芦屋町
福岡県遠賀郡の町 ウィキペディアから
福岡県遠賀郡の町 ウィキペディアから
芦屋町(あしやまち)は、福岡県遠賀郡・遠賀川河口に位置する町で、北九州都市圏を構成する自治体である。周辺市町と比べ公共交通の便が悪く、2002年に過疎地域に指定されたが、近年は遠賀川東岸で北九州市のベッドタウン化が進む。
遠賀川の河口両岸に町域があり西岸に町役場など町の中心街があるが、それ以外の西岸地域は大半が航空自衛隊芦屋基地の敷地とそれに隣接する芦屋競艇場の敷地で占められている。また遠賀川の水域面積も広く、実質的な可住区域は7.37km2と狭い。そのため、中高層住宅地区もあり市街地の集積度は人口比に対しては高い方である。町の北側は玄海国定公園に指定されている響灘に面しており、 夏には海水浴客で賑わう芦屋海水浴場などがある。
年中を通じて比較的温暖な気候である。沿岸であることから夏場に猛暑日になったり冬季に放射冷却での気温低下も内陸地に比べると少ない。冬は強い北西の季節風が吹き、沿岸部特有の低い雲がかかりやすく冬季は内陸の地域に比べると日照時間が少ない。福岡県内でも風の強い地域である。県内の他地域が積雪しているときでも積雪が無いことも多く、同じく沿岸部の県庁所在地の福岡市、北九州市と比較しても積雪回数は非常に少ない。その代わりに暴風、波浪等の気象警報が出されることが多く、暴風や波浪に注意が必要な日もある。
隣接する北九州市との密接な繋がりがあり、同市のベッドタウンとなっている。遠賀川を挟み西岸地区には古くからの市街地が形成されているため開発できる土地が限られ、また著しく公共交通の利便性が悪いため周辺市町への人口流出が止まらず、人口は減少している。近隣の遠賀郡遠賀町や北九州市若松区高須地区などへの転出も多い。一方、遠賀川の東岸では2000年代に入り、約480戸の分譲団地が開発された。そのため一時期は人口増加に転じたが再び人口は減少傾向にある。特に遠賀川西岸の旧市街地では人口減少、若者層の流出が相次いでいる。また、緑ヶ丘地区には大規模な中高層住宅街があるが、近年は交通アクセスの悪化や経年による老朽化により空き家が増加している。また。町の方針として町営主義であり交通機関、病院、スーパー、住宅、レジャー施設、観光施設、インフラなど町民生活に直結する大半が町営である。
芦屋町と全国の年齢別人口分布(2005年) | 芦屋町の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 芦屋町
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
芦屋町(に相当する地域)の人口の推移
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||
総務省統計局 国勢調査より |
以下は住居表示の実施により発足した町である。
太古の遠賀川の中流〜河口付近には縄文人の残した貝塚が分布しており、そのうち特に山鹿貝塚と呼ばれるものは全国的にも著名な貝塚となっている。 弥生時代後期には「岡の津」と呼ばれ、豊津・宇佐と共に三大軍港の一つとして有名であった。当時は奥の深い広大な湾を成していたが、長年の遠賀川からの土砂の堆積と干拓により、かつての面影は無い。平安時代中期から芦屋津(港)として記録に残る。
1185年、葦屋浦の戦い(治承・寿永の乱)の合戦場となった。同年平家が滅び、鎌倉幕府の誕生と共に、幕府の命により、宇都宮氏が地頭として赴任してきた。およそ1200年頃、土御門天皇の代に、宇都宮氏により「芦屋釜」が興された。
中世には「芦屋千軒・関千軒」とも言われ、下関とも肩を並べるほどの都市であった。江戸時代から明治初期にかけては唐津街道の宿場町・遠賀川の石炭積み出しの中継点として・博多や小倉などとも行き来する海洋交通の要衛として栄え、現在の遠賀郡の範囲のほか中間市・北九州市若松区・戸畑区・八幡西区・八幡東区の大半を含む郡域を統括する郡役所が設けられたほか、警察署・法務局・裁判所などの行政機関・高等教育機関も置かれ地域の中心都市として繁栄した。
