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アンジェロ・ポッフォ(Angelo John Poffo、1925年4月10日 - 2010年3月4日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。イリノイ州ダウナーズ・グローブ出身のイタリア系アメリカ人[2]。
元WWF世界ヘビー級王者の "マッチョマン" ランディ・サベージおよび "ザ・ジニアス" ラニー・ポッフォの父親であり、プロモーターやマネージャーとしても活動した[2]。
シカゴのデポール大学時代は野球のキャッチャーとして活躍し、アメリカ海軍に入隊後は、腹筋運動を4時間強の間に連続6033回行ったという世界記録を残した[2]。1949年のデビュー後、地元のイリノイ州を中心とした中西部を主戦場に活動[2]。世界記録である "6033" の数字をコスチュームに施すなど[3]、後に息子たちも継承することになるエゴイスト系のヒールとなって活躍する。
1956年8月9日、ウィスコンシン州ミルウォーキーにてミッドウエスト・ヘビー級王座を獲得[4]。1958年12月27日にはウイルバー・スナイダーからシカゴ版のNWA USヘビー級王座を奪取した[5]。1961年はダラスやヒューストンを拠点とするテキサスの東部地区に参戦[6]、5月12日にブロンコ・ルービッチと組んでドリー・ディクソン&ペッパー・ゴメスからNWAテキサス・タッグ王座を奪取している[7]。
その後、1964年よりインディアナ州インディアナポリスのWWAに登場。初代ニコライ・ボルコフ[8]と組み、7月31日にスナイダー&ディック・ザ・ブルーザーを破ってWWA世界タッグ王座を獲得[9]。1966年からはクリス・マルコフとのタッグチーム、デビルズ・デュオ(The Devil's Duo)を結成[2]。"プリティ・ボーイ" ボビー・ヒーナンをマネージャーに従え、翌1967年にかけてブルーザー&クラッシャー・リソワスキーを相手にWWA世界タッグ王座を巡る抗争を展開した[9]。
1968年4月、日本プロレスに初来日。キラー・コワルスキー、ジェス・オルテガ、フレッド・ブラッシー、ターザン・タイラー、ドン・デヌーチ、パット・パターソンらと共に、第10回ワールドリーグ戦に「アルゼンチン代表」として出場したが、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、大木金太郎、吉村道明、山本小鉄、星野勘太郎、ミツ・ヒライなど日本陣営への白星配給係となり、全敗の戦績で終わった[10]。
1971年2月には、ザ・クエッション(The ?)なる覆面レスラーに変身し、AWAの提携ルートでマッドドッグ・バション&ブッチャー・バションやビル・ミラーと共に国際プロレスに来日。3月2日に東京都体育館にて、前年12月のオックス・ベーカー戦で左足を骨折し欠場していたラッシャー木村の復帰戦の相手を務め、木村と金網デスマッチを行ったが敗退、試合後に覆面を剥がされ正体を晒している[11]。
以降も中西部を主戦場に、ザ・シークが主宰していたデトロイトのNWAビッグタイム・レスリングでも活動。1975年1月には息子のラニー・ポッフォをパートナーに、ボボ・ブラジル&フレッド・カリーからデトロイト版のNWA世界タッグ王座を奪取している[12]。以後、1970年代後半はベテランのジョバーとして、エディ・グラハム主宰のCWFやジム・クロケット・ジュニア主宰のMACW、ニック・グラス主宰のNWAミッドアメリカなど、南部の各テリトリーを転戦した[13]。
1978年、ケンタッキー州レキシントンにおいて、独立団体のインターナショナル・チャンピオンシップ・レスリング(ICW)を旗揚げ[14]。息子のランディ・サベージとラニーをはじめ、NWAを離脱したボブ・ループ、ボブ・オートン・ジュニア、ロニー・ガービンらが主力となり[3]、ペッツ・ワトレー、トージョー・ヤマモト、ジプシー・ジョーなどもミッドアメリカ地区から参戦[15]。若手選手ではクラッシャー・ブルームフィールドやテリー・ギッブス、リップ・ロジャースなどが出場し、バディ・ランデルもICWでデビューしている[15]。中西部地区での旧友シークやサンダーボルト・パターソンも招聘され[16]、自身もマスクド・マイザー(The Masked Miser)なる覆面レスラーとして試合に出場、1981年11月19日にはTV王座を獲得した[17]。以降もNWA非加盟の小規模なプロモーションながら、インディー団体の先駆けとして1984年までICWの運営を続けた[14][15]。
ICWの活動停止後は、ジェリー・ジャレットが主宰していたテネシー州メンフィスのCWAに息子たちと共に移籍[3]。ランディ&ラニーのマネージャーとなって、ジェリー・ローラーやオースチン・アイドル、ロックンロール・エクスプレスとの抗争を指揮し、時折試合にも出場していたが、1985年にプロレス界を離れた[13]。
その後は1991年、レジェンドマッチとしてルイス・マルティネスと対戦[2]。1995年には、当時ランディが参戦していたWCWに姿を見せ、WCW殿堂に迎えられている[2]。
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