青木村
長野県小県郡の村 ウィキペディアから
長野県小県郡の村 ウィキペディアから
青木村(あおきむら)は、長野県小県郡の村である。同県のほぼ中央部に位置する。農山村であり、温泉地、義民の里、あるいは東急グループの創業者五島慶太の出身地などとして知られる。
長野県の東信地方または上田地域に属し、それぞれ最も西に位置する。東西は約8キロ、南北は約10キロ。標高500〜850メートルの平地や段丘などに住家や農地が分布する[1]。
面積の8割を山林が占め、農地は1割程度である。これらの農林業が基幹産業で、米、ソバ、マツタケ、山菜、ワインなどが出荷・生産されている[1]。商工業では合金鋳造会社、物流倉庫会社などが立地する。
上田市への通勤率は47.40%(2015年国勢調査)で、同市のベッドタウンとなっている。上田市まで車で30分程度、北陸新幹線を使えば東京へ2時間余りという利便性から、移住者の受け入れにも村を挙げて取り組んでおり、2016年の宝島社出版「田舎暮らしの本」によるアンケートで「日本一住みたい『村』ランキング」の1位となった。
義民の里とされ、江戸時代~明治時代最初期には現在の村域にあたる地区から上田騒動をはじめとする一揆[2]が5回発生した。旧上田藩領の各地で「夕立と騒動は青木から来る」と言い伝えられてきたほどである。今も「義民の里 青木村」と書かれた看板が村内にある。
1889(明治22)年4月の町村制施行で、6つの村が合併して発足。それ以後、1957(昭和32)年に一部地区が合併した以外は村域は大きく変わらず、平成の大合併も拒否し、村名も不変のまま現在に至る。ただし現在の村は1957年を新制青木村誕生と位置づけており、この年に改めて村長選と村議選を行っている。
村名は現在の青木中学校の南付近に生え、東山道の道しるべだった「ねずみさし」(ネズ)の木に由来する。青々と茂る名木で、木のある青木村田沢地区の小字「青木」の由来となった。村の発足3年前の1886(明治19)年4月、当時の田沢村青木に近隣の学校4校が統合されて「青木学校」(現青木村立青木小学校)が発足。1889年の合併の際に新しい村名の選定が難航する中、学校の名でもあり、希望に輝く新しい村の名称にふさわしいとして「青木村」が選ばれた。このネズ木はその後に切られることになったが、村民有志が根を掘り返して3分割し、小学校、中学校、文化会館に保存されている[3][4]。
村の中心部から見ると北、西、南の三方を山に囲まれ、東の塩田平、上田盆地に向かってなだらかに下る。この三方の主峰は古くから青木三山として親しまれている。
これらの山の頂上からは、上田盆地を一望できる。
村域は千曲川(信濃川)水系になる。村の西部の山間部の水を集めた田沢川と、南部の山間部の水を集めた沓掛川が村中央付近で合流し、浦野川となって東流、上田市へと至り、千曲川に合流する。
青木村と全国の年齢別人口分布(2005年) | 青木村の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 青木村
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
青木村(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
村内の遺跡からは縄文時代の土器片、石斧、石匙などの石器が出土している[5][6]。律令制下では保福寺峠から上田方面へと現在の村域を東山道が通過し、浦野駅が置かれた。京と東北を結ぶ交通の通過点となり、この地域に仏教や都の文化が広まったとみられる[7][8]。
代 | 人 | 氏名 | 就任 | 退任 | 備考 |
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青木村長(村議会互選)[9] | |||||
初 | 1 | 本田與四郎 | 1889年4月1日 | 1891年10月16日 | |
2 | 2 | 堀内真一郎 | 1891年10月23日 | 1895年8月26日 | |
3 | 3 | 金井喜悦 | 1896年6月4日 | 1896年11月16日 | |
4 | 4 | 佐伯鐘吉 | 1897年1月21日 | 1898年3月31日 | |
5 | 5 | 増田鹿重 | 1898年4月16日 | 1899年4月24日 | |