しかし、明治になり開通した筑豊興業鉄道、九州鉄道の路線が町域を通らなかったこと(朝鮮半島や日本海に近いため沿岸部の鉄道建設は防衛上の観点からも忌避される傾向にあった。また地元の反対も大きかったとされる。芦屋に鉄道を敷設する場合には遠賀川に長大鉄橋の架橋が必要であり、さらに小倉・門司方面へは洞海湾を跨ぐ必要があった。)、1901年官営製鉄所が当時の八幡村に進出したことなどにより洞海湾沿岸部の村々が急激に都市化、また鉄道により折尾や若松が大いに発展したため地域の中心都市という優位性はなくなり、また交通の要衛から陸の孤島へと立場は変わり、行政機関は折尾村や若松へ移転。著しい町勢の衰退から巻き返しを図るべく鉄道を敷設したり、柏原または芦屋に大規模築港の構想もあったものの実現はせず[1]、1900年頃には1万人を超えていた人口は、1940年頃には6000人ほどにまでに減少し、衰退した。
1941年に北九州工業地帯の防衛のために陸軍芦屋飛行場が完成し、敗戦後は米軍が接収する。1950年に朝鮮戦争が勃発すると芦屋基地は爆撃機の前線基地となったことで繁栄、隊員相手の歓楽街が形成され一気に人口は倍増した。それまで野原や芋畑ばかりであった現在の正門町地区にビアホールやダンスホール、遊興施設などが続々と完成しまさに眠らない町となった。
しかし、朝鮮戦争が休戦すると次第に米軍の規模は縮小。潮を引いたかのように好景気は去っていった。基地はその後1960年には返還される事となった。 この間人口は15,000人前後で、一進一退の状態であった。米軍撤退後には緑ヶ丘に存在した三井工作所の跡地に日本鋳鍛鋼の社宅を誘致、町内各地に大規模な町営住宅を建設、撤退した米軍基地の後継として航空自衛隊を誘致するなどし人口は急増、1970年代には2万人目前に迫ったものの、これをピークに人口は減少することとなった。
江戸時代には廻船問屋なども立ち並び活況を呈した。また、明治時代初頭にかけ、筑豊炭田の積出港として繁栄した。
元々は、1875年(明治8年)に芦屋町内に警察掛巡視所(2年後の1877年(明治10年)に芦屋警察署と改称)が設置され、芦屋警察署の分署を若松・黒崎・赤間に設置していた。1889年(明治22年)若松に本署が移転し若松警察署芦屋分署に。その後1891年(明治24年)に折尾に芦屋警察署管轄の派出所が設置された。1906年(明治39年)には若松警察署芦屋分署は折尾に移転する形で廃止、戦後には自治体警察の芦屋町警察署が設置されていた。警察法の改正により廃止され町内全域および町内の派出所は現在折尾署の管轄となっている。米軍基地もあった関係で1967年まで芦屋警部派出所、1971年まで芦屋警部補派出所、以降は芦屋部長派出所→交番となっている。また、2003年8月の再編までは山鹿駐在所も存在した。
主に海産物を取り扱う観光向けの商業施設は町北部に存在する。
町内には町立の小中学校のみ存在する。公立高校普通科の学区は福岡県第4学区である。
航空自衛隊芦屋基地があり、演習時にはかなりの騒音が発生する。一部防音施工されているが、各学校教室の冷房設備等は基本的にはなかった。しかし2018年頃には各教室に、冷暖房を早期に完備した。校舎建造当時の芦屋小学校、芦屋東小学校は児童数が600-800名超と多く校舎を2棟建築したが、山鹿小学校は300名台で、他校の半分程度であったため1棟となっている。
芦屋東小学校を分離してからしばらくは両校共に多くの児童の通う規模の小学校であったが、芦屋町の周辺に環境の良い住宅地が整備され始めた1980年代初頭をピークに緩やかな減少に転じた。年々児童数の減少傾向が大きくなり、特に2000年代以降は、芦屋小学校、芦屋東小学校では校区の過疎化と高齢化により児童数は200名程度まで急速に減少。ほとんどの学年でクラス替えが出来ない状況となり空き教室が大量に発生している。その一方で校区内の宅地開発が進む山鹿小学校では2010年代前半まで児童数が約500名にまで増加し教室が不足しており、プレハブ校舎を増設して対応していた。2019年頃には全教室に、電子黒板を設置するなど近隣都市と比較しても早くからITツールの導入を積極的に推進している。
町内に空港・鉄道・高速道路はいずれも存在しない。また、公共交通においては福岡県北部の自治体で唯一、福岡市内との直通交通手段のない自治体である。
