堀内 光一郎(ほりうち こういちろう、1960年〈昭和35年〉9月17日 - )は、日本の実業家。
概要 ほりうち こういちろう 堀内 光一郎, 生誕 ...
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富士急行株式会社代表取締役社長、山梨中央銀行監査役、テレビ山梨会長、山梨経済同友会副代表幹事、富士吉田商工会議所会頭[1]、社団法人日本バス協会前会長、富士五湖観光連盟会長、慶應義塾大学理事・評議員、慶應義塾大学ビジネススクール顧問[2]、日本スケート連盟理事、日本民営鉄道協会理事、千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会理事[3]、根津美術館評議員、山階鳥類研究所評議員、山種美術館評議員、ミズノスポーツ振興財団評議員[4]、日本経済団体連合会審議員、身延山久遠寺参与・信徒総代、軽井沢会監事、日本ホテル協会監事、恩賜財団母子愛育会(愛育病院運営母体)評議員、名誉ソムリエ等を歴任。
系譜
- 清和源氏(甲斐源氏)逸見氏堀内家の嫡流[5]。武田家家臣の子孫とその来歴について書かれた『甲陽重家録』によれば、逸見光長の四世孫の堀内長宗が建長のはじめに鎌倉街道金川筋上黒駒に移住し、武田家に臣従したという。
- 身延山久遠寺の記録には、鎌倉期の1282年(弘安5年)9月11日(旧暦)、病を得て湯治に向かうため身延山を下りた日蓮が上黒駒の堀内長家宅に宿泊した、とある[6]。このように日蓮宗と関わりが深く、身延山久遠寺の信徒総代を良平から光一郎まで代々勤めている。
- 上述のように先祖は鎌倉時代から代々甲斐守護大名の武田氏に仕え、武田信玄の元では、佐渡守(堀内政俊)、若狭守(堀内政豊)を拝任[5]。川中島での戦功を称され宝刀を授与されたり、堀内政豊は三枚橋城の城将に任ぜられた[7]。なお、宝刀並びに鎧、陣笠などは当家に今も保管されているという[5]。
- 甲斐国志にも堀内家の記録が残されており、江戸時代には上黒駒周辺の名主を務めた、と書かれている。
- 帰農した堀内政豊(堀内家十八代目、初代藤右衛門)が上黒駒に移住してきた長宗と同じ藤右衛門を名乗るようになり、以降当主は十三代目まで代々”藤右衛門”の名を承継した。
- 代々光一郎を除き衆議院議員を務めていることから、衆議院議員の金丸信の金丸家、衆議院議員・山梨県知事の天野久らを輩出した天野家、衆議院議員・山梨県知事の田邊圀男らを輩出した田辺家と併せ山梨政界四家と言われた[8]。
- 妻の詔子は、父の小林喬が明仁上皇と、自身が秋篠宮文仁親王と学習院で同窓であった[9] ことなどを背景に、かつて皇太子徳仁親王(現在の今上天皇)のお妃(=皇太子妃)候補として名前が挙がることがあった[10][11][12][13][14]。また、光一郎自身も紀宮清子内親王(当時)の婿候補になったと報道されている[10]。
- 父の光雄も慶應義塾予科・大学出身で、本人も評議員・理事を務めるなど慶應義塾との関わりが強い。父の一雄は陸軍大学校出身だが、叔父の義男、同子息の義太郎は慶應の出身[19] であり、曾祖父の良平も慶應義塾に山中湖別荘地の土地を寄付し、学校寮を誘致するなど[6] 繋がりは累代続いている。
- 義太郎は慶應義塾体育会柔道部に所属し主務を務めた。逝去にあたり私財を同部に寄付したため、それを基に2001年「堀内義太郎基金」が設立された[20][21]。
- 日経スペシャル カンブリア宮殿 観光新時代スペシャル!進化する富士山観光&人気の安くて自由な旅(2018年7月19日、テレビ東京)- 富士急行 社長 堀内光一郎氏、旅籠屋 社長 甲斐真氏出演[30]。
山寺和夫『甲陽重家録』株式会社西東京、昭和49年。
『山梨政界四家の攻防 5代・45年の知事選』山梨新報、1991年10月。 堀内 詔子 (2022). “101人の輝ける日本人 秋篠宮”. 文藝春秋 第101巻第1号: 335.
小田桐誠『消えたお妃候補たちはいま』ベスト新書(ベストセラーズ)。
“いよいよ本番浩宮さま「お妃」選びの有望リスト 学習院か聖心か 民間か旧華族かの論議の中で”. FRIDAY 1985年12月6日号. (1985).
小佐野景寿『地方の名門企業77』週刊東洋経済 2017年10月28日号、2017年、47頁。
堀内義男『水流るるままに』富士見書房、2001年11月10日。
佐藤朝泰『豪閥―地方豪族のネットワーク』立風書房、2001年7月1日、118-119頁。