6 | 3 | 金井喜悦 | 1899年4月24日 | 1901年2月8日 | |
7 | 5 | 増田鹿重 | 1901年2月19日 | 1903年4月22日 | |
8 | 6 | 丸山満吉 | 1903年5月8日 | 1907年5月7日 | |
9 | 5 | 増田鹿重 | 1907年5月8日 | 1911年5月7日 | |
10 | 1 | 本田與四郎 | 1911年5月8日 | 1915年5月7日 | |
11 | 5 | 増田鹿重 | 1915年5月15日 | 1919年8月31日 | |
12 | 7 | 小林直次郎 | 1920年6月2日 | 1929年1月22日 | |
13 | 8 | 若林幸一郎 | 1929年4月14日 | 1933年4月13日 | |
14 | 9 | 小林虎之助 | 1933年4月14日 | 1935年10月27日 | |
15 | 10 | 沓掛嘉助 | 1935年11月3日 | 1936年4月10日 | |
16 | 11 | 堀内政雄 | 1936年9月16日 | 1946年3月2日 | |
17 | 12 | 小林亮一 | 1946年3月22日 | 1947年2月15日 | |
旧青木村長(公選) | |||||
初〜3代 | 1 | 宮原栄吉 | 1947年 | 1957年4月18日 | 戦後の公選初代村長。1957年4月18日に辞職[10] |
青木村長(公選) | |||||
4〜12代 | 1 | 宮原栄吉 | 1957年5月7日 | 1993年5月6日 | 通算12選は全国で2位タイの多選記録 |
13〜17代 | 2 | 宮原毅 | 1993年5月7日 | 2013年5月6日 | |
18代〜 | 3 | 北村政夫 | 2013年5月7日 | 現職 |
青木村役場(青木村大字田沢111)
上田税務署[13]
ハローワーク上田(上田公共職業安定所)[14]
当落 | 候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 重複 |
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当 | 井出庸生 | 43 | 自由民主党 | 前 | 120,023票 | ○ |
比当 | 神津健 | 44 | 立憲民主党 | 新 | 109,179票 | ○ |
池高生 | 53 | NHKと裁判してる党弁護士法72条違反で | 新 | 3,722票 | ○ |
上田簡易裁判所
7大字12地区がある。大字は1889年の町村制開始まで存在した村々の地域と名称をそのまま受け継いでいる(大字当郷は浦里村を経て合併)。
かつては上田温泉電軌青木線が上田市から青木村までを結んでいたが、1938年に廃線となり、現在鉄道は通っていない。電軌青木線とほぼ同じルートを走る千曲バス青木線が村内まで運行している。鉄道でアクセスする場合の最寄り駅は、JR東日本北陸新幹線としなの鉄道しなの鉄道線は上田駅で、バス青木線への乗り換え。上田電鉄別所線では上田原駅が村への最寄りとなるが、これもバス青木線への乗り換えとなり、上田-青木間の移動であればバス青木線のみを使用した方が安い。また同じく別所線の舞田駅や別所温泉駅が自家用車を使えば近い場所もある。名古屋方面へは自家用車でJR篠ノ井線の冠着駅や聖高原駅や西条駅に移動して利用する場合もある。
以下の村営バスが村内各地、千曲バスが上田駅方面へ運行。
(2009年5月11日より村営バスは、利用者が多い時間帯は大型バスで運行し、それ以外はワゴン車で運行するセミデマンド方式になった。また千曲バスの青木線が一部減便するのを受け2024年4月1日から平日のみ上田駅線の運行開始。)
当郷 - 殿戸 - 工場団地前 - 村松 - 細谷 - 青木バスターミナル
村内に高速道路は通っていない。 最寄りのインターチェンジは麻績村にある麻績インターチェンジ(長野自動車道)または上田市にある上田菅平インターチェンジ(上信越自動車道)である。
1988年に青木村名誉村民条例が制定され、村民や村に縁の深い者で、学術、文化、産業、経済、福祉などの分野で村や国家に大きな貢献をした人物に名誉村民章を贈っている[20][1][21]。
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