吾平町
日本の鹿児島県肝属郡にあった町 ウィキペディアから
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吾平町(あいらちょう)は、2005年まで鹿児島県本土の南東、大隅半島の中ほどにあった町。
2006年1月1日、鹿屋市・輝北町・串良町と対等合併して、新市制の鹿屋市となった。現在は鹿屋市のうち旧吾平町域の大字に冠する地名である。キャッチフレーズは美里吾平(うましさとあいら)。
「吾平」の表記は、神代三山陵のひとつである吾平山上陵に由来する。同じ鹿児島県の姶良町(現在の姶良市)とは読みが全く同じである。
北部は肝属平野の沖積平野、南部は肝属山地(国見山系)に大別される。山地と平野の間にはシラス台地が広がる。国見山系を源とする姶良川・苫野川(肝属川水系)が北流する。2つの川は町中央部で合流し姶良川となり、町北端で肝属川に合流する。 集落の多くはシラス台地の外縁に分布している。
町内の地域区分には、住所の表記に使用される大字(明治時代以前の「村」に相当する)による区分と、小学校の学区を基にした区分がある。
日常生活上では集落名が主に用いられ、行政でも『広報あいら』[1](町の広報誌)や鹿屋市の条例[2]などで使用されている。かつては町内会も集落ごとにおかれていたが、再編により小学校区ごとに1-4か所にまとめられている。
住所名と小学校区は必ずしも一致しない。例として、町南西部の金山集落は住所上は「下名」の飛地だが、小学校の学区では「鶴峰地区」にあたる。
町内には下名(しもみょう)、麓(ふもと)、上名(かんみょう)があり、飛地を考慮しない場合、姶良川の上流から順に上名・麓・下名が位置する。2010年以降は大字に「吾平町」を冠している(例:鹿屋市吾平町麓)。
神野地区・鶴峰地区・中央地区(吾平小学校区)・下名地区がある。
(文字としての)「吾平」の初出は720年の歴史書『日本書紀』の吾平山上陵に関する記述であるが、『続日本紀』の大隅国設置に関する記述では「姶羅郡」とあり、平安時代以降も『延喜式』で「姶良」、『和名類聚抄』で「姶羅郡」「大隅郡姶﨟郷」と記されている。1197年の『大隅国図田帳』には荘園のひとつとして姶良荘と記されている。この後も江戸時代は薩摩藩の行政区域「姶良郷」(外城)、1889年の町村制実施時にも姶良村して発足するが、1947年の町制施行の際に「吾平」に戻された。
吾平山上陵の位置について『日本書紀』には「ウガヤフキアエズが日向国の吾平山上陵に葬られた」と記されている。 日向国というと宮崎を連想するが、『日本書紀』が記述された時代には南九州一帯が'日向'と呼ばれていた。
近世薩摩藩の地誌『三国名勝図会』には吾平山上陵が鵜戸神社(当時は山陵内に鎮座)とともに掲載された。
1874年、吾平町の吾平山上陵は明治政府に「比定」された(可愛山陵・高屋山上陵も鹿児島県内に比定されている)。 現在は宮内庁書陵部の管轄である。
「吾平山上陵」は吾平町を象徴するものである。上述のように「あいら」の表記は吾平山上陵に由来し、町章も吾平山上陵にちなんだ八咫鏡を図案化したものである。広報紙『広報あいら』は2000年ごろまで表紙に吾平山上陵を採用しており、『閉町記念誌 吾平のあゆみ』(2005年)の表紙・裏表紙も吾平山上陵であった。
縄文時代の遺跡は町西部の台地に集中してみられる。弥生時代の遺跡は町全域に分布する。
肝属平野、特に志布志湾沿岸地域には大規模古墳群が集中するが、吾平町においても地下式横穴墓や円墳などが分布している。2005年には名主原遺跡(みょうずばる)から6基の地下式横穴墓が発見された[3]。
