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『楢山節考』(ならやまぶしこう)は、深沢七郎の短編小説。民間伝承の棄老伝説を題材とした作品で、当代の有力作家や辛口批評家たちに衝撃を与え、絶賛された、当時42歳の深沢の処女作である[1]。山深い貧しい部落の因習に従い、年老いた母を背板に乗せて真冬の楢山へ捨てにいく物語。自ら進んで「楢山まいり」の日を早める母と、優しい孝行息子との間の無言の情愛が、厳しく悲惨な行為と相まって描かれ、独特な強さのある世界を醸し出している。
1956年(昭和31年)、雑誌『中央公論』11月号に掲載され、第1回中央公論新人賞を受賞した[1]。単行本は翌年1957年(昭和32年)2月1日に中央公論社より刊行された。ベストセラーとなり、これまでに2度、映画化された。文庫版は新潮文庫で刊行されている。翻訳版は1958年(昭和33年)のベルナール・フランク訳(仏題:“La Ballade de Narayama”)をはじめ、各国で行われている。(1959年のガリマール版(ベルナール・フランク訳)の表題はETUDE A PROPOS DES CHANSONS DE NARAYAMA)。
深沢七郎は、「姥捨伝説」を、山梨県境川村大黒坂(現在・笛吹市境川町大黒坂)の農家の年寄りから聞き、それを、肝臓癌を患った実母・さとじの「自分自らの意思で死におもむくために餓死しようとしている」壮絶な死に重ねながら、老母・おりんと息子・辰平という親子の登場人物を創造した[2]。また、おりんの人物造型には、キリストと釈迦の両方を入れているという[3]。
なお、作品舞台は「信州」となっているが、描かれている人情や地形は山梨県の大黒坂の地であることを深沢は以下のように語っている。
また、作中には、「三」と「七」という数字が多用され、「三つ目の山を登って行けば池がある。池を三度廻って」、「七曲りの道があって、そこが七谷というところ」などと語られ、「楢まいり」に行く年齢が70歳、おりんの歯が33本、といったような神秘性がある[2]。深沢七郎の「七郎」という名前も、故郷の身延山の山奥にある七面山から由来しており、仏教信仰の厚い両親が、その神聖な山にちなんで名付けたという[2]。
深沢は『楢山節考』執筆当時、ギタリストとして様々な公演に参加し、作品は家と日劇ミュージックホールの楽屋で書いていた[5]。そして、そのとき公演の構成演出をしていた丸尾長顕の勧めで、雑誌『中央公論』の新人賞に応募して、中央公論新人賞を受賞した[5]。なお、審査の選考委員は、三島由紀夫、伊藤整、武田泰淳であった[1]。
信州の山々の間にある貧しい村に住むおりんは、「楢山まいり」の近づくのを知らせる歌に耳を傾けた。村の年寄りは70歳になると「楢山まいり」に行くのが習わしで、69歳のおりんはそれを待っていた。山へ行く時の支度はずっと前から整えてあり、息子の後妻も無事見つかった。安心したおりんには、あともう一つ済ませることがあった。おりんは自分の丈夫な歯を石で砕いた。食料の乏しいこの村では老いても揃っている歯は恥ずかしいことだった。
― 塩屋のおとりさん運がよい 山へ行く日にゃ雪が降る ― と、村人が盆踊り歌を歩きながら歌っているのが聞こえ、「自分が行く時もきっと雪が降る」と、おりんはその日を待ち望む。孝行息子の辰平は、ぼんやりと元気がなく、母の「楢山まいり」に気が進まなかった。少しでもその日を引き延ばしたい気持ちだったが、長男のけさ吉が近所の娘・松やんと夫婦となり、すでに妊娠5ヶ月で食料不足が深刻化してきたため、そうもいかなくなってきた。雑巾で顔を隠し寝転んでいる辰平の雑巾をずらすと涙が光っていたので、おりんはすぐ離れ、息子の気の弱さを困ったものだと思ったが、自分の目の黒いうちにその顔をよく見ておこうと、横目で息子をじっと見た。「楢山まいり」は来年になってからと辰平は考えていたが、おりんは家計を考え、急遽今年中に出発することを決めた。ねずみっ子(曾孫)が産まれる前に、おりんは山に行きたかった。
あと3日で正月になる冬の夜、誰にも見られてはいけないという掟の下、辰平は背板に母を背負って「楢山まいり」へ出発した。辛くてもそれが貧しい村の掟だった。途中、白骨遺体や、それを啄ばむカラスの多さに驚きながら進み、辰平は母を山に置いた。辰平は帰り道、舞い降ってくる雪を見た。感動した辰平は、「口をきいてはいけない、道を振り返ってはいけない」という掟を破り、「おっかあ、雪が降ってきたよう~」と、おりんの運のよさを告げ、叫び終わると急いで山を降りていった。
