ウッチャンナンチャンは、マセキ芸能社に所属する内村光良と南原清隆からなる日本のお笑いコンビ。通称「ウンナン」「UN」。
概要 ウッチャンナンチャン, メンバー ...
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- 内村 光良(うちむら てるよし、1964年〈昭和39年〉7月22日 - )(60歳)
- 熊本県人吉市出身。身長170 cm、体重66 kg。血液型はAB型。
- 愛称、ウッチャン。
- 南原 清隆(なんばら きよたか、1965年〈昭和40年〉2月13日 - )(59歳)
- 香川県高松市出身。身長174 cm、体重63 kg。血液型はAB型。
- 愛称、ナンチャン。
1984年、横浜放送映画専門学院(現:日本映画大学)での漫才の講義にて一緒に組んだのをきっかけとしてコンビ結成。講師を務めていた内海桂子・好江の薦めで、マセキ芸能社所属となる。ウンナンを初めて見た好江は2人の才能を見抜き、「この2人を絶対に逃しちゃダメよ!」と涙ながら檄を飛ばしたという。また、好江の薦めで在学中から渋谷・見番寄席や、『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系)のオーディションに出演[1]。卒業後の1985年に同番組でテレビデビューを果たし、本格的な活動を始める。なお、その頃のコンビ名は「おあずけブラザーズ(おあずけシスターズをもじって命名)」であった[注 1]。
ショートコントというジャンルを確立させた第一人者でもある[2](p67)。
1987年、専門学校の同期である出川哲朗・入江雅人らと劇団SHA・LA・LAを結成、演劇役者としても活動。内村は脚本と演出も担当した。なお、長谷川初範が先輩であったことをラジオ等でネタにしていた。
1988年に放送を開始したフジテレビの深夜番組『夢で逢えたら』で知名度が上昇、1990年代にはとんねるずやダウンタウンに続き、「お笑い第三世代」として若年層を中心に多大なる人気を獲得。
1989年から1995年まで『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)のパーソナリティも担当した。
1990年にフジテレビ系列『とんねるずのみなさんのおかげです』の休止に伴い、後番組のメインとして2人が抜擢され『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』がスタート。『夢で逢えたら』のテイストを下地にゲストを交えて作りこんだコントを演じ、再び人気を博す。『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』が半年間の放送を終了、時間帯を土曜夜8時に改め『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』として再出発。時事ネタや人気ドラマ、ミュージシャンを題材としたパロディーコントで高視聴率を得た。
また、『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』(日本テレビ系列)は、当時の日本テレビのバラエティー黄金期を支えた中心的な番組の1つで、番組の全盛期である1996年〜1999年まではほとんどの回で視聴率が20%を超えていた時期もあった[注 2]。『ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャーこれができたら100万円!!』(テレビ朝日系列)、『ウンナンの気分は上々。』(TBS)、『笑う犬の冒険』(フジテレビ)など民放各局で人気番組を生み出し、一躍1990年代を代表するコンビとなる。
