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ドキュメンタリー(英語: documentary)は、事実の特定の主題についてリポートする映画・テレビ番組・ラジオ番組[1]。
特定の主題を設定して(選択的に)事実を記録した映画・テレビ番組・ラジオ番組である。
ドキュメンタリーという用語の誕生した経緯は、英語で「ドキュメント document」とは「情報や証拠を提供し、または公式記録として機能する文書、印刷物、または電子資料。[2]」という意味であり、それの形容詞が「ドキュメンタリーdocumentary」であり、「ドキュメント的な」、「ドキュメントに準ずる」、という意であり、それが名詞化したものが、ドキュメンタリーという用語であり、もとはドキュメントに準ずるもの、という意である。
ドキュメントは歴史が非常に長く、文字が発明されて以降、もっぱら文字で記録されていたものなのだが、(19世紀末ころに)映像を記録する技術が開発された後には、その技術を使って、従来は文字だけで行われていたドキュメント作成を映像でも行うようになり、それをドキュメンタリーと呼ぶようになった。
映画に関しては「記録映像」「記録映画」とも言われる。テレビ番組の場合は「ドキュメンタリー番組」「ドキュメンタリー」「記録映像」などと呼ばれる。ドキュメンタリーには、録音してラジオで放送するもの、たとえば街頭録音やナレーション録音などで構成したラジオ番組もあり、それは「ラジオ・ドキュメンタリー[3][4] radio documentary」と呼ばれている。
媒体ごと、作品ごとに、さまざまな手法がある。
なお、一般的にドキュメンタリーは「 "制作者の意図や主観を含まぬ"事実の描写」と認識され、他方で「劇映画 (Drama film) やドラマは創作・フィクションである」と認識されているが、制作者の意図が入り込む、一種の嘘をつくことがある、という点では差が無いと森達也など実務者らからは指摘されている[5]。
ドキュメンタリーの歴史は映画と共にはじまった。リュミエール兄弟による歴史上最初の映画『工場の出口』(1895年)は、その名の通り工場の出口にカメラを設置して、従業員らが出てくる様子をワンショットで撮影しただけのものである。続く『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1896年)では観客はスクリーンの映像を現実のものと見間違えて大騒ぎしたという。これらは上記の定義においてはドキュメンタリーである[注 1]。リュミエールらが撮影したその他の映像(家族で会食している場面など)も一種の記録映画と言える。
初期の映画においては世界各地の風景が盛んに撮影され、大衆に向けて興業された。これも紀行ドキュメンタリーのさきがけともいえる。
初期の映画におけるフィクション/ノンフィクションの境界は曖昧であり、のちに生まれる様々なジャンルへは未分化に状態にあった。この段階ではただ映像が映っていること、物珍しいものが映っていることに観客の関心が始終した(この流れの中で、演劇を固定カメラによって撮影した映像から劇映画が生まれることになる)。
やがて映画の可能性が明確になるなかで、記録媒体という要素を重視しながら自らの問題意識を作品に投影する意志を持った制作者が現れてきた。ドキュメンタリーの父と言われたロバート・フラハティ(アメリカ、1884年 - 1951年)やヨリス・イヴェンス(オランダ、1899年 - 1989年)、ジガ・ヴェルトフ(ソビエト、1896年 - 1954年)などである。
フラハティは代表作である『極北の怪異 (Nanook of the North) 』(1922年)を、イヌイットナヌーク一家と一年間共に生活しながら制作した。イヴェンスは当初『橋』(1928年)や『雨』(1929年)によってアヴァンギャルド映画作家としての評価を得たが、これらの映像制作はその後の一貫した記録映画作家としての活動の序章となった。ヴェルトフは代表作『カメラを持った男』 (en:Человек с киноаппаратом) の制作などを通して、現実の徹底的な記録を至上とする記録映画主義「映画眼」を提唱し、後の記録映画作家達に影響を与え続けている。
