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韓国のプロ野球球団 ウィキペディアから
ハンファ・イーグルス(朝: 한화 이글스、英: Hanwha Eagles)は、KBOリーグに所属する大韓民国のプロ野球チームである。大田広域市をホームタウンとし、本拠地は同市内にある大田ハンファ生命イーグルスパーク。親会社は韓国有力の企業グループの一つハンファグループ。
ハンファ・イーグルス | |
---|---|
Hanwha Eagles | |
会社名 | 株式会社 ハンファイーグルス |
創設 | 1985年 |
所属リーグ | |
KBOリーグ | |
歴代チーム名 | |
| |
本拠地 | |
大田ハンファ生命イーグルスパーク(大田広域市中区) | |
収容人員 | 14,000人 |
永久欠番 | |
21・23・35・52 | |
獲得タイトル | |
シリーズ優勝(1回) | |
1999 | |
成績(タイトル以外) | |
シリーズ出場(6回) (太字は勝利した年) | |
1勝5敗 1988・1989・1991・1992・1999・2006 | |
プレーオフ出場(7回)(太字は勝利した年) | |
4勝3敗 1988・1991・1994・1999・2005・2006・2007 | |
準プレーオフ出場(8回)(太字は勝利した年) | |
4勝4敗 1990・1994・1996・2001・2005・2006・2007・2018 | |
球団組織 | |
オーナー | 金升淵 |
運営母体 | ハンファグループ |
監督 | 金卿文 |
1985年、KBOリーグ創設後初の新設チーム(7番目)として「ピングレ・イーグルス」が創設。大田広域市(当時の大田市)をホームタウンとする条件での創設だった(後述)。球団名は「ピングレ」から1994年に「ハンファ」へと変更されたが、運営母体は一貫してハンファグループである。
本拠地は球団創設時より大田ハンバッ運動場野球場(現愛称:大田ハンファ生命イーグルスパーク)を使用している。当球場は1982年から3年間、OBベアーズの本拠地として使用されていた。準本拠地は忠清北道清州市西原区にある清州総合運動場野球場である。二軍は2013年より忠清南道瑞山市の瑞山野球場を使用している。球団事務所は大田ハンファ生命イーグルスパーク内に置かれている。
韓国プロ野球の草創期、大田(テジョン)市(当時は忠清南道管轄)を本拠地として申し出る球団がなかったため、ソウルを本拠地として希望していたOBベアーズ(現:斗山ベアーズ)が、1984年のシーズンが終わるまで、大田をホームとする新球団を創設する条件で、3年間大田に本拠地を構えていた。その間、KBOは忠清南道天安市出身の金升淵会長が総帥の韓国火薬に大田を本拠地とする新球団創設を打診。韓国火薬がこれを受諾して、1984年シーズンオフ、新球団を創設。球団の名前につける企業名は、一般人に怖い印象を与える社名の韓国火薬の代わりに、ファンにもっと親密に近づけるように、グループ傘下の食品会社である「ピングレ」(朝鮮語で「スマイル」の意)に決定。ニックネームは一般公募を通じて一番の得票を記録した「イーグルス」とし、新球団「ピングレ・イーグルス」(빙그레 이글스)の船出となった。
KBOと既存の6球団はピングレのリーグ参加を容易にするため、保有選手を供出することに加え、1984年と1985年のドラフトで、それぞれ10枚の特別指名権を与えた。これでピングレ・イーグルスは当時ロサンゼルス・オリンピック野球韓国代表出身選手を含む、当時のドラフトの目玉になっていた大卒新人選手を多く入団させて、チームを形作ることまでは難なく進んでいた。そして、ピングレ・イーグルスは、新球団のリーグ参加による衝撃を緩和するため、1年間の準備期間を経て、1986年シーズンからリーグ戦に参入させることにした。
しかし、各チームの保有枠から外れた選手や新人主体のチームは当時最下位の代名詞であった青宝ピントゥスと最下位争いをすることに。結局、球団元年の1986年は最下位、1987年は青宝を抜いて7チーム中6位で最初の2年を過ごした。