結成10年目となった1995年頃から、お互いの話し合いにより単独での活動も始めるようになる[3]。近年はコンビでのテレビ出演は限りなく減少傾向にあり、2022年現在はコンビ名義でのレギュラー番組は存在しておらずコンビでの仕事は単発特別番組の司会やトークライブなど、ごく僅かに限られている[注 3]。内村はゴールデンタイムの番組、南原は昼の帯番組を中心にMCを担う機会が増えている。またタレント活動以外でも内村は映画制作、南原は現代狂言やスポーツキャスターに自身のブランドでの味噌作りなど、2人とも幅広い分野でソロ活動を行なっている。
コント
若手の頃は当時普及し始めたコンビニエンスストアやレンタルビデオショップ、おたくなど80年代後半の若者の生活を中心に据えたコントを得意とし、「都会派コント(シティ派コント)」と評された。そのような評価について当時のメンバーは「俺たち田舎出身なのに(内村は熊本県、南原は香川県出身)」と戸惑っていたが、「田舎出身だからこそ、都会の若者の様子を客観的に観察できた」と自己分析している。
ネタ作りの際は、内村が自分のやるギャグだけ書いて南原の台詞のみ適当(「ああ」「うん」など)にしておき、稽古の時に南原が台詞を作りながら面白い部分を拾い上げていき徐々に一つのネタにしていくという手法だった。またウンナンがコントや番組で披露したギャグは、ほとんどが劇団で一緒だった入江の考えたギャグをパクっていたと暴露したことがある。その場には出川も同席していたが内村曰く「哲ちゃんのギャグは面白くなかったからパクらなかった」とボケており、実際テレビでは出川の口癖「ヤバイよ」「チェン(出川だけが使っている内村のあだ名)」をモノマネしている。
なお、漫才については「難しくて出来ない」らしく、若手の頃は漫才番組への出演時にコントのネタを漫才に置き換え(所謂コント漫才)披露していた。また、南原はかつてM-1グランプリの審査員を務めていた[注 4]。
「ショートコント」の確立
新人時代は7分〜10分間程度という長尺のコントを演じていたが、ラ・ママ新人コント大会などで交流があったジャドーズの影響で「短めのコントを連発する」スタイルのネタを多く作り上げた。そのネタ中では、それぞれ冒頭に「(ショート)コント、○○」と称してからネタに入るスタイルを用いていた。そしてウンナンはネタと共に人気を獲得、「ショートコント」というネタのフォーマットは後の芸人にも甚大な影響を与えた[5]。
「短いネタを連発する」という意味でショートコントの源流は上記のジャドーズや、パート2の『4コマ漫才』に見られるという評価もある[6]が、渡辺正行は「ショートコント」というフォーマットを名称と共に一般的に認知させたのはウンナンであると評している[2](p67)[7][8]。また、デビュー当時に「ラ・ママ新人コント大会」で共演していた太田光(爆笑問題)は「ウッチャンナンチャンがショートコントをやって流行らせて、そうしたら他の芸人がみんなウッチャンナンチャンの真似(ショートコント)をやり始めた」と語っている[9]。
「M-1グランプリ2010」において南原が審査員を務めた際には、デビュー当時の映像と共に「『ショートコント』というスタイルを確立し、落語や狂言など芸の真髄を追い求める…」と紹介された。
役割
他のコンビに比べて、ネタにおけるボケとツッコミのような役割がハッキリしていない。『気分は上々。』内でインターネット投票により「どちらがボケか?」をファンに決めてもらい、当時は「南原がボケ」という結果になった。しかし、本音は2人ともツッコミになりたい様子だった。自称ではそれぞれ内村が「天然」、南原が「ハプニング」。よってボケとツッコミはケースバイケースとされている[注 5]。逆説的に考察すると、2人ともフリートークやネタでボケ・ツッコミをこなせる高い技量を持ったオールラウンダーとも言える。南原は『ウンナンタイム』にて2人のスタイルを「スイッチ型」であると表現している。
