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外城制

薩摩藩の統治制度 ウィキペディアから

外城制
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外城制(とじょうせい)とは薩摩藩(鹿児島藩)が行った地方支配の制度[注 1][注 2][注 3]1784年天明4年)、この呼称をと改めた[注 4]

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薩摩国における外城

歴史

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入来麓(現薩摩川内市
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出水麓(現・出水市

薩摩藩は1871年明治4年)時点で人口の26%が武士だった[注 5]ように、武士の数が他藩に比べて非常に多かった。そこで領内を区分し、武士を分散させるために区分内の拠点ごとに定住させ、また軍事ネットワークの一端とした。また、農山漁村や町場を支配する拠点としても活用した。この拠点は島津家当主の居城である内城[注 6]に対して外城(とじょう)と呼ばれ、近代以後の歴史用語として外城制と定義された。

外城制は戦国期島津氏における地頭[注 7]・衆中制[注 8]が変質したもので、領内各地の城砦に半農半士の武士の集団が駐屯・居住し、有事に領主・地頭の命令で戦闘員となる役割を担った。戦国末期~織豊期に外城区域内の複数の城砦に拠っていた形態から、区域内の中心的城砦の山麓の麓集落(ふもとしゅうらく、または単に)と呼ばれるミニ城下町へ集住する形態へ移行した[注 9]

一つの外城は数ヶ村を区域とし、中心村の城砦や農山漁村主要部・交通の要衝に設置された地頭仮屋を中心として麓集落が広がり、武家屋敷が存在した。この外城の屋敷に住む武士を、鹿児島城下に住む城下士に対し外城士[注 10][注 11] と呼んだ。外城の行政は地頭の居館である地頭仮屋で行われたが、地頭は寛永以降は鹿児島城下へ定住するようになり[注 12]、次第に軍事的意義も薄れていった。やがて上級郷士((あつかい)[注 13]、組頭、横目のいわゆる麓三役)が実質的支配にあたるようになった。

1878年明治11年)の郡区町村編制法に基づき設置された戸長役場においても、行政区域の大部分が郷(外城)を単位としたものであり、1889年(明治22年)の町村制実施時もほぼそのまま[注 14][注 15][注 16]として引き継がれた。小規模な郷[注 17]は1950年代の昭和の大合併で、大規模な郷[注 18]も21世紀初頭の平成の大合併でそのほとんどが合併を経験したが、枕崎市[注 19]長島町[注 20]など行政区域が郷とそのまま合致する自治体が現存する。

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外城一覧

要約
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薩摩藩の私領と郷の配置図

以下に列記した外城(郷)は延享元年(1744年)以降、外城の数が計113と一定になった時ものである。

さらに見る 国, 郡 ...

薩摩国51ヶ所、大隅国42ヶ所、日向国20ヶ所
私領地21ヶ所、大郷17ヶ所、中郷44ヶ所、小郷31ヶ所
計113ヶ所

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新設された外城

廃止された外城

  • 伊佐智佐(谿山郡、山田と合併し谷山)
  • 山田(谿山郡、伊佐智佐と合併し谷山)
  • 坊(河辺郡、1650年頃に泊と合併し坊泊)
  • 泊(河辺郡、1650年頃に坊と合併し坊泊)
  • 久志(河辺郡、1657年頃に秋目と合併し久志秋目[3]
  • 秋目(河辺郡、1657年頃に久志と合併し久志秋目[3]

脚注

参考文献

関連項目

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