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日本の歌手・俳優 (1935−1997) ウィキペディアから
小坂 一也(こさか かずや、1935年5月30日[1][2] - 1997年11月1日[2])は、日本の歌手、俳優。本名は同じ[1]。
愛知県名古屋市出生[2]、東京都出身[1][2]。成城学園高等学校[1]中退[2]。竹内事務所[3]、六月劇場[4]、グランパパプロダクションに所属していた[1]。
愛知県名古屋市に小坂文男の子として生まれ、東京で育つ。小学校から高校まで成城学園で学ぶ。元衆議院議員の羽田孜とは同級生で親交が深かった。中学時代には小澤征爾や松尾勝吾(松尾雄治の叔父)などと共にラグビー部に所属。高校時代からバンド活動を始め、進駐軍のキャンプ場などで演奏して回る。
1952年にワゴン・マスターズにボーカルとして参加。高校中退後の1954年、コロムビアレコードから「ワゴン・マスター」でデビューし、カントリーミュージックのアイドル的な存在として人気を博す。他に「青春サイクリング」などのヒット曲がある。また、1956年にはいち早くエルヴィス・プレスリーのカバー曲「ハートブレイク・ホテル」をヒットさせ[5]、「元祖和製プレスリー」とも呼ばれるなど日本で最も早くロックンロールを発表した一人となった。『NHK紅白歌合戦』にも3回連続出場した(詳細は#NHK紅白歌合戦出場歴参照)が、初年度が「ハートブレイク・ホテル」であり、当時としては異例の「NHKでロックンロールを歌った」歌手でもある。
1957年に映画デビュー、東宝・松竹の映画に出演した。当初は劇中の歌手の一人という形での出演であったが、俳優としての素質を認められ、1958年に松竹と契約した。同年の木下惠介監督の『この天の虹』での演技で注目され、以降の木下作品にも出演する。現代的な若者らしい演技で多くの映画に出演し、やがて松竹映画には欠かせない俳優となっていった。
その後もテレビドラマ・映画に存在感のある演技派として着実に出演を続けた。私生活では1974年1月、長年の同棲相手だった女優の十朱幸代と挙式する(未届けの事実婚)が、同年中に破局している。1977年に一般人と再婚。
1990年に少年期の回想記『メイド・イン・オキュパイド・ジャパン』を河出書房新社で刊行した(小学館文庫で再刊、2022年)。
晩年も闘病生活の中で俳優・歌手として活動したが、1997年11月に食道ガンのため死去[6]。62歳没。墓所は多磨霊園。戒名は釈一声で、宗派は浄土真宗。
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