立ち位置に独特のこだわりを持っている。フリートークやネタの際には、「内村が上手(かみて、客から見て右側)、南原が下手(しもて、客から見て左側)」。しかし、番組などでMCを担当する際は「南原が上手、内村が下手」となっている。内村曰く「(テロップが)『ウッチャンナンチャン』と出るので、それに合わせた」とのこと[10]。従ってネタをほとんどやらない現在ではほとんど後者の立ち位置になっており、その印象が強くなっている。
コンビ名
「ウッチャンナンチャン」というコンビ名は、南原の思い付きから命名。デビュー当初は「ウッちゃんナンちゃん」表記だった(『森田一義アワー 笑っていいとも!』で発言)。まだコンビ名で迷っていた頃にお笑いスター誕生の収録時、番組スタッフへコンビ名を変更したい旨を告げると「もう『ウッチャンナンチャン』で作ったから(変更できない)」と断られ、そのまま定着してしまった。デビュー前は「ちょうなんず(2人とも長男だったため)」や「かんなビール(南原の家が大工、内村の家が酒店だったため)」、「気合い&楽しく(『ウリナリ』内で候補として内村が出してきたと南原が暴露)」などの候補も考えられていた。
1987年10月28日放送『ウッチャンナンチャンのオールナイトニッポン』では南原が持参してきたコンビ結成直後のネタ帳に2人が考えた芸名が書かれてあり、内村案の「信用金庫(非常階段に対抗)」「新撰組」「ハングリー」。南原案の「おてもやん(内村が熊本出身だったため)」「UN(ウン)」「NAU(ナウ)」「ニキビブラザーズ」「貧乏&貧相」「赤尾さんの犬達」「おあいこポン」「WA・HA・HA・HA・HA」「てる坊&きよ坊」が候補に挙げられていた。
母校の日本映画学校に2人とも講師として赴いた際、当時俳優科の生徒だった狩野英孝に「なぜナンチャンウッチャンではなくウッチャンナンチャンなんですか?」と尋ねられ、南原は「あいうえお順です」と答えた。
その他
- 直接の師弟関係に当たる、所謂「師匠」がいるわけではないが内海桂子・好江は、2人の師匠的な存在。好江からは「何があっても仕事に穴を開けるな」と教えられていたが、好江の葬儀には2人とも仕事の合間を縫って駆け付けた。
- 専門学校時代に2人が仲良くなったきっかけは互いに大林宣彦の映画が好きということで、これが後のコンビ結成に繋がる[11]。『気分は上々。』の第1回では2人の原点の再発見という内容で、大林映画の舞台である尾道への2人旅の模様を放送した[12]。
- 同じ『気分は上々。』内のタイムカプセルを埋めようという企画で、2人が1年後の自分と相方へのビデオレターを撮って1年後にタイムカプセルが掘り起こされるはずだったものの、埋めた場所が更地と化したことで掘り起こせなかった(お互い何を託したのか永遠の謎となってしまう)。
- 専門学校時代は内村は南原を「南原」、南原は内村を「ウッチャン」と呼んでいたがコンビを組む以上立場は対等だと考えた南原は「内村」と呼ぶよう改めた。
- 同じお笑い第三世代であるとんねるずとは、『オールナイトフジ』『夕やけニャンニャン』といった番組で同じレギュラーとして一時期共演していた。
- 『夢で逢えたら』で共演し、ほぼ同期にあたるダウンタウン(ただしダウンタウンは1982年デビューのため先輩)とは、松本人志曰く「戦友」及び「同じ釜の飯を食った仲」と呼ばれる関係。松本曰く「ウンナンが売れて嬉しいことはないが、かといって売れなくなるのは嫌」と語っている。さらに、内村もダウンタウンを「戦友」と語っている。
- デビュー当時は内村が(人見知りで)フリートーク等が苦手であったため、南原が率先して前へ出ることが多かった。そのため、内村は「ウッチャンナンチャンが売れたのは南原のおかげ」と発言している[13]。なお、内村は(デビュー当時の)自分達と似たような関係性のあるコンビの例としてオードリーを挙げている[注 6]。また、勝俣州和も「世間では内Pなどの影響で『ウッチャン=プロデューサー』というイメージかもしれないが、ウッチャンナンチャンの本当のプロデューサーはナンチャン。ウッチャンが今でもテレビの中でプレイヤーとしていられるのはナンチャンのおかげ」と語っている[2](pp68-72)。
