広島市中区の町 ウィキペディアから
京橋川・元安川(上流は本川)に囲まれたデルタの最南端に位置する。かつては広島大学をはじめとする多くの学生が学業に励み生活していた市内有数の文教地区として知られていたが、近年の大学移転により学生街としての性格は次第に薄れつつある。また、戦前から多くのRC造建築物が立地していた関係で、広島大学旧理学部1号館を筆頭にいくつかの被爆遺構が現存している。
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広島県立文書館所有の戦前の絵葉書。戦前、千田町地区に立地していた学校および施設(広島文理科大学本館を除きいずれも現存しない)。 | |
[絵葉書](広島文理科大学・高等師範学校) 広島高等師範学校(着色)。 | |
[絵葉書]((広島名勝)文理科大学) 広島文理科大学。 | |
[絵葉書](広島高等工業学校 正門) 広島高等工業学校。 | |
[絵葉書](広島県立職工学校) 広島県職工学校。のち県立広島工業学校。 | |
[絵葉書写真複製](千田町火力発電所外景) 広島電灯千田町火力発電所(1923年頃)。のち中国電力千田町変電所。 | |
[絵葉書](広島貯金支局) 広島貯金支局。のち広島地方貯金局。 |
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アメリカ国立公文書記録管理局が所有する米軍撮影写真。 | |
Hiroshima aerial A3374千田町から北西方向を撮影。広島文理大本館(E型の建物)・赤十字病院・貯金支局など焼け残った鉄筋の建物が確認できる。被爆後の火災により全焼し壊滅した北半部と比べ、火災を免れた南半部の被害が小さいのが分かる。なお写真の右下近く、文理大の右側を斜めに走っている水路が平田屋川。 | |
Hiroshima aerial A3395皆実町から西方向を撮影。中央の川が京橋川でその対岸が千田町。 | |
Hiroshima aerial 3 Aug 46 A3466千田町から北方向を撮影。 | |
Hiroshima aerial A3396旧制修道中学上空から東方向方向を撮影。写真右(南側)の帝人広島工場が壊滅しているのが分かる。 |
宇品港(現在の広島港)を築港した当時の広島県令(現在の県知事)の千田貞暁、あるいは彼に因んで命名された地区内の「千田通り」に由来する[1]。
千田町はもともと藩政期に広島湾頭に造成された新開地(埋立地)である。当時の広島城下国泰寺村と国泰寺沖新開に跨がる位置にあり、村内を通る平田屋川・西塔川の2運河は後年、千田町(旧町名)地区の東西の境界となった(後出)。明治期になって京橋川を隔てた宇品港の築港事業が行われると1885年には村内を横断し市中心部と宇品に至る新道と御幸橋が建設され、新道は当時の広島県知事・千田貞暁に因み「千田通り」と呼ばれるようになった。さらに大正期の1912年にはこの千田通りに現在の広島電鉄宇品線が敷設・開業し交通の整備も進んだ。そして1916年になって国泰寺村から分割されて千田貞暁または千田通りの名に因む「千田町」が新設された。
1902年以降、この地区には山中高等女学校(のち広島女子高等師範学校)・広島高等師範学校に始まって進徳高等女学校(1909年)・県立広島工業学校(1911年)・広島高等工業学校(1920年)・修道中学校(1926年)・広島文理科大学(1929年)などの高等・中等の教育機関が新設・移転により立地するようになった。この結果、千田町は文教都市としての広島を象徴する町となり、この一帯は急速に宅地化するとともに、下宿・書店・飲食店などが立ち並び学生街が形成された。
また地区の南半部には神戸製鋼広島工場、広島電灯千田町発電所が建設、神戸製鋼の撤退後にはその跡地に帝人広島工場が進出するなど工場地区としての発展をみた。このうち広島電灯千田町発電所は、1920年の竣工当時は最新鋭の発電設備を備えており、この発電所の稼働によって広島市内で電灯が一般に普及するようになった。また同年操業を開始した帝人広島工場は一時は約18.000人の工員が勤務するなど大工場として発展したが、1935年の岩国・三原工場新設により一時閉鎖に追いこまれ、以後は研究所のみが存続した。しかし1938年には操業が再開され、戦争末期にはここに本社が疎開してくるなど活気を取り戻しつつあった。
1945年8月6日の原爆投下に際しては、千田町地区はおおむね爆心地から1.5 - 2.5km前後に位置しており、北半部は全焼もしくは全壊、南半部はやや被害は小さかったもののほとんど半壊地域であり、建物疎開や公共機関での勤労奉仕のため動員された学徒も含め多くの人的・物的被害を受けた。地区内では最大の医療施設である赤十字病院も大きな被害を受けたが早い時期から殺到する被爆者の治療に当たった。なお当日正午前、市中心部方面から被害の小さい宇品へと避難するため御幸橋西詰に集まってきた人々を中国新聞カメラマン(松重美人)が撮影しており、当日の市街地の状況を知るほとんど唯一の写真となった。またRC造のため焼け残った数少ない建物の一つである広島貯金支局局舎の地下室には多くの負傷者が避難し、当日夜の出産の光景を描いた栗原貞子の詩「生ましめんかな」の舞台となった。1977年には千田町一丁目地区の原爆慰霊碑として「ふりかえりの塔」が建立されている。
戦後、都市計画の施行によりこの地区では千田通りが拡幅され、また駅前通り、御幸橋西詰通り(中央通り)などの主要市道が新たに敷設されるなど、道路・区画の整備が進み現在につながる街並みが形成され[2]、1959年には鷹野橋交差点付近から広大正門前付近に至るまでの約300mの千田通りに面した店舗を「千田町商店街」として商店会組織が発足した。また、県立広島工業高等学校が出汐町に移転したものの、1949年には前記の広島高師・広島女高師・広島工専(高工)・広島文理大などを包括して新制広島大学が発足し本部キャンパスが置かれたのでこの地区は市内随一の文教地区であり続けたが、その一方で原爆で壊滅的被害を受けた帝人広島が敗戦直後に閉鎖されるなど工場地区としての性格は薄まった。1956年には広島赤十字病院内に広島原爆病院が併設され、被爆直後以来の救護活動を基礎に被爆者医療のメッカとなった。
1980年代以降、広大は東千田町の本部キャンパスが手狭になったことから本部および主要学部キャンパスの東広島市移転を進めることとなった。これに対し地元住民は大学関係者と連携して「広大発祥の地」としてキャンパスの存続運動を展開し、「東千田キャンパス」として一部施設(通信課程・夜間学部施設など)を残すことに成功した。しかしほとんどの大学施設は1995年までに新キャンパスに移転してしまったため、千田町地区は文教地区として陰りをみせるようになり、書店・大衆食堂・レコード店など学生向けの店舗も次第に減少し、2014年現在では中等以上の教育機関として、広大東千田キャンパス以外には修道中学・高校を残すのみである。
1980年代後半以降、千田町地区の南半部では、原爆で焼け残ったため整備が遅れていた地域の再開発がようやく本格化し、1992年に南千田橋および広島市道霞庚午線の開通によってほぼ現在の街路が整備されるに至り、また広大工学部キャンパスの跡地に千田公園などが整備され文化施設の立地が進んでいる。その一方で、広大本部キャンパス跡地である東千田公園では整備が停滞しているため町の未来像は完全には明確化していない。こうした停滞ムードに抗して1997年以降、地元住民・市民・広大生および行政がタイアップして「千田わっしょい祭り」が開催されている[3]。
名称はいずれも廃止・消滅時点のもの。
広島築城に際して資材を運搬するため掘削された2つの運河があったが、現在は埋め立てられている。
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