大野城(おおのじょう/おおののき)は、福岡県の太宰府市・大野城市・糟屋郡宇美町にまたがる大城山(おおきやま)[1]に築かれた、日本の古代山城。城跡は、1953年(昭和28年)3月31日、国の特別史跡「大野城跡」に指定されている[2]。
概要 logo大野城 (福岡県), 城郭構造 ...
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大野城は、大宰府政庁跡の北側背後に聳える、標高410メートルの四王寺山(大城山)[注 1]に所在する。山頂を中心に馬蹄形状の尾根から谷を廻る土塁と石塁の外周城壁は、約6.8キロメートルである。そして、南側と北側の土塁が二重となり(城壁総長は8.4km)防備を固める。城域は東西約1.5キロメートル×南北約3キロメートルの、日本一の大規模な古代山城である[3]。城門は太宰府口城門など9か所が開く[注 2]。また、谷部では、浸透式で自然排水の百間石垣・水ノ手石垣などに加え、水口のある屯水石垣などが確認されている[4][5]。
大野城市の名称はこの大野城に由来する[6]。2006年4月6日には、日本100名城(86番)に選定された。
発掘調査では、太宰府口城門が三期にわたって建て替えられている。また、北石垣城門は、入口前面に1メートルほどの段差を設けた懸門構造であり[注 3]、門柱の軸受け金具の出土は国内初の事例である[7]。そして、約70棟の建物跡が確認され、数棟で一群となり、主城原(しゅじょうばる)礎石群など、城内8か所に分布する。掘立柱建物と礎石建物があり、倉庫と考えられている総柱礎石建物が多数存在するが、築城期以降の建物とされている。出土遺物は、墨書土器・軒丸瓦・軒平瓦・炭化米などが出土している[8]。
- 城跡の研究は、1926年(大正15年)、島田二郎が発表した「大野城址」を嚆矢とする[9]。
- 考古学的研究は、1950年~1960年の鏡山猛の踏査研究[10]をもとに、1973年(昭和48年)から九州歴史資料館が発掘調査を行っている。発掘調査の成果は、福岡県教育委員会 編集/発行 『特別史跡 大野城跡 ・I~IV』、1976年~1991年、で報告されている[11]。
- 平成15年7月、異常な豪雨で土砂災害が発生し、平成16年から6年間にわたり、約30か所で遺構関連復旧工事が施工された[12]。
- 土塁の崩壊により、外郭線の全域の土塁基底部に列石が存在することが判明した。また、列石の前面で柱穴列が検出された[13]。
- 九州管内の城も、瀬戸内海沿岸の城も、その配置・構造から一体的・計画的に築かれたもので、七世紀後半の日本が取り組んだ一大国家事業である[14]。
- 1898年(明治31年)、高良山の列石遺構が学会に紹介され、「神籠石」の名称が定着した[注 4]。そして、その後の発掘調査で城郭遺構とされた。一方、文献に記載のある大野城などは、「古代山城」の名称で分類された。この二分類による論議が長く続いてきた。しかし、近年では、学史的な用語として扱われ[注 5]、全ての山城を共通の事項で検討することが定着してきた。また、日本の古代山城の築造目的は、対外的な防備の軍事機能のみで語られてきたが、地方統治の拠点的な役割も認識されるようになってきた[15]。
『日本書紀』には、「・・・大野(おおの)と椽(き)、二城(ふたつのき)を築かしむ」と、記載する[注 6]。また、『続日本紀』に、「大宰府をして大野、基肄(きい)、鞠智(くくち)の、三城を繕治せしむ」と、記載された城である[注 7]。
大野城は、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、大和朝廷が倭(日本)の防衛のために築いた古代山城である。665年(天智天皇4年)、基肄城とともに築いたことが『日本書紀』に記載されている。城郭の建設を担当したのは亡命百済人で、「兵法に閑(なら)う」と評された、軍事技術の専門家の憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくぶ)である。また、大野城・基肄城とともに長門国にも亡命百済人が城を建設しているが、城の名称は記載されず、所在地も不明である[16]。そして、『続日本紀』の698年(文武天皇2年)には、 大野城・基肄城・鞠智城の三城の修復記事が記載されている。
天智政権は白村江の敗戦以降、唐・高句麗・新羅の交戦に加担せず、友好外交に徹しながら、対馬~九州の北部~瀬戸内海~畿内と連携する防衛体制を整える。また、大宰府都城の外郭は、険しい連山の地形と、それに連なる大野城・基肄城と平野部の水城大堤・小水城などで防備を固める。この原型は、百済泗沘都城にあるとされている[17]。