- 解散はしていないが、現在はコンビとしての共演はほとんど無く、2人とも「お互いの電話番号を知らない」(当時)、「楽屋は別じゃないと嫌」などと語るため一部では不仲説も流れているが、2人は「本当に仲が悪かったらとっくに解散してる」と否定しており、お互いの出演番組などは常にチェックし、トークライブではお互いに感想を述べたりしている。また、南原の携帯電話に(電話番号を知らないはずの)内村から直接電話がかかってきた際には「(長女が生まれる時期の)嫁さんに緊急事態が起きて相方である俺に連絡してきたと思った。(直後に始まる)生放送をドタキャンしてでも駆けつけるつもりだった」と語っている。なお、内村が電話をかけたのは「松ちゃんが結婚するんだって!」と伝えるためで、番号はマネージャーに教えてもらったという[14]。2019年10月6日放送のスペシャル番組『日テレ系人気番組No.1決定戦』にて共演した際は内村が「南原におやすみのLINEスタンプを送った」と発言しており、現在は連絡先を双方が知っている状態である[15]。
- デビューした年(1984年)は持ちネタが少なく、夏祭りの営業で30分間のステージのうちの最後の5分間の尺が余ったため、サザンオールスターズの「ミス・ブランニュー・デイ」をものまねもせず普通に歌って乗り切った逸話が存在する[16]。
- ダウンタウンの構成作家である高須光聖は、ダウンタウンの世界は「濃い一色」に対してウンナンの世界は「無色透明」と評している。また、「ダウンタウンは企画が彼ららしくないと全然ハマらないけど、ウンナンはどんな企画をふっても上手にさばいてくれるし、ちゃんとハマるから視聴者も安心して観られる。どんな色にも染まる」と分析している。
- お笑い評論家のラリー遠田は「ウッチャンナンチャンとはどういう芸人なのか? この問いに答えるのは意外と難しい。ウンナンがどういう芸人に見えているかは、受け手の世代によっても大きく変わってくるからだ。(中略)彼らは、自分たちのキャラクターを前面に押し出すよりも、番組の企画に自分たちを合わせていくような形で活動していたため、彼ら自身のイメージをつかむことは難しい。彼らは、時代ごとのニーズに対応しながら、キャリアを積み重ねてきたタイプの芸人なのである」と分析している[17]。
- 笑福亭鶴瓶は「ウンナンの笑いって優しいんですよ。攻撃的な笑いが多い中で、優しい笑いを作ってきた2人が中心に出て、今も一線でいるのは必然だと思う」と評している。また、「僕は誰かとつるむことはあまりないけど、唯一つるむとしたらウンナンの2人」とも語っている[2](p64)。
- 『笑いの殿堂』で共演していた爆笑問題は、自身のラジオ番組で「ウッチャンナンチャンほど人間が綺麗な人たちはいない」と語った。若い頃の太田は嫉妬からウンナンの悪口を吐いていたが、「悪口を言ってるのをわかっていても、ウッチャンナンチャンの2人は変わらない接し方をしてくれた。自分が嫌になる。人の悪口言ってるところを見たことない。俺たちは人の悪口や不幸をネタにするが、ウッチャンナンチャンのネタは綺麗」などと語った。また、デビュー当時の爆笑問題はコントをメインに演じていたが、漫才に転向するきっかけはウンナンであり「ウッチャンナンチャンがショートコントをやって流行らせて、そうしたら他の芸人がみんなウッチャンナンチャンの真似(ショートコント)をやり始めたから、自分たちはあえて漫才の方に行った」とのこと[18]。
- 「お笑い第三世代」の先輩にあたる石橋貴明(とんねるず)は、自身がMCを務める『うたばん』にネプチューンが出演した際に「ウッチャンナンチャンは(後輩の育成もちゃんとやって)偉い」と発言している。
