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日本のフォークシンガー (1952-) ウィキペディアから
姫野 達也(ひめの たつや、1952年2月1日 - )は、日本のシンガーソングライター。チューリップのボーカリスト、キーボーディスト、ギタリスト。
現在[いつ?]は、地元福岡に暮らしながら音楽活動をしている。
福岡県福岡市出身。東福岡高等学校から八幡大学に進学。アマチュア時代は、後に海援隊メンバーとなる、高校・大学の同窓である千葉和臣とともにライラックを結成していたが、財津和夫に誘われチューリップに加入。1972年に上京し、東芝音楽工業(後の東芝EMI、現:EMIミュージック・ジャパン)より『魔法の黄色い靴』でレコード・デビュー。当時、メンバー最年少だった姫野がリードボーカルをとった3曲目のシングル『心の旅』(1973年)がヒットし、チューリップは、メジャー・バンドとなる。その後も、「夏色のおもいで」(1973年)、「銀の指環」(1974年)、「ぼくがつくった愛のうた〜いとしのEmily〜」(1974年)などの曲のボーカルを担当。当時は甘い歌声と美少年的なビジュアルであったこともあり、財津と並び人気を博していた。当時の愛称は「タッチー」。80年代からはひげを生やすなど、一時イメージチェンジを図ったこともある。
第二期となった80年代になると、生まれた長女のために財津が詞を提供した『この小さな掌(詩歩子へ)』、『光の花』の作曲・ボーカルを担当した。
デビューから13年が経った1985年、シングル『涙のパーティー』を最後にチューリップを脱退。のちに安部俊幸、伊藤薫、風祭東とオールウェイズを結成。姫野の脱退はチューリップにとって打撃となり、彼がボーカルを取る曲が演奏できなくなったことで人気の低迷、1989年の解散へとつながった。ただし、解散ライブには安部と共に参加している。
1986年、シングル『好きさ』、アルバム『ALWAYS BE TRUE』でデビューするが、オールウェイズは2008年以降、チューリップ再結成もあり、活動を休止している。
1990年から1997年まではオールウェイズの活動と並行して、浜田省吾のサポートミュージシャンとしてコンサート・ツアーなどにも参加していた。
1995年にビートルズが『フリー・アズ・ア・バード』をリリースしたことがきっかけで、財津に電話をかけて再結成を促したことから財津はチューリップの復活を決意する[1]。1997年のチューリップの再結成に参加して以降、同時に自身のソロライブ、千葉和臣とのライラックの再結成ライブも不定期に行っている。
出身地の福岡放送で放送されていた「朝ドキッ!九州」(当時は「朝ドキッ!九州555」)の初代キャスターを務めた。
2006年、チューリップのメンバー上田雅利、宮城伸一郎とのユニットである、LIPでの活動が発表されコンサートツアーも行われた。財津とのデュエットライブも行っている。
2007年に音楽生活35年を迎えた。
2012年、チューリップのデビュー40周年を記念して、K.Yairiより自身のシグネチャーモデルのアコースティック・ギターが製作された。
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