辰平が七谷の上のところまで来たとき、隣の銭屋の倅が背板から無理矢理に70歳の父親を谷へ突き落としていた。「楢山まいり」のお供の経験者から内密に教えられた「嫌なら山まで行かんでも、七谷の所から帰ってもいい」という不可思議な言葉の意味を、辰平はそこではじめて理解した。家に戻ると、妊婦の松やんの大きな腹には、昨日までおりんがしめていた細帯があり、長男のけさ吉はおりんの綿入れを着て、「雪がふって、あばあやんは運がいいや」と感心していた。辰平は、もしまだ母が生きているとしたら、今ごろ雪をかぶって「綿入れの歌」(― なんぼ寒いとって綿入れを 山へ行くにゃ着せられぬ ―)を考えているだろうと思った。
『楢山節考』は発表当時、多くの作家や評論家から反響をもって迎えられ、この一作で深沢七郎の名が有名となった出世作でもあり、処女作である[1]。
辛口評論家として知られる正宗白鳥も、「ことしの多数の作品のうちで、最も私の心を捉えたものは、新作家である深沢七郎の『楢山節考』である」とし[6][7]、「私は、この作者は、この一作だけで足れりとしていいとさえ思っている。私はこの小説を面白ずくや娯楽として読んだのじゃない。人生永遠の書の一つとして心読したつもりである」と絶賛している[6]。また福田宏年も、「私は戦後三十年の日本文学の作品の中でただ一作を選べといわれたら、ためらうことなくこの『楢山節考』を挙げたいとおもいます」と評している[8]。
中央公論新人賞の審査員であった武田泰淳は、「いかなる残忍なこと、不幸なこと、悲惨なことでも、かえってそれがひどくなればなるほど、主人公の無抵抗の抵抗のような美しさがしみわたってくる」と選評し[9]、伊藤整は、明治以来「ヨーロッパ的な人間の考え方」を取り入れてきた日本が忘れていたものがこの作品にはあって「ああこれがほんとうの日本人だったという感じがする」とし、「僕ら日本人が何千年もの間続けてきた生き方がこの中にはある。ぼくらの血がこれを読んで騒ぐのは当然だという感じですね」と選評し、折口信夫の『死者の書』を思い出したとも述べている[9]。三島由紀夫は、その読後感を、「総身に水を浴びたような感じがした」と選評し、別れの宴会の場面が一番こわく、「父祖伝来貧しい日本人の持っている非常に暗い、いやな記憶」、「妙な、現世にいたたまれないくらい動物的な生存関係、そういうものに訴えてわれわれをこわがらす」性質の恐怖だとしている[9]。そして、「何かこわいというか『説教師』や『賽の河原』や『和讃』、ああいうものを読むと気分がずっと沈んでくる、それと同じ効果を感じる」とも語り[9][7]、運命に中の人間たちという意味では、シングの戯曲『海に騎りゆく者たち』(Riders to the Sea)の「おふくろの心理などに近いところがある」としている[9]。
また三島は、後年のエッセイの中で、審査員が新人の作品を読む時の心境を、年ごとに祭の神輿の若い担ぎ手が下手になっていくのを嘆く町会の旦那衆の心境に喩え、同時に審査員は「これが小説だ」という新人の出現を密かに期待して、「天才の珠玉の前にひれ伏したい気持」も伴っているとし[10]、そういった「慄然たる思ひ」を只一度感じたのが、深沢七郎の『楢山節考』の生原稿を読了した時だったと振り返り、「はじめのうちは、なんだかたるい話の展開で、タカをくくつて読んでゐたのであるが、五枚読み十枚読むうちに只ならぬ予感がしてきた。そしてあの凄絶なクライマックスまで、息もつがせず読み終ると、文句なしに傑作を発見したといふ感動に搏たれたのである」と述懐しながら、以下のように語っている[10]。
日沼倫太郎は、『楢山節考』の印象について、孝行息子が「はりさけんばかりの心」で母を捨てに行くという「残酷な行動」と、それに背馳した「肉親間の美しい愛情」とが、「奇妙にないまぜられ、全体として、酸鼻とも明るさともつかぬイメージをみなぎらせている」と評し[1]、そういった深沢の作り出す「イメージの世界のつよさ」に定評がある理由については、「あらゆる素材が物として処理されているから」、あるいは「物としてとらえる存在把握、ないしは存在透視力、ないしはメタフィジックにもとづいているから」だとし[1]。その世界観について以下のように解説している。
