淡路国
近国に属する令制国の一つ ウィキペディアから
「淡路」の名称
沿革
要約
視点
『古事記』『日本書紀』の『国産み神話』では、日本列島で最初に生まれた島とされ、島内には伊弉諾神宮が祀られている。
5世紀の仁徳天皇の御代に設置された淡道国造に起源を持つものと推定される(国造本紀)。古くは津名郡と三原郡で構成されていた。
律令制の下で、田畑の面積が少なくとも一国として成立した。しかし『延喜式』や平城京などから発見された木簡によると租庸調に加え、贄(にえ)とよばれた海産物(主に魚)を直接に朝廷の内膳司(天皇家、朝廷の食膳を管理した役所)に納めていたことが分かっている。このことにより、朝廷にとって淡路国が特殊な位置にあったとする説がある(御食国を参照)。
天平宝字8年(764年)10月、淳仁天皇を廃して「淡路国の公」として淡路に配流する。一院に幽閉するが、その一院がどこであったか分かっていない。そして、山稜に葬られ、『延喜式』諸稜寮の項にその稜は「淡路国三原郡にあり」と記すが、その位置については諸説あって確定していない。
応仁の乱後、各国の守護職もしだいに領主化し、守護大名に変化していったが更に時代にくだると、その守護大名も守護職を家臣や守護代、国人に奪い取られる事が多くなったが、淡路国歴代の守護であった細川氏の場合、守護代、小守護、国人とも守護を圧するほどには成長しておらずで守護職を他士族に奪い取られるという事はなかったようである。しかし、最後の守護と思われる細川尚春は、三好之長によって殺された。その後は三好氏の勢力下を経て、四国攻めの過程で羽柴氏に制圧された。
戦国時代~江戸時代初期の移封
- 細川尚春 - 淡路守護。三好之長により殺害。
- 洲本安宅氏(安宅氏分家) - 安宅治興は三好長慶弟・冬康を養子に迎え、三好氏の傘下に。
- 三好氏 - 織田信長によって滅亡。冬康の子・信康は織田氏の支配下に。
- 中国国分 - 羽柴秀吉と毛利輝元の同盟関係が成立した天正11年(1583年)以降、中国地方に対する大名など諸領主への領土配分
- 藤堂高虎 - 藤堂高虎(伊予宇和島城8万石・今治城12万石)の属領。(→伊勢津藩転封。伊予越智郡2万石は飛び地として高虎に残る)
- 池田輝政 - 慶長15年(1610年)、播磨姫路藩主・池田輝政に淡路一国が加増。淡路は姫路藩(海向かい)の属領となる。
- 池田忠雄 - 池田輝政三男。慶長18年(1613年)1月に輝政が死去、淡路6万3千石が分与され、再び洲本藩が立藩。
- 蜂須賀至鎮 - 大坂の陣で軍功を挙げ阿波藩(明治以降に徳島藩と改称)とともに加増。
近世以降の沿革
淡路国の城・館
- 白巣城
- 炬口城
- 洲本城(上の城) - 別名:三熊城。安宅氏が築城し、その後仙石氏、脇坂氏が洲本藩主に。
- 由良城 - 由良成山城(水軍城)。慶長16年(1610年)、池田忠雄が洲本城(上の城)を廃し、修築した。
- 洲本城(下の城) - 由良引けの後に作られた平城の洲本城。江戸時代・蜂須賀家家老稲田氏が治めた城下町。跡地には淡路文化史料館。
- 南あわじ市
- 栗原城
- 志知城 - 別銘:志智城。淡路国三原郡志知村
- 庄田城 - 淡路国三原郡倭文。城主:船越景直。
- 養宜館 - 淡路国三原郡八木養宜中(三原平野東端)。淡路国守護・細川氏の居館があったとされる。
- 叶堂城 - (南あわじ市松帆古津路、感応寺)
- 前山城
- 上田城
- 柿の木谷城
など
国内の施設
国府
『和名抄』によれば、国府は三原郡にあった。現在の南あわじ市(旧三原郡三原町)神代国衙にあったと推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。
国分寺・国分尼寺
神社
守護所
- 南あわじ市八木養宜中。室町時代の約180年間、守護大名細川氏の守護所であった。鎌倉時代の守護所も同所であったとされる。
地域
郡
※郡名は『延喜式』による。
該当区域の面積は595.74k㎡、人口は14万3589人(2010年国勢調査速報値)。
江戸時代の藩
人物
国司
淡路守
守護
鎌倉幕府
室町幕府
戦国大名
武家官位としての淡路守
江戸時代以前
江戸時代
脚注
参考文献
関連項目
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