主に町内各地から近隣の鉄道駅を結んでいる。自衛隊前バス停から折尾駅までは約7kmである。2000年代初頭までは経路により異なるものの、速達系統では20分程度で運行していた。利用者の減少、郊外の宅地化による経路変更が相次ぎ、2018年現在では約35分〜40分を要する。特に西岸南部の市街地からはいったん折尾駅とは逆方向に向かい町域の北東部まで迂回した上で若松区に入りようやくほぼ直線経路で南下する。身近な商業集積地として若松区の高須地区がある。遠賀川の対岸であり、中心部からの距離は2kmほどである。自家用車であれば5分ほどで到達できるが「Ω」状に市街地を迂回するバスの線形で距離に比して著しく遠回りをするため所要時間は約2〜30分かかる。徒歩とほぼ差異のない所要時間がかかる現状である。また折尾駅ではJRとの接続は考慮されないダイヤ編成をおこなっている。その到着タイミングも良くなく乗換時分がかかるため、折尾駅を介した乗換には1時間以上を要することが多い。公共交通を使用する場合はほぼ安定して1時間以内に到達できるのは遠賀郡内の遠賀川駅周辺や海老津駅周辺、若松区のごく一部、八幡西区の一部などに限られる。自家用車と比較して通勤、通学には異常に長い時間を要することとなり、芦屋町の衰退の第一の原因となっている。交通至便な近隣地域と比べると著しく不便である。町内には2件のスーパーと町立の総合病院がある他はコンビニとわずかな個人経営店舗しかないため、通勤、通学、買い物、レジャーなど町外に依存している部分が多い。公共交通通学をすると2時間以上かかる高校もあり自転車のほうが所要時間が格段に早いため自転車通学に頼らざるを得ない高校も多数ある。バス離れを食い止めること、高額な定期負担を軽減する目的で通学補助金を助成する制度も創設されているものの、前述のような所要時間のため通学手段として利用困難になりつつあり利用は伸び悩んでいる。御牧大橋は競艇送迎バスと市営バス、タウンバスの車両の送り込みに頻繁に回送バスは通過するが、一般町民は利用できず、競艇送迎バスの数倍の所要時間がかかるバスによる乗らなければならない。
町唯一の交通手段がバスという状況であるためこのような状況でさえ利用者は多く、近年減便が続いている交通局路線の中では数少ない黒字系統でもあり[5]、朝夕や利用者の多い土休日に積極的な増便を行う、快速系統や廃止されていた最速系統の一部復活等の積極策も実施されてはいる。行政においては住民アンケートにおいて著しく低い満足度[6]であるにもかかわらず「利便性が非常に高いのに利用者が少ない」と公式に見解している[7]。
他路線との接続も全く考慮されておらず、折尾駅に向かう途中、青葉台東・青葉台中央公園前停留所で二島・若松方面へのバス路線と輻輳するが、乗り継ぎを考慮したダイヤではない[8]。
北九州市交通局の運行エリアではあるが市外区間であり、以下のような問題点がある。特に交通弱者に対する格差など大きな問題点もある。 北九州市交通局発行の高齢者向けフリー定期券「ふれあい定期」は市外区間は利用除外しているため町民の利用が困難である。福岡県内における一般路線バス会社で特定の自治体だけが不利になるような設定をしている業者は他にはない。障がい者の優待乗車制度も芦屋町民は利用不可、障害の種類によっては北九州市民は全額無償になるが、芦屋町民の障害者は全く割引の適用をされないなどの問題点がある。そのため、芦屋町に在住する交通弱者の外出機会を奪っている現況である。芦屋町の考え方として、北九州市の事業で行っているため芦屋町民が割引を受けられないことは当然であると考えている。町独自で運行するタウンバスも市営バスの減収になるため定期券は市営バスより安くできないし、タウンバスにおける高齢者の割引も交通局より市営バスの乗客減少になるため反対意見が出されたため実施を見送られた。西鉄バス北九州のような定額定期券は発売していないため、定期券が高額となる。また、かつては平日のみ西鉄バス北九州の路線バス(交通局との共同運行であった芦屋急行線)がわずかに乗り入れておりこちらは北九州都市圏の他の自治体と同等の扱いで得パス・グランドパス65・北九州都市圏1日フリー乗車券などが利用できていたが、平日のごく僅かな西鉄運行便を除けば町民が利用できる公共交通機関のすべてに北九州市交通局が関与していた。芦屋急行線の廃止以降はすべてが交通局運行のバスとなっている。2016年9月のダイヤ改正において折尾線の朝ラッシュ時の輸送改善が図られ、快速バスを4便、最速達系統の三ツ頭経由の増便が実施された(現在は快速は3便に減便されている)。
交通局が受託運行している芦屋タウンバスは通常の定期・回数券のみ(割引率は一般路線バスと同程度)、他の自治体のコミュニティバスでよく見られる高齢者の割引はない。
かつては西鉄バス北九州の路線がいくつか町内に乗り入れていたが、先述の芦屋急行線を最後に2017年3月末を以って町内から完全撤退している。
以下はかつて行われたイベントである。
以下の映画作品の撮影が当町で行われた。
2018年,2019年芦屋町オールロケ
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.