木村東吉は、「おりんは死ぬべき人間として運命づけられており、彼女は自分の死を完全無欠のものにするために全力を傾注している」とし[11]、自ら歯を折り、自分の死後、家族が困らないように全ての知識を伝授する、その振舞いや生き方に触れ、「自分の本能的欲望を主張しようとする姿はまったくなく、彼女は自己犠牲の道を誇り高く歩んでいるのである」と解説している[11]。そして、そのおりんの行動を無言で感じる息子・辰平が隠れて泣くのを、またおりんも無言で知るような、「あらゆることが相互に理解されている」関係性があることを指摘しながら[11]、「おりんの生き方や誇りは地域社会の価値体系に合致」し、それはすべて無言のうちに辰平や村人に通じているため、おりんは孤独に陥ることなく、自分の行き方を貫徹でき、自己犠牲でありながらも十分幸福であったと論考している[11]。
そして木村は、こういった強い「おりん像」は、作者・深沢自身の母親の像と重なっているとし[11]、深沢が肝臓癌で死んだ母親を、「誇り高い女であった」と述懐し[12]、葬儀の夕方から振り出した雨を、「私は雨をあんなに美しいと思ったことはなかった」[13]と『楢山節考』の雪を彷彿させる場面を語って、母親と同じ肝臓癌で死ぬのを理想としていると日頃から口にしていたことを鑑みながら[11]、「根っこのおりんの生き方は、そのまま作者自身の理想であったと考えられるのである。すなわち、おりんは作者の母の理想化された像であると同時に、作者の夢を託した人物だったということができる」と解説している[11]。
大木文雄は、日本独特と思われる『楢山節考』が外国人留学生たちにも感動を持って受け入れられたことから、その民族を越えた「感動の源泉」を探るため、フランツ・アルトハイムが『小説亡国論』の中で説いている要旨を説明し、アルトハイムが賞讃するダヌンツィオとロレンスの小説は、その中に「根源神話を孕んでいるゆえに飼い慣らされた文明を突き抜け、根源にひそむものに触れ得る力を持った文学」であり、「人間以前の動物的な深淵に触れさせることによって飼い慣らされた文明に風穴を開けさせ、革命させることのできる文学」であると纏めながら[14]、『楢山節考』の「感動の源泉」もまた、アルトハイムの説く「根源神話」と同じ次元から来ているとし、「姥捨伝説」は「太古から存在し、現在でも生きている」根源神話で、世界中に類似のものがあると解説している[14]。
そして、「姥捨て」は「高齢者福祉」という21世紀の大きな問題として現在し、介護施設に親を入れることは、「楢山まいり」に行くことと重なり、老いと死は人間の根本的な問題の「根源神話」であるとし[14]、大木は以下のように考察している。
まさに「飼い慣らされた文明」を突き抜けてさらに太古にまで溯る動物的な、ロレンスの言う「血と肉」と結びつく根源神話である。子孫のために自ら死を選ぶというありようは、突き抜けると動物の本能にまで溯る。鮭は産卵のために壮絶な死を選ぶ。生のための死。それは自然の根源法則が支配する世界である。それはゲーテのあの「至福なる憧憬」の詩の中にある「死して成れよ」Stirb und werde! の次元である。それはもはや神秘の世界に属する。それは汚すことのできない神聖な領域である。「楢山」には神が住んでいるというのはそういうことを意味する。 — 大木文雄「深澤七郎の小説『楢山節考』とフランツ・アルトハイムの『小説亡国論』」[14]
また大木は、「姥捨て伝説はなかった」[15]と主張する古田武彦の根拠の一つである、「親子みんなで、腹をへらしてがんばる、というのが本当じゃないかな」[15]という発言を、まさに「飼い慣らされた文明」の世界での発言だと指摘し、「誰かが死ななければ子孫が生き残れないほどに生活が苦しい状況」に直面した際に、そんな言葉は「戯言にすぎない」と反論して[14]、誰もが持つ人間の生存本能や死の恐怖を突き抜けた世界は、「それよりもはるかに壮絶な動物的な愛の本能にまで触れる世界」であり、「おりんの『楢山まいり』とそれをいやいやながら手助けする辰平の姿は、恐ろしく、壮絶だが、しかしそこには壮絶故の美が宿っている」と述べている[14]。
松原久子は、「年をとって労働力として役に立たなくなった人間を、死んでもらうために冬の山に連れていって置いてくるという習慣が、日本では当たり前であったかのように欧米人は信じている。しかしそれほど一般的であったかどうか、十分な資料に出会ったことがないので不明である。・・・映画の影響は大きい」と述べている[16]。なお肥後のある庄屋が子孫のために書き残した心得書には、次の一項がある。「村中にて年長の者を選び、七十四五から八十を越えた人には時々訪れ、年始か歳暮には鼻紙か小炭の一俵も軽い品を贈るようにする。九十歳になれば上から御祝も下されることであるから、その家に行って家内の者の心遣いなどをよく申し聞かすべきである」[17]
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