こうした1920年代の成果をもとに1930年代に至って、イギリスの記録映画作家ポール・ローサ (Paul Rotha) 、ジョン・グリアスン (John Grierson) らが提唱した「英国ドキュメンタリー映画運動」など、映画のもつ教育効果、宣伝効果を利用して社会を変革する意図をもった映画制作が隆盛した。現代の「ドキュメンタリー」という用語はこの運動が発祥とされる。
こうしたドキュメンタリーの技法や技術が確立されるにともなって、映画の大衆宣伝能力が注目され、国家的なプロパガンダを目的とした作品も多くあらわれた。特に第一次世界大戦以降、総力戦を遂行可能にする施策の一つとしてプロパガンダ映画の製作が重視された。
たとえば、レニ・リーフェンシュタール(ドイツ、1902-2003)の作品『意志の勝利』(1935年)はナチスの党大会を記録した映像であるが、当時としては究めて洗練された映像作品として仕上げられており、その美的印象によって大衆をナチズムに誘導したとされる。そのため未だにドイツでは上映が禁止されている[注 2]。
ナチス・ドイツは自らの活動について詳細に映像記録を残したが、このなかにはユダヤ人強制収容所の映像なども含まれていた。こうしたナチスの記録・宣伝用として撮られた記録映像を素材として使用し、反対にその犯罪性を告発した記録映画の代表作がアラン・レネ(フランス、1922-2014)の『夜と霧』である。
1930年代から、映画カメラは文化人類学のフィールドワークにも活用されるようになった。こうした映像を活用した人類学は特に映像人類学 (Visual anthropology) と呼ばれ、撮影された映像を人類学映画と呼ぶ。ここでは映像は記録者の主観的な解釈に影響される事のない絶対的な客観性をもった記録手段として捉えられている。
人類学映画は純粋に学術的記録であり、今日的な意味でのドキュメンタリーとは一線を画するが、ドキュメンタリー映画作家たちに一定の影響を与えてきたと言われる。
第二次世界大戦後、ドキュメンタリーは、産業映画・教育映画と呼ばれる分野から、新植民地主義、資本主義への異議を唱えるものまで多様化し、さらにテレビジョンの登場・普及によってテレビ・ドキュメンタリーという放送を前提とした作品分野が登場した。
その中で、古典的スタイルのドキュメンタリー制作は深刻な社会的問題に連動して盛んに制作された。たとえばベトナム戦争の時代にはヨリス・イヴェンスは米軍の北爆に曝されるハノイに入り、市民の日常を撮影し て『ベトナムから遠く離れて』(1967年)や『北緯17度』(17e parallèle: La guerre du peuple 1968年)を制作した。なかでも『ベトナムから遠く離れて』はクリス・マルケルやジャン=リュック・ゴダールなどフランスの気鋭の映画作家たちとの共作となった。
日本人では、牛山純一がテレビドキュメンタリーとして『南ベトナム海兵大隊戦記』を制作した。日本においてはほかに『絵を描く子供たち』を制作した羽仁進、水俣病を追及し続けた土本典昭や三里塚闘争を描いた小川紳介、『ゆきゆきて、神軍』の原一男などが活躍した。
さらに8ミリ映画、16ミリ (16 mm film) 映画、ビデオカメラなど廉価に扱える機材が普及したことで、極めて私的な世界を扱った個人映画も勃興した。たとえばジョナス・メカス (Jonas Mekas) の『リトアニアへの旅の追憶』(Reminiscences of a Journey to Lithuania 1972年)はアメリカに暮らす作者自身が生まれ故郷であるリトアニアを訪ねる様子を自らの撮影で構成した。一見ホームビデオ的な作品であるが、世界中で個人映画の記念碑的作品として支持された。
一方で、観客の劣情に訴える娯楽としてのドキュメンタリー映画もテレビ・ドキュメンタリーの普及以前には流行した。これらは世界各地の大都市の夜の風俗、退廃的・奇怪なイベント、欧米以外のアジア(日本も含む)やアフリカの民族の「野蛮な」風習を切り取ったものである。特にグァルティエロ・ヤコペッティの『世界残酷物語』(1962年)は海外旅行の珍しい時代に世界の奇習を紹介して大ヒットを記録し、以後1980年代前半に衰退するまでこの手のドキュメンタリーは数多く制作された(これらの映画はモンド映画と呼ばれている)。