2年間の最下位争いの後、初代監督の裵聖瑞(ペ・ソンソ)との契約の終了に合わせて、OBベアーズと三星ライオンズでそれぞれチームを優勝に導いた金永徳(キム・ヨンドク)を優勝請負人として監督に招いた。金永徳が監督を務めた1988年シーズンからチームは、その前とは違う戦いぶりを披露。シーズン序盤から上位争いに食い込み、当時全盛期を謳歌していた首位のヘテ・タイガースに0.5ゲーム差の2位で前期リーグを終了、世間を驚かせた。後期リーグは3位で終了して、プレイオフで後期リーグ2位の三星と対決。そこまで2年連続韓国シリーズに進出して、ポスト・シーズンの経験の豊富な三星の優位との予想を覆し、3連勝で三星を一蹴。また波乱を起こしながら、一軍参入3年目で韓国シリーズ進出を決めた。ヘテ・タイガースとの韓国シリーズでは3連敗で一気に王手をかけられたが、それから第4、5戦をものにして、シリーズを第6戦まで持ち込んだ。結局第6戦に敗れて、2勝4敗で敗退した。
翌年のシーズンは1シーズン体制に制度が変更。リーグ戦の1位チームに韓国シリーズ直行の権利が与えられる制度の下で、ピングレは当時「ダイナマイト打線」と呼ばれた豪快な打線をバックにシーズン序盤から首位を快走。2位のヘテに5.5ゲーム差をつけて首位でレギュラーシーズンを終了。2年連続で韓国シリーズ進出に成功した。そして、プレイオフを勝ち越してシリーズにあがったヘテとのリターンマッチになったシリーズの第1戦で李康敦(イ・ガンドン)がヘテのエース宣銅烈から1回裏先頭打者ホームランを打ったのを合図に打線の爆発で宣銅烈を打ち崩し、シリーズの緒戦をものにした。そこまでの韓国シリーズで緒戦を勝ったチームは全部優勝したが、1回裏に4点を挙げて勢いを保ったまま迎えた2回戦の2回表に当時2年目のショート、張鍾熏(チャン・ジョンフン)が決定的エラーを犯して逆転負けを喫し、そのまま4連敗。また、準優勝に甘んじた。
1990年は、シーズン中盤まで首位を走るも、2年間の準優勝の後遺症で故障者が続出。9月以降失速して3位でレギュラーシーズンを終了。準プレイオフで4位の三星に2連敗で敗退した。
故障者の復帰と、年間ホームランと打点の新記録を樹立し韓国を代表する巨砲として成長を遂げた張鍾熏を中心とする打線の活躍により、1991年はレギュラーシーズン2位でプレイオフに直行した。ここで、ロッテ・ジャイアンツを下して勝ち上がった三星を3勝1敗で退けて、韓国シリーズに進出。しかし、3度目の挑戦となった今度の相手もまたヘテ・タイガースであった。ヘテはこの年レギュラーシーズンで2位以下に大きな差をつけながら、首位を独走して韓国シリーズに進出した。それで、誰もがヘテの圧倒的有利と予想した。シリーズが始まると、予想通りピングレは第2戦まで終始圧倒され2連敗で本拠地に帰ってきた。
本拠地に場を移して開かれた第3戦で先発の宋津宇(ソン・ジヌ)が8回2死まで一人の走者も許さない投球を演出しながら、1対0でリード。この試合はレギュラーシーズンでもなかった完全試合への期待で、韓国中の野球ファンは騒然となっ た。しかし8回の3人目の打者が打った平凡なファウルフライを当時のライト守備についていた李重和(イ・ジュンファ)が落球すると、その打者に四球を許し完全試合を逃した。結局、ここから宋津宇が打たれ出してその試合も1対4で逆転負けを喫した。翌日の第4戦も宣銅烈の前に手も出せないまま完敗して3度目の挑戦は1勝も挙げられないまま終わった。
1991年も準優勝に終わったものの、翌年の1992年は最多勝と最優秀救援を席巻した宋津宇と韓国プロ野球史上初の年間40本塁打を記録した張鍾熏を軸にシーズン始めから首位を独走し、9月初旬には早くも韓国シリーズ進出を確定。最終的には、史上初の年間80勝を挙げた。なお、この年は宣銅烈がデビュー以来初めて負傷で戦線を離脱するなど2勝止まりだったのが影響して、レギュラーシーズン2位ヘテが準プレイオフを勝ち抜いてきた同3位のロッテに最終戦の第5戦までもつれ込む接戦の末敗退する結末でロッテがシリーズの相手になった。この時点まではついにピングレに初優勝のチャンスが到来するかと思われた。しかし、レギュラーシーズンで7勝止まりだったロッテの投手、朴東煕(パク・ドンヒ)がレギュラーシーズンとは見違える好投を披露してピングレ打線を封じ、このシリーズは誰も予想しなかったロッテの4勝1敗の優勝で幕を下ろした。