大隅国設置時(713年)の4郡に「姶羅郡」があるが、平安中期の辞書『和名類聚抄』では姶﨟郷は大隅郡所属とされている。姶羅郡の郷には「鹿屋」「串良」など吾平町に隣接する地域の名称がみられる。
当時の大隅郡・姶羅郡・肝属郡の正確な位置関係は不明であるが、『角川日本地名大辞典』では、吾平町域が大隅郡と姶羅郡の境界上にあり、大隅国の設置以前は「姶良地方」と呼ばれた地域が存在した、と推測している。
1197年の『大隅国図田帳』に大隅国正八幡宮(鹿児島神宮)領として姶良荘が記されている。これとは別に島津荘寄郡として「姶良西俣」があり、現在の鹿屋市飯隈町(西俣小学校付近)に比定される。
南北朝時代以降は東隣の高山から肝付氏の勢力が及ぶが、1574年に肝付氏は伊地知氏とともに島津氏に降伏。1577年に高山を除く肝付氏の所領が没収され、姶良は島津氏領となった(1588年から1595年は伊集院忠棟の私領)。
江戸時代は薩摩藩(島津氏)領となり、姶良郷(外城)として統治された。外城には郷士の居住する「麓集落」がおかれたが、姶良郷においては町役場(現在の総合支所)北部一帯に位置した。
中世以前には吾平町域に町村・浅井村・萩原田村の3村、1602年時点では姶良郷内に上名・下名の2村があったが、延宝年間(1673年-1681年)に上名(旧 町村)・下名(旧 荻原田村)・麓(旧 浅井村)の3村に改められた。3村は現在も大字として残置されている。
明暦年間から寛文年間(1655年-1673年)ごろにかけて新田開発がなされた。労働力を必要とした薩摩藩は薩摩半島(西目)から多くの農民を移住させた。
1824年の『姶良名勝誌』によると姶良郷の人口は2,999人、石高は6,937石であった。
1871年7月、薩摩藩は廃藩置県により鹿児島県となったが、同年11月から1873年1月まで旧大隅国は都城県所属であった。
1889年の町村制実施時に姶良郷一帯にあった上名村・麓村・下名村が合併し姶良村が成立。1920年末に大隅鉄道(後の大隅線)が開通した。
1938年10月15日に接近した台風による水害[4]は村内に甚大な被害をもたらし、死者75名、行方不明者13名、家屋流出112戸の惨事となった。この後姶良川の改修が本格的に進められ、現在は1938年ほどの被害は抑制されている(肝属川#歴史も参照)。
1947年10月15日に「水害からの復興記念」として[5]町制を施行し、「姶良」を「吾平」に改めた。改称の理由は「姶良」が大姶良村(1941年に鹿屋町・花岡村と合併)や姶良郡と混同されるためであった。
この姶良郡は江戸時代、始羅郡(しら)と呼ばれていたが、これが『続日本紀』『和名類聚抄』の姶羅郡(あいら)と混同され、明治初期に姶良郡(あいらぐん)に統一されたものである。鹿児島湾の北西に位置した姶良町(あいらちょう、現在は姶良市の一部)はこの郡名に由来するが、姶良町の発足は1955年であり、「姶良村」と「姶良町」が同時期に存在したことはない。
姶良町と読みが同一であることから、報道などでは吾平町を「肝属郡吾平町」「大隅半島の吾平町」、 姶良町を「姶良郡姶良町」と区別していた。
1960年に人口のピークとなる11,369人[6]を記録したが、高度経済成長期の若年者の流出、それ以降は少子高齢化が要因になり人口は減少傾向となった。1970年に8,000人を下回り、同年5月、吾平町が過疎地域に指定された。1990年以降は7,300人台で推移している。
1990年代以降、町北部の下名地区を中心として団地が造成され、町中心部の拡幅工事も実施されたのに対し、町南部の鶴峰・神野地区では道路整備が進められながらも過疎化が深刻な状況となっている。神野小学校の児童数は数名程度であり、学校の存続も危ぶまれている。
鹿屋市との合併の機運は昭和期にも2度みられたが、いずれも吾平町が自立を望んだため頓挫した。