大野城が所在する「山」の名は、『万葉集』や『風土記』逸文は、「大野山」や「大城山」と記述する[18]。
『日本書紀』に記載された白村江の戦いと、防御施設の設置記事は下記の通り。
- 大野城跡の史跡指定面積の8割は宇美町(うみまち)に属し、百間石垣や増長天礎石群などの遺構が所在する[19]。増長天礎石群は内周土塁に沿った四棟の礎石建物跡で、見学者が多いため、「イラスト復元の説明板」への変更が検討されている[12]。
- 平成25年~27年の三か年にわたり、「水城・大野城・基肄城 1350年記念事業」が企画され、関連自治体に加え、官民も連携した各種の記念事業が展開された[20]。
- 聖地としての「四王寺山」の名称は、宝亀5年(774年)の外敵駆逐を祈願する護国の寺、四王寺(四天王寺・四王院)の建立に起因する。その後、伽藍は現在の毘沙門堂に変遷する。また、十二世紀には多くの経塚が造営され、十八世紀末には山内の要所に三十三観音の石像が安置され、現在に至る[18]。
太宰府口城門跡
大石垣(高さ6m)
小石垣(高さ10m)
北石垣(上段高さ4m)
増長天地区の建物礎石
主城原の建物礎石
注釈
福岡県では、通称の「四王寺山(しおうじやま)」が一般的に使用されている。本項目も「四王寺山」を主とする。
太宰府口・坂本口・水城口・宇美口の城門に加え、2003年の集中豪雨の復旧事業で、原口・観世音寺口・北石垣・小石垣の城門が発見された。その後、新たに中嶋聡(古代山城研究会会員)により、クロガネ岩城門が発見された。
朝鮮半島の山城をルーツとする様式で、城門の入口に進入しにくい段差のある城壁を設け、普段は梯子・木段などで出入りし、戦闘時は撤去する門で、防御性能を高める構造。
歴史学会・考古学会における大論争があった(宮小路賀宏・亀田修一「神籠石論争」『論争・学説 日本の考古学』第6巻、雄山閣出版、1987年)。
1995年(平成7年)、文化財保護法の指定基準の改正にともない「神籠石」は削除され、「城跡」が追記された。
『日本書紀』の天智天皇四年(665年)八月の条に、「・・・築 大野及椽 二城」と、記載する。
『続日本紀』の文武天皇二年(698年)五月の条に、「令 大宰府 繕治 大野、基肄、鞠智、三城」と、記載する。
出典
渡辺正気 著 『日本の古代遺跡 34 福岡県』、保育社、1987年、113-114頁。
下原幸裕 「大野城」『季刊 考古学』136号、雄山閣、2016年、24-28頁。
田中哲雄 著 『城の石垣と堀』日本の美術 第403号、至文堂、1999年、19-20頁。
石木秀啓 「大野城市 ーふるさととしての古代山城ー」『月刊 文化財』 631号、第一法規、2016年、24頁。
岡寺 良 「大野城とは」『特別史跡 大野城跡』、九州歴史資料館、2015年、10頁。
岡田 諭 「建物」『特別史跡 大野城跡』、九州歴史資料館、2015年、32-37頁。
小沢佳憲 「大野城跡における最近の調査成果」『古代文化』第62巻 第2号、古代學協会、2010年、66頁。
鏡山 猛 著 『大宰府都城の研究』、風間書房、1968年。
向井一雄 「大野城跡」『東アジア考古学辞典』、東京堂出版、2007年、62頁。
入佐友一郎 「史跡整備の現場より -大野城跡における取り組ー」『月刊 文化財』 631号、第一法規、2016年、33-35頁。
向井一雄 著 『よみがえる古代山城』、吉川弘文館、2017年、98頁。
狩野久 「西日本の古代山城が語るもの」『岩波講座 日本歴史」第21巻 月報21、岩波書店、2015年、3頁。
赤司善彦 「古代山城研究の現状と課題」『月刊 文化財」631号、第一法規、2016年、10-13頁。
森公章 「倭国から日本へ」『倭国から日本へ』、吉川弘文館、2002年、78頁。
小田富士雄 「大宰府都城の形成と東アジア」『季刊 考古学』136号(西日本の「天智紀」山城)、雄山閣、2016年、19頁。
井形 進 「聖地四王寺山」『特別史跡 大野城跡』、九州歴史資料館、2015年、52頁。
松尾尚哉 「宇美町 ー1400年を目指してー」『月刊 文化財』 631号、第一法規、2016年、27頁。
山村信榮 「水城・大野城・基肄城 1350年記念事業について」 『月刊 文化財』 631号、第一法規、2016年、21頁。
- 城域は、「福岡県立四王寺県民の森」として遊歩道が整備され、「県民の森センター」に駐車場(150台)や休憩所などがある。
- 西鉄太宰府線太宰府駅から「県民の森センター」まで車で約15分、徒歩約50分。
- JR九州(九州旅客鉄道)香椎線宇美駅から「県民の森センター」まで車で約15分。
- 九州自動車道太宰府インターチェンジから約6km。