1993年シーズンは故障者続出であったが、特に2年連続でホームランと打点の年間記録を更新した張鍾熏の負傷と不振は致命的であった。そして、新戦力の方でも前年のドラフトで大卒、高卒でそれぞれ目玉になっていた具臺晟と盧長震(ノ・ジャンジン)を取りながら、具臺晟は故障、盧長震はプロの厳しいトレーニングについていけず、チームを離脱した。 結局、チームも5年ぶりに5位以下へ転落して、金永徳監督がこのシーズンオフ限りで、韓国シリーズでの4度の失敗とこの年の不振の責任を取って、契約切れをもって退団した。
翌年の1994年は親会社の韓国火薬の総帥一家の相続を巡る争いで、それまでチームの冠会社だったピングレが系列から分離。しかし、プロ野球チームの保有はそのまま親会社の韓国火薬が続けることになった。そして、ピングレ側の分離を以て韓国火薬もハンファに名称を変更。それにしたがってチーム名も「ハンファ・イーグルス」(한화 이글스)に変わり、ユニフォームやロゴも一新された。そして、金永徳監督の時にヘッド・コーチを務め、またロッテ・ジャイアンツを2度の優勝に導いた姜秉徹(カン・ビョンチョル)を後任監督として招いた。この年は、序盤の不振を克服して、レギュラーシーズンはヘテと同率3位で終了。準プレイオフでは対戦成績で勝ち越したヘテの方に開幕権を譲ったが2連勝で通過。4度の韓国シリーズの中で3度の失敗のリベンジを少しながら果たした。しかし、プレイオフでは太平洋ドルフィンズに3連敗となった。
1995年からは、1990年前後を支えた選手たちに衰えが見え始め、1992年入団の鄭珉哲と1993年入団の具臺晟を除くと、それを補う新戦力はなかなか登場せず、世代交代に苦労してチーム戦力は下降の一路をたどるようになった。1996年は、16勝24セーブで5冠(MVP、最多勝、最優勝防御率、勝率、最優秀救援)のタイトルを取った具臺晟の大車輪の活躍によりレギュラーシーズン3位で準プレイオフに進出したが、4位の現代ユニコーンズに敗退した。そして、1997年・1998年は2年連続7位に止まり、1998年KBOオールスターゲームによる中断期間に姜秉徹監督を解任するという、球団史上初のシーズン途中監督交代という事態に至った。
1998年シーズン途中、姜秉徹監督を解任してヘッドコーチであった李煕洙(イ・ヒス)を監督代行として昇格させたが、7位でシーズンを終了。しかし、1998年シーズンオフ、後任の候補を探すも適任の人物が見つからず、そのまま李煕洙を正式監督として座らせ1999年シーズンに臨んだ。もともとプロでの監督経験がなかった李煕洙が2年連続7位のチームを受け継いで、監督代行を務める間目立った動きを見せなかったこともあって、1999年シーズンの展望は良い方ではなかった。
しかし、この年は2年間不振に陥った宋津宇の復活とともに、鄭珉哲、李相睦(イ・サンモク)の先発3本柱が立ち直って、8球団の中で一番安定した投手ローテーションを確立。その後を抑えの具臺晟が締めるパターンで、先発3人は揃って14勝以上、具臺晟は8勝26セーブ。それに1998年から始まった外国人選手の導入でこの年獲得したジェイ・デイビスとダン・ローマイヤーは、それぞれ3割30本塁打30盗塁とシーズン45ホームランの活躍を見せ、主砲の張鍾熏も28ホームランで復活。これらの活躍で夏場からはLGツインズとマジックリーグ2位の座を置いて熾烈な争いを繰り広げた。
そして、9月中旬、現代との3連戦で全勝したことから快進撃が始まり、LGを退けてマジック・リーグ2位の資格でプレイオフに進出。プレイオフでもドリーム・リーグ1位でリーグ全体でも1位の成績を収めた斗山ベアーズを4連勝で破り、7年ぶりの韓国シリーズ進出を確定した。ロッテとの韓国シリーズでは、先発3本柱の安定した投球で4勝1敗で優勝した。