- 多くの番組で共演してきた勝俣は「ウンナンって田舎っぺなんですよ。だから、ネタや番組の切り口が田舎者目線になっている。日本人のほとんどって実は田舎っぺでしょ?だから視聴者は(生粋の東京出身である)とんねるずには憧れを持ち、ウンナンには共感したんですよ」と評しており、これには同席していた出川も同意している[2](pp68-72)。
- 「お笑い第三世代」のとんねるず・ダウンタウンの2組との共演経験のある中居正広が、ダウンタウンがMCの番組とウンナンがMCの番組との違いを語っており、ダウンタウンの場合は「いい意味での緊張感がある」、ウンナンの場合は「スタッフを含めてみんながファミリーの空気感がある」と語っている。
- レギュラー番組で共演している近藤春菜(ハリセンボン)が「楽屋に挨拶に行くと、ダウンタウンさんやさんまさんはいい意味での緊張感があるが、ウンナンさんは親のような感じで接するので若手としてどうしていいかわからない」と語っていた。
- 素晴らしきEnglishの世界(英語講座):専門学校の漫才の授業でコンビを組んだ際に初めて作ったネタで、また、2人が初めてテレビで披露したネタでもあり「ウッチャンナンチャンのデビュー作」とも呼ばれる。手がけたのは内村で、南原は授業当日の朝に初見[3]。初披露の際には想像以上にウケ、講師であった好江から「新しいパターンだ」と絶賛されたという。
- マザコン刑事シリーズ:「お笑いスター誕生」内で演じていたコント。
- 卒業:「お笑いスター誕生」内で演じていたコント。
- ファミリーレストランシリーズ:ウンナン初期の代表作。ウェイター編・ウェイトレス編などの数パターンが存在する。
- 対決シリーズ 日比谷線VS銀座線:「ファミレス」と同様に代表作の1つであり、所謂「擬人化コント」。後に「ウリナリ」でも披露した。この他にも「大江戸線vs南北線」「山手線 外回りVS内回り」などもある。鶴瓶はこのネタが一番好きだと語っている。また、対決シリーズとしては「アメリカ横断ウルトラクイズ(NTV)vs連想ゲーム(NHK)」「VHS vs ベータ」等、鉄道以外にもある。
- レンタルビデオショップシリーズ:倉本聰脚本編、山田洋次監督編など数パターン存在する。2016年のインタビューで内村が「自分のコント(コンビのネタ)で一番好きなコントは?」という質問にこのネタを挙げた上で「一番の出世作だと思う」と答えている[19]。
- ミニスカート:わずか10秒ほどで終わるショートネタ。複数パターン存在する。タモリはこのネタを「単純だけど、その分テンポと間が難しい」と評した。
- タクシードライバー
- 親友:数パターン存在するショートネタ。後にこのネタをベースしたコントが「笑う犬の冒険」で放送された。
- 社交辞令を許さない
など多数
なお、渡辺正行によると口で「ウィーン」と発しながら自動ドアが開く様子の表現はウンナンが開発したという[5][20]。
- 『お笑いスター誕生!!』関連
- 1985年5月11日 第5回オープントーナメントサバイバルシリーズ 準優勝
- 1986年1月11日 第6回オープントーナメントサバイバルシリーズ 第3位
- 1986年7月5日 第7回オープントーナメントサバイバルシリーズ 優勝
- 1988年 第26回ゴールデン・アロー賞芸能賞 「新人賞」
- 1990年3月 平成元年度第6回浅草芸能大賞 「新人賞」
- 1991年 第29回ゴールデン・アロー賞芸能賞
- 1992年 第16回日本アカデミー賞「新人俳優賞」「話題賞(俳優)」(映画『七人のおたく』で)
ウッチャンナンチャンとしての出演作品を記載。個別での出演作品は内村光良、南原清隆の項目を参照。
テレビ番組
過去の出演番組
- ゲスト出演番組(2020年代以降)
本来単発ゲストなどは記載されない傾向にあるが、2010年代以降に入ってコンビ揃っての出演は希少となったので記載。
- レギュラー番組
- 劇団SHA・LA・LA(1987年 - 1993年)
