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田中 澄江(たなか すみえ、旧姓:辻村[1]、1908年4月11日 - 2000年3月1日[2])は、日本の脚本家、著作家。中野区教育委員も務めた。また、山を愛していて「花の百名山」を選んだことでも知られる。東京都名誉都民。夫は劇作家の田中千禾夫。小学校時代の同級生に川島芳子がいる。日本ペンクラブ、日本演劇協会、日本文芸家協会、日本放送作家協会、各会員[3]。
長男・聖夫(たかお)の妻は画家の三田恭子(日本初の女性刑務所長・三田庸子の娘)。
東京府北豊島郡生まれ。1932年、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)国文科を卒業する[3]。学生時代から岡本綺堂主宰の「舞台」などで習作にはげむ[3]。聖心女子学院の教師を務める。
1934年、やはり劇作家の田中千禾夫と結婚[3]、神奈川県藤沢町鵠沼に新居を構える。菊池寛の戯曲研究会にも参加[3]。1939年、「劇作」に発表した戯曲『はる・あき』で注目される[3]。
戦時中は鳥取に疎開[4]。戦後、長男の病気治療のために京都に転居[4]。家が没落し、家計を支えるために、地方紙(京都日日新聞[4])の芸能記者をしながら、体験に基づく“私戯曲”「悪女と眼と壁」「京都の虹」などを発表[3][5]。
1952年『我が家は樂し』、『少年期』、『めし』の映画の脚本が評価され、ブルーリボン賞脚本賞を受賞する。1955年「つづみの女」、1959年「がらしあ・細川夫人」を発表する一方、小説面でも活躍し「虹は夜」「きりしたん殉教のあとをたずねて」などを発表[3]。
1960年代からはテレビドラマの脚本も手がけるようになった。NHK朝のテレビ小説「うず潮」「虹」などの脚本も担当[3]。
1973年『カキツバタ群落』で芸術選奨文部大臣賞、1981年、随筆集『花の百名山』で読売文学賞、1996年『夫の始末』で女流文学賞を受賞した。
登山好きで知られ、1967年から女性だけの山歩き同好会「高水会」を組織しを主宰[4][3]。1988年、長男の妻・三田恭子とともに、自宅に無名女性画家のための嫁菜の花美術館を建設[3]。中野区教育委員、国語審議会委員などを歴任[5]。無礼な若者や男性に直言し、女性の向学心や労働意欲を何より大事にした[5]。
晩年は随筆「老いは迎え討て」などを著し、老年哲学を説いた[3]。2000年3月1日、老衰のため東京都清瀬市の病院で死去[6]。墓所は府中カトリック墓地。
など
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