1999年の韓国シリーズ制覇は、李煕洙監督の能力によるものというよりはすべてがよい方向に進んだ結果というのが大方の見方だった。結局、優勝の動力だった先発3本柱の方は、鄭珉哲は1999年シーズンオフに日本の読売ジャイアンツへ移籍、李相睦は故障でリタイアして、宋津宇一人だけ先発ローテーションを守るなか、外国人のデイビスとローマイヤーも怠慢な態度を見せ始め、前年優勝した勢いは完全に消滅。チームは7位に逆戻り、結局、もともと多くを期待されなかった李煕洙監督は2000年限りで退団した。
2000年シーズンオフ、自律野球を標榜し、投手分業制のシステムでLGを優勝に導いた李廣煥(イ・グァンファン)監督を招いた。李廣煥監督は赴任初年度にチームを準プレイオフに導くも公式戦では勝率5割を切り負け越した。斗山との準プレイオフでも敗退。2002年は6位、監督が球団OBの柳承安(ユ・スンアン)に変わった2003年は5位、2004年は7位と成績は低迷した。
金寅植監督が就任した2005年は開幕前の低評価を覆し、レギュラーシーズン4位で準プレーオフに進出し、3位のSKワイバーンズを破りプレーオフに進出したものの斗山に3連敗した。2006年は高卒ルーキー柳賢振(リュ・ヒョンジン)の活躍が話題を呼び、レギュラーシーズン3位で準プレーオフ、プレーオフを勝ち抜き、前回の1999年以降、7年ぶりに韓国シリーズへ進出した。しかし、韓国シリーズでは三星に1勝4敗1引分で敗退した。2007年も上位争いに食い込み公式戦3位で3年連続でポストシーズン進出に成功。準プレーオフで4位の三星に勝って、3年連続でプレーオフに進出に成功したが、今度は2位の斗山に3連敗で敗れ、韓国シリーズ優勝はまたお預けとなった。2008年はオリンピックによる中断期間以降調子を落とし4位争いからも脱落。レギュラーシーズン5位で4年ぶりにポストシーズン進出に失敗した。
2009年は金寅植監督がWBC(ワールドベースボールクラシック)の韓国代表監督を務め準優勝という好成績を残したものの、肝心の自身の率いるチームは投手陣の世代交代失敗や、主砲金泰均の長期離脱もあり、6月から最下位を独走するようになった。そして長年チームを支えた宋津宇、鄭珉哲の2人のベテラン投手も引退を表明し、一軍リーグ参入初年度の1986年以来となる23年ぶりの年間最下位を記録するなど、転機の1年となった。また金寅植監督もこの年限りで退任し、新監督には大田出身ながら現役時代や指導者の経歴を通して一度もピングレ/ハンファに在籍したことのない韓大化が就任した。だが11月には金泰均・李杋浩の2名の主軸打者が日本プロ野球へ、12月には抑え役を務めていたブラッド・トーマスがメジャーリーグへとそれぞれ移籍し、大きな戦力流出となった。
韓大化監督初年度だが戦力的に苦しいとされた2010年は、投打ともに選手層の薄さが目立ち、球団史上初の2年連続最下位に終わった。この年限りでベテラン左腕の具臺晟も退団し、チームには1999年の優勝を知る者がいなくなり、更なる世代交代が進むことになった。2011年はLGと同率6位となり最下位から脱出した。オフには金泰均が復帰、韓国人初のメジャーリーガー・朴賛浩が入団した。2011年12月より本拠地の大田ハンバッ運動場野球場の大規模改修工事が開始され、2012年4月の主催試合はすべて準本拠地の清州総合運動場野球場で開催された。2012年は序盤から低迷し続けたことで、シーズン途中の8月28日、韓大化監督の辞任が発表され、韓容悳(ハン・ヨンドク)首席コーチが監督代行として残りの試合の指揮を執ったが2年ぶりの最下位に終わった。
2012年10月、かつてヘテ、サムスンを指揮し、10度の韓国シリーズ優勝を成し遂げた金應龍(キム・ウンニョン)監督が、71歳という高齢にもかかわらず監督に就任した。同年12月、2006年よりエースとして活躍してきた柳賢振がポスティングによりロサンゼルス・ドジャースへ移籍した。2013年シーズンは韓国プロ野球最多の開幕13連敗を記録し、2年連続最下位となった。しかも同年よりNCダイノスの加入により9球団制となったため、韓国プロ野球史上初の9位でもあった。低迷からの脱出を図るため、同年オフシーズンには鄭根宇、李容圭の韓国代表選手2名をFAで獲得した。だが2014年も3年連続最下位に終わった。
