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竹熊 健太郎(たけくま けんたろう、1960年8月29日 - )は、日本の編集者・ライター、漫画原作者である。本人による肩書きは「編集家」。東京都世田谷区出身。神奈川県大和市在住。『アルバイトニュース』でペンネーム・細石巌(さざれいしいわを)を使用していたことがある。
東京都に生まれ、小学校3年から中学校卒業までを千葉県旭市で過ごす[1][2]。1978年、神奈川県立座間高等学校卒業[3]。高校在学中にミニコミ誌『摩天樓』を創刊。
多摩美術大学などの入試に失敗し、一浪して桑沢デザイン研究所に入学するが、在学中に編集者の神崎夢現に誘われ自販機本の最大手出版社だったアリス出版でフリーの編集者となり中退[4][5]。現在は編集、執筆業、漫画原作などを行っている。
2009年現在、京都精華大学マンガプロデュース学科教授、多摩美術大学美術学部非常勤講師(漫画文化論)。同大学では武蔵野美術大学などの学生も巻き込み、『電脳マヴォ』などの同人誌を授業内容の一環の実作として創刊。その他にも桑沢デザイン研究所講師などを務める。
いわゆる「おたく第一世代」の一人であり、漫画を始めとしたオタク文化を題材にした執筆、評論活動を仕事の中心としており、「オウム真理教事件」の際は、いち早く、自身のオタク体験を題材とした半自伝『私とハルマゲドン』を執筆した。
また友人の桜玉吉からは「ドマニア」と評されるほどマニアックな人物であり、かつての自宅には『ガロ』『COM』などの漫画雑誌が創刊号から保管されており、本以外にもありとあらゆる時代の映画作品・アニメ作品のソフトがメジャーマイナーを問わず大量に所蔵されていた。なお引っ越し作業では220箱もの本を移動させる羽目になったという。
漫画評論を行う者たちには漫画原作者・漫画家を兼ねるものが多いが、その中でも竹熊はメジャー誌でヒットを飛ばした経験を持っており、いしかわじゅんと並び、売れた実績を持つ漫画評論家となっている。また『漫画ブリッコ』(白夜書房)もコラムコーナーをもち、漫画を掲載したたこともある。
代表作に『サルでも描けるまんが教室(相原コージと共著)』、ジャンルを越境した老偉人たちへのインタビュー集『篦棒な人々 戦後サブカルチャー偉人伝』など。
2006年11月30日に脳梗塞を患い、長期入院を余儀なくされたが2007年退院。
2007年「月刊IKKI」12月号より、「サルでも描けるまんが教室」の続編、『サルまん2.0』の連載が開始されたが、相原との意識の違いがあり、「これ以上面白く書けない」という理由で2008年7月号にて連載を中止し、終了。単行本は長年の間を経て、2017年に小学館クリエイティブから刊行された。
2009年から2010年に、竹熊の責任編集による、才能ある学生作家を中心とした漫画同人雑誌「コミック・マヴォ」を刊行。2012年1月からWEB雑誌「電脳マヴォ」を開始。
2014年6月24日公式ブログにて株式会社ホップ・ロウ取締役辞任と同社にて発行・編集業務を行っていたWEB雑誌「電脳マヴォ」の継続を宣言。持病であるアスペルガー症候群のため京都精華大学での講義を休職していることを報告。
声優の小林恭治はいとこおじ(母のいとこ)にあたる。幼少期には「イヤミのおじさん」として親しんでいた。
ファンの女性と結婚していたがのち離婚、その時の経験から、本田透の対談集『電波大戦 ぼくたちの“護身”入門』において、“モテの魔の手”に負けないようにと、アドバイスしている。
米澤嘉博と二人で、90年代後半に太田出版から刊行された、カルト漫画の復刻シリーズ「QJマンガ選書」を監修[8]。
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