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東京都葛飾区にある拘置所 ウィキペディアから
東京拘置所(とうきょうこうちしょ)は、法務省東京矯正管区に属する拘置所。通称「東拘(とうこう)」、所在地である「小菅」と呼ばれることも多い。
江戸時代初期は関東郡代伊奈氏の邸宅があった。江戸時代中期になると、将軍家鷹狩り時の休憩所である小菅御殿が設けられた。小菅御殿の名残として、庭に置かれていた石灯籠(葛飾区登録有形文化財)と手水鉢、庭石が拘置所官舎敷地内に移設されている。
大政奉還直後の1869年(明治2年)、明治政府はこの地に武蔵国内の旧幕府領・旗本領を管轄する小菅県の県庁を置いた。廃藩置県で小菅県が廃止、東京府に変わると日本初の煉瓦工場が建設された。
1878年(明治11年)、内務省は囚人に与える苦役の一つとして煉瓦の製造に従事させることができるのではないかと判断、県庁跡に小菅集治監を設置した。翌1879年(明治12年)、刑務作業としての煉瓦製造が始まる。その後、小菅監獄を経て1922年(大正11年)、小菅刑務所と改称した。
第二次世界大戦終結後の1945年(昭和20年)10月、東京都豊島区西巣鴨(当時。現・東池袋4丁目の「サンシャインシティ」と「東池袋中央公園」)にあった東京拘置所の施設が、GHQに接収された。このため一時期、小菅刑務所に東京拘置所が同居する状態となっていた(東京拘置所の職員が小菅刑務所の職員を兼務)。A級戦犯は1956年(昭和31年)までに処刑または釈放され、B・C級まで含めた戦争犯罪者とされた者も1958年(昭和33年)5月までに全員釈放され、東京拘置所は巣鴨に復元された。
首都圏整備計画の一環として、東京拘置所を巣鴨の地から移転させることが必要になったため、1971年(昭和46年)に小菅刑務所は栃木県宇都宮市にあった宇都宮刑務所と統合の上、栃木県那須郡黒羽町(現・大田原市)に新設された黒羽刑務所(2022年3月31日に閉庁)へ移転。東京拘置所は再び小菅に移された。
主に未決囚を収容する市谷刑務所が1937年に巣鴨(当時。現在の豊島区東池袋)に移転し、「東京拘置所」と改称した。建物の建設は府中刑務所の受刑者のべ約一万人が2年がかりで行った[4]。
1944年(昭和19年)、ゾルゲ事件の被告リヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実が処刑された。
巣鴨の施設はGHQの接収により巣鴨プリズンとなり、戦争犯罪人(容疑者)を収容した(極東国際軍事裁判(東京裁判)のA級戦犯東條英機らの死刑執行も巣鴨プリズン内で行われた)。
所長の下に4部を持つ4部制施設である。
総務部に調査官1名を置く。
東武スカイツリーライン 小菅駅より徒歩3分(経路案内)。
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