永平寺
福井県永平寺町にある仏教寺院 ウィキペディアから
福井県永平寺町にある仏教寺院 ウィキペディアから
永平寺(えいへいじ)は、福井県吉田郡永平寺町にある、曹洞宗の仏教寺院。總持寺と並んで、日本における曹洞宗の中心的な寺院(大本山)である。山号を吉祥山と称し、開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。寺紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)である。
道元は出家して比叡山延暦寺に上った後に宋に渡り、天童山景徳寺の如浄に入門し、ひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」の禅風を継いで帰国。初めは京の建仁寺に住し、のちには郊外の深草に興聖寺(こうしょうじ、廃寺となった後に宇治市で再興)を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭った。
道元は、信徒の一人であった武士波多野義重の請いにより寛元元年(1243年)、興聖寺を去って、義重の領地のあるた越前国(福井県)志比庄に向かった。義重は当初、道元を吉峰寺へ招いた。この寺は白山信仰に関連する天台の寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここで一冬を過ごし、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立した。これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」である。
その後の永平寺は、2世孤雲懐奘、3世徹通義介の下で整備が進められた。義介が三代相論で下山し、4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興して現在に至る基礎を固めた。義雲から19世祚玖まで[1]と、22世の常智祚天は寂円派の住持であった。
暦応3年(1340年)には兵火で伽藍が焼失、応仁の乱の最中の文明5年(1473年)でも焼失した。その後も火災に見舞われ、現存の諸堂は全て近世以降のものである。
室町時代から安土桃山時代にかけて皇室から重んじられ、応安5年(1372年)には後円融天皇より「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を、天文8年(1539年)には後奈良天皇より「日本曹洞第一出世道場」の綸旨を、天正19年(1591年)には後陽成天皇より「日本曹洞の本寺並びに出世道場」の綸旨を受けた。
文化財の建物19棟については、清水建設の協力を得てレーザーで内部まで精密に計測してデータ化し、デジタルツインを作成済みである[3]。
数字は西暦の年
典拠:2000年(平成12年)までに指定の国宝・重要文化財については、『国宝・重要文化財大全 別巻』所有者別総合目録・名称総索引・統計資料(毎日新聞社、2000年)による。
永平寺は「準聖域」と位置付ける門前の再構築を福井県や永平寺町と進めている。運営を藤田観光に委託する宿泊施設「永平寺 親禅の宿 柏樹関」(はくじゅかん)が2019年に開業した[10][11]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.