- ピンクの電話とジョイントライブ「ちゃんと肩までつかりなさい」(1988年)
- ピンクの電話とジョイントライブ「TOKYOの放火魔」(1988年)
- ウッチャンナンチャンライブ「THE BUST」(1989年)
- B-21 SPECIALとジョイントライブ「平成元年お笑いベストヒット」(1989年)
- ウッチャンナンチャンライブ「盆踊りライブ」(1989年)
- 笑いの殿堂〜自画自賛〜(1989年)
- 笑いの殿堂〜星降る夜お逢いしましょう〜(1990年)
- 笑いの殿堂〜1991年謹賀新年〜(1991年)
- 笑いの殿堂〜WAKE UP URBANIST〜(1991年)
- ウッチャンナンチャンライブ「BALLADS まぶしくて君が見えない'91」 (1991年)
- ウッチャンナンチャンライブ「01〜ジェットコースターで行こう〜」(1993年)
- マセキライブ'98〜お祭り〜(1998年)
- ウッチャンナンチャン 21世紀大冒険(2001年)
- ウッチャンナンチャントークライブ(2007年 - 2011年)
- 劇団SHA・LA・LA「DONNA SUMMER NIGHT」(2010年)
- 今、僕達にできる事 (オールナイトニッポンパーソナリティーズ、1993年5月21日)
- 風を受け走る君には怖いものは何もない(UN'z、1994年6月1日)
- 「UN'z」は、自称「ウンナンの友達」の松木隆(南原清隆)と稲田研二(内村光良)のデュオ。グループ名と名前はB'zのパロディ。『ゲッパチ!UNアワーありがとやんした!?』の主題歌。
- Happy Xmas -War is over- (ウリナリオールスターズ、1999年2月17日)
プロデュース
- 今でも……今なら…… (大神いずみ)
- 妹のように (長女隊)
- 世界で一番素敵な奇跡 (マセキ里穂)
- TWIN TWINブラブラ (メロン組)
注釈
『ウッチャンナンチャンのオールナイトニッポン』の企画でリスナーに配布した「裏カセット2」に、この当時の漫才が収録されている。なお、司会者からは「ナンチャンウッチャンのおあずけブラザーズ」と紹介されており、名前の並びが現在と逆だった。
そのため、金曜日に東京ドームの巨人戦が組まれていた場合は巨人戦を優先し番組を休止していたが、消化試合の際は番組を優先した。
2022年のコンビでのテレビ出演は、12月8日放送の『あなたは知ってる?知らない? 超レア映像遺産ショー〜日本テレビ70年の映像から大捜索!』(日本テレビ系列)での司会が唯一だった[4]。
例として「ファミリーレストラン」のウェイター編では「内村がツッコミ、南原がボケ」であるが、ウェイトレス編では「内村がボケ、南原がツッコミ」になる。また、地下鉄のネタのように「ダブルボケ・ダブルツッコミ」の場合もある(「笑う犬の冒険」内のコント「ハチ」での内村の発言より)
ただし、南原は全面に出て仕切ってくれるが、春日は「トゥース!」と立っているだけと評している。
当初は2011年3月11日に放送予定だったが、東日本大震災に伴う『NNN緊急特番 宮城・茨城沖大地震』のため、放送延期となっていた。
出典
僕の「日本人の笑い」再発見 狂言でござる ボケとツッコミには600年の歴史があった(祥伝社、2010年)
集英社「週刊プレイボーイ」2020年2月24日号No.8 157頁
大阪ゲラゲラ学会編『もうひとつの上方演芸』、たちばな出版、1997。
『いろもん』(1998年、日本テレビ)出演時のトークより。
内村さまぁ〜ず「潰しが効く男たち」にて発言。司会でも内村が右側にいた当初、しばらく「ナンチャン」と呼ばれていたとのこと。
ウッチャンナンチャン トークライブ「立ち話」より。
ぴあMOOK『内村光良ぴあ』(ぴあ株式会社、2016年)
“日本旅行の「赤い風船」 20年迎えさらに飛躍 新キャラはウッチャンナンチャン”. 交通新聞 (交通新聞社): p. 2. (1992年1月22日)