最初の機運は1941年の鹿屋町・大姶良村・花岡村・姶良村の4町村による合併・市制施行であった。鹿屋・大姶良・花岡の議会が全会一致であったのに対し、姶良村議会のみが賛成に至らず、姶良村を除いた3町村が合併して(旧)鹿屋市が発足した。
次の機運は町村合併促進法に基づいた昭和の大合併によるものであった。鹿児島県は始め高山町・吾平町の合併を計画していたが、吾平町側が「高山が中心となり吾平が衰退する」として反対。県は合併案を鹿屋市・吾平町の2市町に変更したが、吾平町は鹿屋市の財政難や旧大姶良村が衰退したことを理由に反対した。
3度目の機運は平成の大合併によるものであった。2003年、吾平町は鹿屋市・垂水市・輝北町(串良町は2004年に参加)との枠組みで2005年の合併を目指した「大隅中央法定合併協議会」を設置し合併協議を進めた。ところが、垂水市が合併協議会から離脱し、鹿屋市側も新市名として決定していた「大隅市」に異議を唱えた。吾平町・鹿屋市・輝北町・串良町は2004年7月に「大隅中央合併協議会」を改めて設置。新市名も「鹿屋市」と決定され、同年11月26日に合併協定調印式が挙行された。新市名や市章、市旗はいずれも旧鹿屋市から引き継がれているものの、合併方式は新設合併(4市町を廃止し、新たに鹿屋市を設置する)であった。2005年12月11日に閉町式を挙行。2006年1月1日に合併・新鹿屋市が発足し、旧吾平町域は地域自治区となった(2009年まで)。
1872年以前は旧暦。
1889年の町村制実施以降の姶良村・吾平町長を記載する。表記は『閉町記念誌 吾平のあゆみ』6頁に基づく。
代 | 氏名 | 就任期間 |
---|---|---|
初代村長 | 松山源五左衛門 | 1889年-1895年 |
第2代 | 田野邊唯二 | 1895年-1897年 |
第3代 | 鎌田禎蔵 | 1897年-1899年・1900年-1902年 |
第4代 | 黒石慶之介 | 1899年-1900年・1902年-1904年 |
第5代 | 鎌田栄介 | 1904年-1909年・1917年-1922年 |
第6代 | 田野邊主税 | 1909年-1915年 |
第7代 | 松山貫一 | 1915年-1917年 |
第8代 | 野田勇次郎 | 1917年・1924年-1928年 |
第9代 | 東桂木亀吉 | 1917年 |
第10代 | 門田亀吉 | 1922年-1924年 |
第11代 | 松下嶽男 | 1928年-1939年・1943年-1945年 |
第12代 | 宮原興助 | 1939年-1943年 |
第13代村長・初代町長 | 坂口助次郎 | 1946年-1955年 |
第2代 | 長崎貞治 | 1955年-1971年 |
第3代 | 吉留綱雄 | 1971年-1991年 |
第4代 | 野尻辰雄 | 1991年-2003年 |
第5代 | 井神五哉 | 2003年-2005年 |
2005年10月時点の総人口は7,357人。世帯数は2,852。高齢化率は29.1%。
この他、1991年に閉校された神野中学校(1947年に吾平中学校の分校として設置、1954年独立)があった。
町内には2本の主要地方道(県道)が通過している。鹿児島県道68号鹿屋吾平佐多線は南北を通り、鹿屋市街地と錦江町を結ぶ。鹿児島県道73号鹿屋高山串良線は東西を通り、鹿屋市大姶良地区と肝付町高山地区を結ぶ。2本の主要地方道は市街地で交差し、その交差点から一般県道折生野神野吾平線(県道544号)が南方向(吾平山上陵・神野地区方面)へ延びる。
最寄りの高速道路は宮崎自動車道の都城インターチェンジ(宮崎県都城市)。
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