これらのモンド映画は当初から多くのやらせを含んでいたほか、ヨーロッパの側から劣った東洋やアフリカを見るというオリエンタリズム的な視線があったことが批判されている。モンド映画ブームの後半にはやらせの手の内を見せる半ばフィクション的なものが登場したほか、観客もやらせの存在を暗黙の了解として楽しむようになり、やがてテレビによるショッキングな特集番組などに吸収されて消えていった。
また、ドキュメンタリーの制作技法がステレオタイプ化し、手持ちカメラなどドキュメンタリーに特有の技法を逆手に取って臨場感・本物感のあるフィクション(ドラマ)が制作されるようなケースが1970年代以降現れ、こうした手法はすでにハリウッドなどでも一般化している。さらに日本においては1980年代頃から伝統的な取材・構成形式の他に、ドラマとともに構成された「ドキュメンタリードラマ」 (Docudrama) (アメリカでは1970年代に確立された形式である)、クイズやスタジオでのトークショーなどを織り交ぜた「ドキュメントバラエティー」などが登場し、それぞれ一般化している。
1990年代以降、テレビ放送では「リアリティーショー」と呼ばれる、一定の極端な設定のもとでの、台本なし(という建前)の、視聴者から募った素人出演者など登場人物の言行を固定カメラで観察するというスタイルが世界的に流行した。この技法は真実らしく表現するという意味では、その監視カメラ的な映像故に斬新であったが、演出された(または虚構の)撮影対象を表現手法よって真実らしく見せてしまう実例が目立つ。
リアリティー番組や実話再現番組、警官密着番組(日本の警察24時、アメリカでは全米警察24時 コップス)などの隆盛により、人々が台本のあるドラマよりも真実やドキュメンタリーらしく見えるものを好みつつある傾向が明らかになってきた。また、2001年のアメリカ同時多発テロ事件の影響でドラマは打撃を受け、一方で監督本人や素人が社会問題などに突撃するリアリティー番組に似たスタイルのドキュメンタリー映画が良い興行成績を出すようになった。『華氏911』や『スーパーサイズ・ミー』などはその例である。
社会問題を取り上げるという点においてはドキュメンタリーも報道も同じだが、森達也は、ドキュメンタリーは制作者の主観や世界観を表出することが最優先順位にあるのに対して報道は可能な限り客観性や中立性を常に意識に置かなければならないという違いがあると述べている[5]。
また森は、中国人が作ったドキュメンタリー映画を文化庁が助成したことを自民党一部議員が疑問視した結果として複数の映画館で上映が中止になった事案の発生に際し、ドキュメンタリーの本質について以下のように述べた[6]。
自民党の有村治子議員が国会で、被写体となった刀匠が自分の映っている場面を削除してほしいと主張していると発言して、大きな波紋を広げています。ドキュメンタリーを作る立場から言えば、これはとても重要な問題を提起しています。事前に被写体に見せて了解をとる。これが前提なら映画をつぶすのなんて簡単ですね。ドキュメンタリーというジャンルは確実に滅びます。僕も、原一男もマイケル・ムーアもみんな転職せねばならなくなる。自作の映画「A」を引き合いに出します。中盤に警察官による不当逮捕のシーンがあります。あの警官が「俺の映っているシーンは使うな」と言ってきたら、ぼくはどうすればいいのでしょうか。あるいは映り込んでいる多くのメディア関係者、彼らの了解も得ていません。もちろん編集済みの映像も見せていない。ならば上映できないのでしょうか? ドキュメンタリーは現実を切り取って、その断片を素材に再構成した自己表現です。人権や規範を最優先にしていては何も撮れなくなる。稲田議員は試写会の前にこう言いました。「客観的でなければドキュメンタリーではない」と。僕はこれでキレました。冗談じゃない。ドキュメンタリーは主観です。作る側の思いです。メディアについてもっと鋭敏な感覚を持たなければならない政治家が、この程度のリテラシーしか持て得ないのならあまりに情けない。 — 森達也、創出版『映画靖国上映中止をめぐる大議論』「2008年4月14日MIC/JCJ主催の集会での講演」p58-60
ドキュメンタリーにはいくつかの小ジャンルが存在する[7]。 (リアリティ番組#「構成のない」ドキュメンタリーも参照のこと)
(テレビ・ドキュメンタリーも含む)
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