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日本の江戸時代に、和泉国に所在した藩 ウィキペディアから
岸和田藩(きしわだはん)は、かつて和泉国南郡・日根郡などを領有した藩。藩庁は南郡岸和田(現在の大阪府岸和田市)の岸和田城。
岸和田藩は天正13年(1585年)、豊臣秀吉の母方の叔父・小出秀政が岸和田城主に封ぜられたことに始まる。(この時領域は岸和田・麻生郷のみ)入封当初、秀政は4千石を与えられていたにすぎなかったが、文禄3年(1594年)に1万石、翌文禄4年(1595年)には3万石を領するに至った。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて秀政と長男吉政は西軍方につき、敗軍の将となった。しかし、次男の秀家が東軍についていたため改易を逃れた。慶長18年(1613年)、3代吉英は5万石に加増されている。元和5年(1619年)、吉英は但馬国出石藩に転封となった。
代わって、丹波国篠山藩より松平康重(松井松平家)が5万石で入封し、以後の岸和田は譜代大名の藩地となった。当地は肥沃で、また耕作法の進歩により実収が表高より多く、幕府に願い出て表高は寛永8年(1631年)に6万石に高直しされたが、新たな知行地を得たものではなく、表高のみの増高のため、大名としての格式は高くなったが、領民[1]にとっては実質的な増税となった。また、康重は城下町の整備を行った。
2代康映は寛永17年(1640年)に家督を継いだ際、甥の康明に5千石、弟の康命と康紀に3千石・2千石をそれぞれ分知した。しかし、康映は藩主となったその年に播磨国山崎藩に転出した。
松平康映の妻の父である岡部宣勝が摂津国高槻藩より6万石で入封し、以後は明治維新まで岡部氏の所領となった。宣勝の入封当初、松平氏の代に高直しとなったことに不満を持っていた南郡・日根郡の領民が強訴(寛永の強訴)を行った。これに対し、領民と対話して3千石を領民に分配し、一揆を未然に防いだ。また、岸和田城の改修、寺社の建立や復興を行い、名君と賞賛されている。
2代行隆は寛文元年(1661年)、襲封と同時に弟の高成に5千石、豊明に2千石を分知し、以後の表高は5万3千石となった。
3代長泰は元禄16年(1703年)、京都の伏見稲荷大社を岸和田城三の丸に勧請し、五穀豊穣を祈願する稲荷祭を行った。これが全国的に有名な「岸和田だんじり祭」の起源と言われている。
4代長敬は享保7年(1722年)に「享保備定」と呼ばれる藩の軍制の整備を行い、格式・知行高に基づく陣法を制定した。以後、これが岸和田藩の軍制の基準となった。
サトウキビ栽培と製糖業や木綿の栽培と綿布生産などを特産とし、比較的余裕のあった藩財政は、延宝3年(1675年)の飢饉や、宝永4年(1707年)の地震等により18世紀半ばになると窮乏するに至った。その後、歴代藩主は財政再建のため様々な藩政改革を行ったが、目立った効果もなく幕末に至った。
天保8年(1837年)には大塩平八郎の乱が起こり、岸和田藩は大坂城の守備に当たった。
11代長発は嘉永5年(1852年)に藩校「講習館」を開いた。次の藩主長寛は慶応2年(1866年)に藩校を増築し「修武館」と改称した。また、幕末の動乱の中で藩論は勤王・佐幕両派に分かれたが、慶応4年(1868年)に始まった戊辰戦争には新政府軍として参戦した。
明治元年(1868年)の藩領村数は南郡52・日根郡43。
明治4年(1871年)、廃藩置県により岸和田県となる。その後、堺県を経て大阪府に編入された。
明治11年(1878年)、元の藩主長職の依頼で新島襄がキリスト教布教に訪れる。
なお、最後の藩主である長職は、廃藩置県以後は明治政府の要職に就き、外務次官・東京府知事・第2次桂内閣の司法大臣などを歴任した。
藩主 | 受領名・官名 | 藩主在職年月日 | 備考 | |
---|---|---|---|---|
小出家:外様:30000石→50000石 (1600年 - 1619年) | ||||
1 | 秀政 | 播磨守 | 天正13年(1585年)7月 - 慶長9年(1604年)3月22日 | |
2 | 吉政 | 大和守 | 慶長9年(1604年)3月22日 - 慶長18年(1613年)2月29日 | |
3 | 吉英 | 大和守・右京太夫 | 慶長18年(1613年)3月 - 元和5年(1619年)年8月23日 | 加増により50000石 |
松平〔松井〕家:譜代:50000石→60000石→50000石 (1619年 - 1640年) | ||||
1 | 康重 | 周坊守 | 元和5年(1619年)年8月23日 - 寛永17年(1640年)6月27日 | 高直しにより60000石 |
2 | 康映 | 淡路守・周坊守 | 寛永17年(1640年)8月23日 - 寛永17年(1640年)9月11日 | 分知により50000石 |
岡部家:譜代:60000石→53000石 (1640年 - 1871年) | ||||
1 | 宣勝 | 美濃守 | 寛永17年(1640年)9月11日 - 寛文元年(1661年)10月27日 | |
2 | 行隆 | 内膳正 | 寛文元年(1624年)10月27日 - 貞享3年(1686年)8月25日 | 分知により53000石 |
3 | 長泰 | 備後守・美濃守 | 貞亨3年(1686年)8月25日 - 享保6年(1721年)9月22日 | |
4 | 長敬 | 内膳守 | 享保6年(1721年)9月22日 - 享保9年(1724年)7月25年 | |
5 | 長著 | 美濃守 | 享保9年(1724年)7月25年 - 宝暦6年(1756年)5月10日 | |
6 | 長住 | 内膳守 | 宝暦6年(1756年)5月10日 - 安永元年(1772年)4月23日 | |
7 | 長修 | 美濃守・駿河守 | 安永元年(1772年)4月23日 - 安永5年(1776年)8月18日 | |
8 | 長備 | 美濃守 | 安永5年(1776年)8月18日 - 享和3年(1803年)11月20日 | |
9 | 長慎 | 美濃守 | 享和3年(1803年)11月20日 - 天保4年(1833年)11月24日 | |
10 | 長和 | 内膳守 | 天保4年(1833年)11月24日 - 嘉永3年(1850年)9月24日 | |
11 | 長発 | 美濃守 | 嘉永3年(1850年)9月24日 - 安政2年(1855年)2月14日 | |
12 | 長寛 | 筑前守 | 安政2年(1855年)2月25日 - 明治元年(1868年)12月28日 | |
13 | 長職 | 美濃守 | 明治元年(1868年)12月28日 - 明治4年(1871年)7月14日 |
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