品に駐屯していた陸軍船舶司令部(通称「暁部隊」 / 当時江戸家猫八・丸山眞男らが所属していたことでも知られる)は被爆直後から市街地中心部での救援活動に中心的役割を果たした。
敗戦後、かつての広大な軍用地・施設は民間企業・官庁などに払い下げられて民需に転換されることとなり、この地区に進出した施設のうち最大の企業であるマツダにより、1966年には東部の埋立地が造成された。また、戦前から進められていた地区西側の海面(京橋川河口)の埋め立ては戦後になって本格化し、現在の出島地区として造成された。1951年には金輪島が仁保町より宇品町に編入され、1968年には宇品町が宇品東・宇品神田・宇品御幸・宇品西・宇品海岸・出島に分割されほぼ現在の住居表示が確定した。近年の宇品地区は、再開発の目玉として多くの商業施設が建設・出店しているほか、地区の南端を通過する広島湾岸道路の造成にともない南部を中心に大きく街並みが変わろうとしている。
おおむね東部の工業地区(宇品東)、南部の港湾地区(宇品海岸)、西部の商業・住宅地区(宇品神田・宇品御幸・宇品西)に3大別され、これらに公園地区としての元宇品が加わる。
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