2014年10月、SKを3度の韓国シリーズ優勝に導くなど名監督として知られる金星根監督が就任し、裵英洙、權奕、宋恩範のFA選手と契約するなど補強に努めた。2015年は6位となり、2012年から2014年までの3年連続最下位からは脱出した。2016年は7位だった。2017年5月21日に金星根監督が辞意を表明し、23日に正式に受理され、李相君投手コーチが監督代行に就任した[1]。同年は8位で韓国プロ野球タイ記録(2003~2012年のLG)の10年連続ポストシーズン進出失敗となった。
2017年10月、ハンファのOBで2012年に一時期監督代行を務めた韓容悳監督が就任した。2018年はレギュラーシーズン3位で11年ぶりにポストシーズンへ進出したが、準プレーオフでネクセン・ヒーローズに敗れた。2019年は9位だった。
2020年6月7日、球団新記録の14連敗を記録し最下位に低迷していたため、韓容悳監督が辞任し崔元豪二軍監督が監督代行に就任した。6月12日、韓国プロ野球タイ記録の18連敗となり、6月14日に勝利し連敗記録が終わった。2020年は6年ぶり、10球団制では初の最下位(10位)だった。
2020年11月27日、初の外国人監督としてカルロス・スベロ監督の就任が発表された[2]。2021年は2年連続最下位だった。
2022年は3年連続最下位、しかもチーム史上最多の96敗を記録した[3]。2023年5月11日の試合終了後、監督交代となった。
2023年5月12日より崔元豪監督が就任した[4]。同年は9位で、3年連続最下位から脱出した。2024年5月27日、当時8位と成績不振で崔元豪監督が解任され、鄭慶培首席コーチが監督代行となった。
背番号 | 名前 | 読み | 役職 |
---|---|---|---|
74 | 金卿文 | キム・ギョンムン | 監督 |
88 | 梁承琯 | ヤン・スングァン | 首席コーチ |
82 | 金在杰 | キム・ジェゴル | 作戦兼走塁コーチ |
79 | 楊相汶 | ヤン・サンムン | 投手コーチ |
89 | 鄭慶培 | チョン・ギョンベ | 打撃統括コーチ |
78 | 金南亨 | キム・ナムヒョン | 打撃コーチ |
未定 | 金旻浩 | キム・ミンホ | 打撃コーチ |
83 | 金佑碩 | キム・ウソク | 守備コーチ |
77 | 朴哉相 | パク・チェサン | 外野守備走塁コーチ |
90 | 金正敏 | キム・ジョンミン | バッテリーコーチ |
76 | 尹奎眞 | ユン・ギュジン | ブルペンコーチ |
72 | 朴承珉 | パク・スンミン | 投手コーディネーター |
84 | 李志豊 | イ・ジプン | 総轄トレーニングコーチ |
なし | 金炯旭 | キム・ヒョンウク | トレーニングコーチ |
なし | 金淵奎 | キム・ヨンギュ | トレーニングコーチ |
なし | 崔宇成 | チェ・ウソン | トレーニングコーチ |
なし | 張セホン | チャン・セホン | トレーニングコーチ |
背番号 | 選手名 | 読み | 投 | 打 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 文棟柱 | ムン・ドンジュ | 右 | 右 | |
5 | 尹臺卿 | ユン・デギョン | 右 | 右 | |
15 | 金騎中 | キム・ギジュン | 左 | 左 | |
18 | 李相圭 | イ・サンギュ | 右 | 右 | |
19 | 李充浩 | イ・チュンホ | 左 | 左 | |
20 | ハイメ・バリア | 右 | 右 | ||
26 | 韓丞赫 | ハン・スンヒョク | 右 | 左 | |
27 | 李民友 | イ・ミンウ | 右 | 右 | |
28 | 張施晥 | チャン・シファン | 右 | 右 | |
29 | 黄晙舒 | ファン・ジュンソ | 左 | 左 | |
31 | 鄭伊媓 | チョン・イファン | 右 | 右 | |
