Remove ads
アメリカ・ロサンゼルスにある日本人街 ウィキペディアから
リトル・トーキョー(英: Little Tokyo)は、ロサンゼルスのダウンタウン内にあるアメリカ最大の日本人街の通称である。「Lil' Tokyo」、「小東京」などとも呼ばれている。転じて、日本国外にある日本人街全般のことを指すこともある。
リトルトーキョーの東端、全米日系人博物館そばの外壁には「ロサンゼルスの小東京は、我々の心の故郷です」と書かれた壁画が描かれている。
19世紀末に数万人の日本人がこの地に移住。この地域は19世紀中期はドイツ系移民が数多く住んでいたため、「リトル・ベルリン」などとも呼ばれていた。リトルトーキョーの基となったのは日本人漁民だった「チャールズ・カメ」こと茂田濱之助という人物が開店した日本食店「カメ・レストラン」である。ここから日本人移民がこのエリアに移住して来たといわれる。
学校、教会等、当時の日本人に必要とされていた物品・サービスを販売する店舗等が徐々に増えていった。1905年頃から、現在のリトルトーキョー、小東京と呼ばれるようになったといわれている。1909年、当時日本人会長だった甲斐政次郎は、生花栽培と流通を担う南カルフォルニア花市場株式会社を設立し[17]、この生花流通システムを全米に拡げた。ただ、日曜の営業や低賃金女性労働者利用には社会からの批判もあり、1913年にカリフォルニア州外国人土地法が施行された[18]。
市民権獲得資格の無い外国人の土地所有が制限されていったものの、20世紀に入り移民が急増したことにより、1930年代には35,000人もの日本人がロサンゼルスに移住、その多くはここに居住していた。なお、リトル・トーキョーに隣接するボイル・ハイツ地区は日系移民やユダヤ系の住居が数多くあり、「生活の場はボイル・ハイツ、職場はリトル・トーキョー」というのが一般的であった。
1941年12月に日米間で開戦されると、人種差別を背景にした政令が施行されたために全米の日系人は強制収容され、資産も没収された。リトル・トーキョーでも日本人の姿を見ることはなくなり、代わりにアフリカ系アメリカ人の姿が目立つようになる。
数人のアフリカ系アメリカ人ビジネスマンは、このエリアに商工会議所を設立し、名称を「リトル東京」から「ブロンズヴィル」に変更した。日系人の街からアフリカ系アメリカ人の街に変貌した。戦後、日系人がこのエリアに戻って来ると、土地の値段が上昇、アフリカ系アメリカ人達は立ち退きを余儀なくされた。
第二次世界大戦後の1940年代後半には、リトル・トーキョー周辺に数多くの日本人、日系人が定住した。映画館も「ラブレア東宝」、「富士館」等5軒程あり、日活、東映、東宝、松竹等、日本のメジャー各社が劇場を運営した。こうした邦画専門館は「日本とアメリカのへその緒」ともいわれ、遠い祖国へ想いを馳せる日系人の憩いの場となった。1960年代には、寿司カウンターを備えた日本食レストランが誕生、アメリカにおける寿司文化発祥の地ともされる。
3世、4世に世代の中心が移ってアメリカ社会に同化した。高学歴かつ裕福な層が増加した新世代の日系人達は、地価が高く治安も良く、さらに「アメリカ・トヨタ自動車販売」や「ホンダ・オブ・アメリカ」、「リコー・アメリカズ・コーポレーション」などの多くの日系企業がオフィスを構えるロサンゼルスの南部に位置するオレンジ郡やサウスベイ地区(トーランス市、ガーデナ市)、北側に隣接するグレンデール市などに住居を構え始め、それに併せて日本企業の駐在員もこれらの地域に住居を構えるものが増えた。また日系人向け、日本人向けのレストランや店舗もそれらの地域に移り、リトル・トーキョー地区の日系人口が減少して行った。やがてリトル東京は日本からの観光客や駐在員とその家族向けを対象とした店舗が増えた。1977年にはニューオータニ・ホテル・アンド・ガーデンが開業。21階建てで、洋室のほかに和室や日本庭園があり、日本からの旅行者や出張者が利用。日系人や日本人の会合の場としても頻繁に使われた。1980年にはWeller Courtが開業し横浜おかだや、松坂屋、紀伊国屋書店などが入店し、また同年にはHonda Plazaが開業し、日本人(日系人)の経営による小規模店舗の商店街ができた。三井銀行、三菱銀行、住友銀行の支店もできた。1990年代には「加州毎日」や「新日米」、「クロスロード」等の老舗日系新聞メディアが次々と日系社会から姿を消した上に、総領事館もダウンタウンに移転した。
