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1934年から1997年まで東京都千代田区にあった劇場 ウィキペディアから
東京宝塚劇場(とうきょうたからづかげきじょう、英語: Tokyo Takarazuka Theater)は、1934年1月1日から1997年12月29日まで東京都千代田区有楽町1-12にあった宝塚歌劇団の東京での本拠地の劇場、および東宝が保有していた映画館。別名:宝塚会館。跡地には2代目劇場を保有する東京宝塚ビルが建っている。
阪急電鉄の小林一三が設立した株式会社東京宝塚劇場のもと、竹中工務店が設計、施工の主宰で、鷲尾九郎が平面を、石川純一郎が立面を、そして青柳貞世が構造を担当し、1年5か月という突貫工事で1933年12月31日に完成、翌日の1934年1月1日に開場、同時に宝塚少女歌劇団も東京に進出した。
東宝直営で、商業演劇、歌手芝居、ミュージカル等東宝演劇の中心地として機能しており、本来メインとなる宝塚歌劇は年数回(改築前数年間は年7か月)の公演だった。1956・57・59・61-72年はNHK紅白歌合戦の会場としても使用、またマリオ・デル=モナコとティート・ゴッビの共演で知られる第2回NHKイタリア歌劇団での『オテロ』の公演もここで行われた。なお、五階の小劇場は演芸の「東宝名人会」が常時催され、戦後東宝演芸場と改称、選りすぐられた寄席芸人を一堂に揃えた、東京演芸界の殿堂であったが1980年8月に閉鎖した。代わりに日劇から日劇ミュージックホールが移転した。
第二次世界大戦中は、日本劇場とともに風船爆弾工場として使用された。一方で、戦争が終わるとGHQにより接収された(1945年12月24日-1955年1月27日)。異文化の国に駐留する兵士達の慰問を目的としたアーニー・パイル劇場 (Ernie Pyle Theatre) と改称、日本人は観客としての立入が禁止された。アーニー・パイルという名前は1945年4月18日、沖縄県伊江島の戦闘で殉職した従軍記者に因んだものである。
1955年に接収が解除され、星組公演『虞美人』で公演が再開された[12]。ところが1958年2月1日東宝ミュージカル『アイヌ恋歌』の公演中に演出用の裸火が燃え移り出火、場内設備を焼失するとともに死者3名・負傷者25名を出す事態となった[11][13]。
開場以来使われてきた旧劇場は、関東大震災の復興期におけるモダニズム建築の傑作のひとつに数えられていたが、老朽化のため1997年12月29日に一旦閉場し、翌1998年1月から建替え工事を開始、2001年1月1日に新築オープンした(改築中、宝塚歌劇は2か月間帝国劇場で公演を行い、その後TAKARAZUKA1000days劇場開場と共に東京通年公演を開始した)。
宝塚会館 | |||
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劇場 | 階数 | 座席数 | 設備 |
東京宝塚劇場 | 1階 | 2778→2476 | |
日比谷スカラ座 | 4階 | 1341(1955年[8])→1197(1997年) | ドルビーデジタル |
東宝演芸場 | 5階 | 510→420 |
1934年1月1日に開場した本劇場のメインホール。舞台の開口部は宝塚大劇場より5尺高く作られており、当時日本最大規模のプロセニアム・アーチを持っていた[14]。客席は三層構造で、中二階に常設の投光室・調光室を設けていた。レビュー劇場として誕生した背景もあり、近代的な舞台照明を設けた初の劇場だった[15]。
1934年1月1日のこけら落とし公演は月組の舞踊「宝三番叟」、オペレット「巴里のアパッシュ」、レビュウ『花詩集』[16]。
プロセニアムアーチ 高さ30尺、幅78尺、舞台奥行51尺、盆直径48尺、吊物50本、迫り3個[17]
日比谷スカラ座(ひびやすからざ)は、東京都千代田区有楽町一丁目の東京宝塚劇場の4階に位置した映画館。
1940年4月16日、東京宝塚劇場を擁する宝塚会館4階に開業した「東宝四階劇場」(とうほうよんかいげきじょう)がその前身。戦後、宝塚劇場は「アーニー・パイル・シアター」となり、日本人は観客としての出入りが禁止された。
接収解除から半年を経た1955年7月14日、その東宝四階劇場を発展させる形で「日比谷スカラ座」がオープン。名称は有名なイタリア・ミラノの歌劇場であるスカラ座に由来する。1,197席を誇る大劇場として数々のヒット作や大作を上映したものの、1998年1月18日に立て直しのため一旦閉鎖(閉鎖期間中は向かいに隣接していた日比谷映画(現:シアタークリエ)がチェーンマスターの代替機能を請け負っていた)、
シリーズ作品
東宝演芸場(とうほうえんげいじょう)は、東京都千代田区有楽町一丁目の東京宝塚劇場の5階に位置した演芸場。東宝直営。定紋は東宝マーク。東宝名人会を公演した。
1934年9月21日、東宝小劇場として開場。ダンスホールとして計画したが監督官庁が新設を認めず、椅子席の寄席(定員442人)として開設された[1]。当初は常設興行場として認められなかったため、月1回の東宝名人会の他は落語研究会(1935年〜)や講談研究会(1937年〜)等が月1回開催されていた。1938年9月、常設興行場として認可され、以降は通常の演芸場となる。これに先立ち、同年7月より一時閉鎖して改装。防音設備や冷暖房などの空調、ならびに楽屋環境を充実させ、座席も510席から420席に減らして高級演芸場が誕生した。以降、昼の部に漫才などの色物を主体とした「東宝笑和会」が設けられ、「名人会」は夜の部の興行になった。「笑和会」は「名人会」の予備軍と位置付けられ、芸人養成の場となっていた。
1938年9月23日に常設演芸場として改造落成。
1944年4月、接収のため閉鎖。1955年8月1日に漸く東宝演芸場の名で復活した。高座は横に広く、かつ両袖から前にせり出していたため、落語が演じにくいと言った演者もいた。座席は最終的には337となっていた。日本テレビの中継も入り、オフィスの多い丸の内で本格的な一流の演芸が堪能できる場として、既に都内で多くの寄席が廃業している中唯一気を吐いていたが、1970年代半ばより興行成績が下降し、1980年日劇ミュージックホールを収容するために閉鎖された。
東宝専属
その他、所属協会に関係なく落語家・漫才師などが出演。東宝が独自に顔付けを行っていた。
(例:5代目古今亭志ん生・8代目桂文楽・6代目三遊亭圓生といった落語協会の人気落語家に、日本芸術協会会長の6代目春風亭柳橋が顔を揃えるなど。また、B&Bは東京進出して程なく売れ出した時に出演している)
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