立石寺
山形県山形市にある寺院 ウィキペディアから
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立石寺(りっしゃくじ)は、山形県山形市にある、天台宗の仏教寺院。山寺(やまでら)の通称で知られ、古くは「りゅうしゃくじ」と称した[※ 1]。正式には宝珠山阿所川院立石寺(ほうじゅさんあそかわいんりっしゃくじ)と称する[1][2][3]。本尊は薬師如来。
蔵王国定公園(第2種特別地域)に指定されており[4]、円仁が開山した四寺(他は中尊寺・毛越寺、瑞巌寺)を巡る「四寺廻廊」を構成しているほか、若松寺と慈恩寺を含めて巡る出羽名刹三寺まいりを構成する。
寺伝では貞観2年(860年)に清和天皇の勅命で円仁(慈覚大師)が開山したとされている。
当寺の創建が平安時代初期(9世紀)に遡ることと、円仁との関係が深い寺院であることは確かであるが、創建の正確な時期や事情については諸説あり、草創の時期は貞観2年よりもさらに遡るものと推定される。立石寺文書のうち『立石寺記録』は、「開山」を円仁、「開祖」を安慧(あんね)と位置づけており、子院の安養院は心能が、千手院と山王院は実玄が開いたとされている。安慧は円仁の跡を継いで天台座主となった僧であり、心能と実玄は円仁の東国巡錫に同行した弟子である。安慧は承和11年(844年)から嘉承2年(849年)まで出羽国の講師の任にあり、東国に天台宗を広める役割を果たしたことから、立石寺の実質的な創立者は安慧であるとする説もある。また、円仁が実際に東国巡錫したのは天長6年(829年)から9年(832年)のこととされ、この際、弟子の心能と実玄をこの地に留め置いて立石寺の開創にあたらせたとの解釈もある[5]。立石寺には貞観2年(860年)12月の日付を持つ『円仁置文写』が伝わるが、この文書は必ずしも寺の創建年次を示すものではなく、この文書自体が後世の仮託とする説もある[6]。貞観2年(860年)には、円仁は当時としては高齢の60歳代で、しかも天台座主の高位にあった。従って、この時期に円仁が実際に現代の山形県に出向いて立石寺を建立したということは、年齢と地位の両面から、文字通りの史実とは考えがたく、円仁の意を受けた安慧らによって9世紀半ば頃から徐々に寺観が整えられたとみるのが穏当である[7]。 なお、根本中堂に安置されている木造毘沙門天立像は近年の調査によって9世紀頃の作であることが判明しており、円仁とみられる頭部のみの木彫像と同様、立石寺創建期の一例に加えられる。また、胸甲の上で甲締めの結び目を表していることや細い腰帯の下に幅広の腰帯を着けるなど珍しい甲制となっているが、これらは東北地方の神将形の作例にしか見られないもので、平安時代には同種の作例がある寺院との間に繋がりがあったことを示唆させる特徴を持つ点でも注目に値する[8]。
円仁(慈覚大師)の遺骸を安置すると伝える入定窟(にゅうじょうくつ)がある。史実としては、円仁は貞観6年(864年)、比叡山で没しており、立石寺に実際に遺骸が移されたという確証はないが、入定窟の上に立てられた天養元年(1144年)の『如法経所碑』が現存し、そこには「大師の護持を仰いで法華経を埋納する」という趣旨のことが書かれていて、この時代(12世紀)、既に円仁がこの地で入定しているとする伝承が成立していたことがわかる。昭和23年(1948年)から翌年にかけて入定窟の学術調査が実施され、金箔押しの木棺と人骨5体分、円仁像と思われる頭部のみの木彫像などが発見された。この木彫像の頭部については、目鼻立ちなどの特色から円仁像であることは認められ、作風から9世紀頃の制作であるとされる。
上述の天養元年如法経所碑のほか、石川県の海門寺に安置される保延3年(1158)作の木造十一面観音菩薩坐像の胎内銘文の「小面十五躰出羽国立石寺慈覚大師霊木」という記述等から、立石寺は12世紀には慈覚大師ゆかりの霊場として広く知られていた。
鎌倉時代には幕府の保護と統制を受け、関東御祈祷所となり寺は栄えた。本尊薬師如来坐像は元久2年(1205年)に修理されており、この時に本堂の修造が完了して十二神将像を造立した[9]。後に兵火により伽藍を焼失し、13世紀中頃には幕府の政策により禅宗に改宗となった。延文元年(正平11年・1356年)、源氏の斯波兼頼が羽州探題として山形に入部した後、兼頼により再建され天台宗に戻った。
文明14年(1482年)、雪舟等楊が訪れ写生している[10]。
大永元年(1521年)、寺は天童頼長[※ 2]の兵火を受けて一山焼失した。永正17年(1520年)、頼長は山形盆地に進出した伊達稙宗と戦うが、この際、立石寺が伊達側に加勢したために頼長の怒りを買い、翌年焼き討ちを受けたものである。なお、現存する立石寺中堂は後世の改造が多いものの室町時代中期の建物とされている。焼き討ちの際には、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消失した。天文12年(1543年)、天台僧の円海は春還芳公尼 (後述)からの助成を受けて延暦寺に登拝、再度分燈を受けた。元亀2年(1571年)に延暦寺が焼き討ちされ法燈が消失すると、その再建時には立石寺から延暦寺へと逆に分燈された[11]。
山形城主であった最上家(斯波兼頼を祖とする)と関係が深く、同家の庇護を受けていた。最上義守の母・春還芳公尼(しゅんげんほうこうに)は荒廃した堂宇の再興に努め、その孫(最上義守の子)にあたる最上義光(よしあき)も立石寺を保護した。義光の時代の分限帳によれば、寺領1,300石が与えられている。最上氏が山寺を崇敬し保護するという関係は、最上氏が改易される元和2年(1622年)まで続いていった[12]。
最上家改易後は庇護者を失うものの、この頃から広く信者を募り広域的な信仰の広がりを見せ、全盛期の江戸時代初期には2800石の朱印地・僧房100寺・僧侶300余人を有したという[13]。
元禄2年(1689年)に松尾芭蕉が旅の途中で訪れ、その時のことが『おくのほそ道』に書かれている。当地では名句「閑さや 巖にしみ入る 蝉の声」を詠んでおり、参道に句碑と「せみ塚」[14]がある。
石段は1015段ある[14]。
寺の東にある千手院観音と、かつて山伏の修行場であった垂水遺跡を経由する山道もあり、「裏山寺」「峯の浦」と称されている[16]。
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