21世紀に入ると、新居住区計画として数多くのアパート・マンション等が周辺に乱立していく。ただし、購入者の多くは韓国系であった。このようなアジア系人口の増加を受け、リトル・トーキョーの人口は数年後に4倍になるともいわれている。
韓国や台湾、中国等と違い、日本政府・行政との交流がほとんどないことや、高学歴かつ裕福な層が増加したこともあり、上記のように現在では日系人(日本生まれの新日系人を含む)や駐在員でここに居住する者はあまり見られない。韓国系や中国系のビジネスオーナーの姿が目立ち、東南アジア系の客の姿も少なくない。このため、チャイナタウン等のようなロビー活動等がまったく行われていない。また、リトルトーキョーを訪れる日本人観光客も減少していた。
しかしながら、人口増加を受けて2010年代にスターバックス・コーヒーや日本発のラーメンチェーンなど深夜営業の店舗が多く出店したことなどで、深夜まで多くの客で賑わいを見せるようにもなり、かつてのような閑散とした様子とは様変わりしつつある。
近年は都市再開発の影響により、立ち退きを余儀なくされている日系商店も少なくなく、リトル・トーキョーが存続の危機にあるとして、民間非営利団体である歴史保護ナショナル・トラストは2024年5月1日に本地区を存続の危機にある歴史地区に指定した[16]。
ロサンゼルス通り、アラメダ通り、一番街、三番街の4つの大きな通りに囲まれている。リトル・トーキョー周辺部だけでなく、ロサンゼルス南部に位置するトーレンス地区やガーデナ地区に住む日本人や日系アメリカ人に日本の娯楽や食事、仕事を提供する場となっている。また、日本人向けの銀行や病院、弁護士事務所なども多い。
リトル東京地区に隣接するアート地区(アーツ・ディストリクト、Arts District)には数千人のアーティストが居住しており、こうした住人もリトル・トーキョーの新しい利用者となりつつある。現在はアメリカ人向けの日本的な街に変化しつつある。なお近年、アーツ・ディストリクトのロフトがオシャレであるということで、裕福層の間で人気が高まり家賃が高騰するジェントリフィケーション現象が起こっている。無名アーティストが居住することが難しくなっており、芸術家が流出しているといわれている。
1999年から新たに始まったロサンゼルス市の「LAルネッサンスプロジェクト」はロサンゼルスのダウンタウンを新しい町に作り変えた。ロサンゼルスのダウンタウンはこれにより多くの地域に分かれ、リトル・トーキョーは「Little Tokyo Disctrict(リトル・トーキョー地区)」と呼ばれるようになった。
2006年現在このプロジェクトの効果もあって、リトル・トーキョー内に5つのコンドミニアムプロジェクトが進行しており、1棟が完成、完成前に完売しているコンドミニアムも見られる。こうした動きのなかで、地元3大スーパーマーケットもこぞってリトル・トーキョー内に店舗を開店、100円ショップや日本のアンティークなどを置く店もできている。
また、新しい傾向として、スターバックス・コーヒー、クイズノス・サンドイッチ、サブウェイ・サンドイッチ、アメリカンアパレルなど日本食以外のチェーン店も軒を並べるようになった。一方で、一番街の北側の建物は歴史的建造物に指定されており、西本願寺羅府別院など市指定の重要文化財や国定史跡に名を連ねるものもある。
2009年、全米日系博物館の向かい側にメトロ・ゴールドラインのリトルトーキョー/アーツ・ディストリクト駅が完成した。ゴールドラインは2019年現在、ダウンタウンのユニオン駅を介して、アズサのAPU/シトラスカレッジ駅とイーストロサンゼルスのアトランティック駅を結んでいる。現在、17カ所の駐車場を完備しているが、人口の急激な増加には対応し切れておらず、これを理由にリトルトーキョーに足が遠のいているのも実情である。
ロサンゼルス市は、人口の流入が治安維持のキーポイントとなるとして、リトル・トーキョー内に交番を配置した。リトル・トーキョー防犯協会が地区内を巡回し、より安全な街づくりを手がけている。なお、南隣のスキッド・ロウは非常に治安が悪い地域である。
2023年現在、リトルトーキョーには約70のレストラン飲食店が営業している。
以下の刊行物は全てリトルトーキョーで入手可能。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.