36 | 張瑉宰 | チャン・ミンジェ | 右 | 右 | |
38 | 金鍾守 | キム・ジョンス | 右 | 右 | 育成選手 |
39 | 裵玟曙 | ペ・ミンソ | 右 | 右 | |
40 | 張志秀 | チャン・ジス | 右 | 右 | |
46 | 李テヤン | イ・テヤン | 右 | 左 | |
47 | 金範洙 | キム・ボムス | 左 | 左 | |
53 | 金民宇 | キム・ミンウ | 右 | 右 | |
54 | 金瑞鉉 | キム・ソヒョン | 右 | 右 | |
55 | ライアン・ワイス | 右 | 右 | ||
58 | 朴相垣 | パク・サンウォン | 右 | 右 | |
59 | 韓昇宙 | ハン・スンジュ | 右 | 右 | |
60 | 金奎演 | キム・ギュヨン | 右 | 右 | |
61 | 裵東玄 | ぺ・ドンヒョン | 右 | 左 | 育成選手 |
62 | 金度儐 | キム・ドビン | 右 | 右 | |
63 | 朴聲雄 | パク・ソンウン | 左 | 左 | 育成選手 |
66 | 朱炫相 | チュ・ヒョンサン | 右 | 右 | |
68 | 曺東昱 | チョ・ドンウク | 左 | 左 | |
69 | 金昇一 | キム・スンイル | 右 | 右 | |
93 | 金範俊 | キム・ボムジュン | 右 | 右 | 育成選手 |
97 | 成沚訓 | ソン・ジフン | 左 | 左 | |
99 | 柳賢振 | リュ・ヒョンジン | 左 | 右 | |
101 | 文勝秦 | ムン・スンジン | 右 | 右 | 育成選手 |
107 | 李基昌 | イ・ギチャン | 右 | 右 | 育成選手 |
110 | 元鍾赩 | ウォン・ジョンヒョク | 右 | 右 | 育成選手 |
112 | 承志桓 | スン・ジファン | 右 | 右 | 育成選手 |
113 | 李性旼 | イ・ソンミン | 左 | 左 | 育成選手 |
未定 | 鄭宇宙 | チョン・ウジュ | 右 | 右 | 2025年新人ドラフト1巡目 |
未定 | 権ミンギュ | クォン・ミンギュ | 左 | 左 | 2025年新人ドラフト2巡目 |
未定 | 李ドンヨン | イ・ドンヨン | 左 | 左 | 2025年新人ドラフト5巡目 |
未定 | 朴サンヒョン | パク・サンヒョン | 右 | 右 | 2025年新人ドラフト6巡目 |
未定 | 嚴サンヒョン | オム・サンヒョン | 右 | 右 | 2025年新人ドラフト8巡目 |
未定 | 嚴ヨソプ | オム・ヨソプ | 右 | 右 | 2025年新人ドラフト9巡目 |
未定 | 崔ジュウォン | チョン・ウジュ | 右 | 右 | 2025年新人ドラフト10巡目 |
未定 | 朴ブソン | パク・ブソン | 右 | 右 | 新入団 育成選手 |
尹産欽 | ユン・サンフム | 右 | 右 | 軍保留選手 | |
朴俊映 | パク・チュンヨン | 右 | 右 | 軍保留選手 | |
姜才珉 | カン・ジェミン | 右 | 右 | 軍保留選手 | |
金寛佑 | キム・グァンウ | 右 | 右 | 軍保留選手 | |
南知珉 | ナム・ジミン | 右 | 右 | 軍保留選手 | |
韓瑞九 | ハン・ソグ | 左 | 左 | 軍保留選手 育成選手 | |
朴在圭 | パク・チェギュ | 右 | 右 | 軍保留選手 育成選手 | |
金兼渽 | キム・ギョンジェ | 右 | 右 | 軍保留選手 育成選手 | |
梁冏瑁 | ヤン・ギョンモ | 右 | 右 | 軍保留選手 育成選手 |
背番号 | 選手名 | 読み | 投 | 打 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
10 | 許官會 | ホ・グァンフェ | 右 | 右 | |
13 | 崔在勲 | チェ・ジェフン | 右 | 右 | |
32 | 李宰元 | イ・ジェウォン | 右 | 右 | |
42 | 朴相彦 | パク・サンオン | 右 | 右 | |
44 | 安鎮 | アン・ジン | 右 | 右 | 育成選手 |
94 | 許引瑞 | ホ・インソ | 右 | 右 | 育成選手 |
96 | 張圭賢 | チャン・ギュヒョン | 右 | 左 | |
109 | 李承泫 | イ・スンヒョン | 右 | 右 | 育成選手 |
未定 | 韓ジユン | ハン・ジユン | 右 | 右 | 2025年新人ドラフト3巡目 |
背番号 | 選手名 | 読み | 投 | 打 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
3 | 安致弘 | アン・チホン | 右 | 右 | |
6 | 韓敬彬 | ハン・ギョンビン | 右 | 左 | |
7 | 李度潤 | イ・ドユン | 右 | 左 | |
8 | 盧施煥 | ノ・シファン | 右 | 右 | |
16 | 河周錫 | ハ・ジュソク | 右 | 左 | |
25 | 金泰延 | キム・テヨン | 右 | 右 | |
37 | 金仁煥 | キム・インファン | 右 | 左 | |
43 | 鄭恩源 | チョン・ウンウォン | 右 | 左 | |
48 | 趙漢珉 | チョ・ハンミン | 右 | 右 | |
49 | 李旻俊 | イ・ミンジュン | 右 | 右 | |
56 | 金楗 | キム・ゴン | 右 | 右 | |
64 | 文賢彬 | ムン・ヒョンビン | 右 | 左 | |
95 | 黄永黙 | ファン・ヨンムク | 右 | 左 | |
102 | 宋淏楨 | ソン・ホジョン | 右 | 左 | 育成選手 |
116 | 鄭安席 | チョン・アンソク | 右 | 左 | |
未定 | 沈佑俊 | シム・ウジュン | 右 | 右 | KTからFA移籍 |
未定 | 裵スンス | ぺ・スンス | 右 | 右 | 2025年新人ドラフト4巡目 |
未定 | 李ジソン | イ・ジソン | 右 | 右 | 2025年新人ドラフト7巡目 |
未定 | 李スンヒョン | イ・スンヒョン | 右 | 左 | 新入団 育成選手 |
朴正賢 | パク・チョンヒョン | 右 | 右 | 軍保留選手 | |
鄭珉圭 | チョン・ミンギュ | 右 | 右 | 軍保留選手 | |
金睿俊 | キム・イェジュン | 右 | 左 | 軍保留選手 育成選手 | |
魯錫鎮 | ノ・ソクチン | 右 | 左 | 軍保留選手 育成選手 | |
崔元準 | チェ・ウォンジュン | 右 | 左 | 軍保留選手 育成選手 |
背番号 | 選手名 | 読み | 投 | 打 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
17 | 権光旻 | クォン・グァンミン | 左 | 左 | |
22 | 蔡恩成 | チェ・ウンソン | 右 | 右 | |
24 | 林宗燦 | イム・ジョンチャン | 右 | 左 | |
30 | ヨナタン・ペルラサ | 右 | 両 | ||
33 | 劉撈潔 | ユ・ロギョル | 右 | 右 | |
41 | 崔寅豪 | チェ・インホ | 右 | 左 | |
45 | 李振栄 | イ・ジンヨン | 右 | 右 | |
50 | 李元碩 | イ・ウォンソク | 右 | 右 | |
51 | 張眞爀 | チャン・ジンヒョク | 右 | 左 | |
65 | 李相赫 | イ・サンヒョク | 右 | 左 | |
106 | 劉旻 | ユ・ミン | 右 | 右 | 育成選手 |
108 | 崔埈㥠 | チェ・ジュンソ | 右 | 左 | 育成選手 |
111 | 権晛 | クォン・ヒョン | 右 | 左 | 育成選手 |
114 | 辛玗財 | シン・ウジェ | 右 | 右 | 育成選手 |
未定 | 李ミンジェ | イ・ミンジェ | 右 | 左 | 2025年新人ドラフト11巡目 |
金海澯 | キム・ヘチャン | 右 | 右 | 軍保留選手 |
宋津宇 |
鄭珉哲 |
張鍾勲 |
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