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1955年公開の日本映画 ウィキペディアから
『ここに泉あり』(ここにいずみあり)は、1955年(昭和30年)2月12日公開の日本映画。中央映画製作、独立映画配給。監督は今井正、主演は岸恵子。モノクロ、スタンダード、150分。
高崎の市民オーケストラが、群馬交響楽団(以下、群響と記す)へと成長する草創期の実話を舞台としたヒューマンドラマ。作曲家の山田耕筰、ピアニストの室井摩耶子がそれぞれ本人役で特別出演している。第29回キネマ旬報ベスト・テン第5位。1989年「大アンケートによる日本映画ベスト150」(文藝春秋発表)第150位。
終戦直後結成された市民オーケストラは働く人や子どもたちに美しい音楽を与えようと努力するが、人がいいマネージャー井田の奮闘にもかかわらず、楽団員の生活は苦しかった。唯一の女性楽団員佐川かの子は、音楽学校を出たばかりだが、田舎にくすぶっていてはピアノの腕が落ちると悩んでいた。新しく参加したヴァイオリンの速水は彼女を励ますものの、自身も苦しかった。解散止むなしと追いつめられ、最後と思って利根源流の山奥の小学校へ行くと、思いがけずの大歓迎を受け、みんなで「赤とんぼ」を合唱して感動する。草津にあるハンセン病療養では入所者たちが不自由な手で「音のない拍手」をする。速水とかの子は結婚するが生活は苦しく、将来への不安も大きくなるばかりだ。軍楽隊上りの工藤や丸屋は楽器を質に入れたり、チンドン屋になったりして頑張っていた。井田は東京から山田耕筰指揮の交響楽団とピアニスト室井摩耶子を招いて合同コンサートを開くことにしたが、余りに大きな技術の差に一同は落胆。2年後、耕筰は旅の途中で彼らの練習所へ立寄る。生活と闘いながら立派な楽団に成長したことに安堵する。かの子は赤ん坊を背に、人々の心に美しい音楽を伝えるため歩き続けるのだった。
以下はノンクレジット
本作では、現代の大都市においても運営が難しい交響楽団を、終戦直後の衣食住にも困る時代に地方都市で立ち上げ、活動する事から当然のように押し寄せる困難な事態に、事務方、楽団員が苦しみながらも、山村の子どもにも演奏を届けていく事などで、市民と共に歩む社会運動と変貌していく姿が描かれている。
群響初期のマネージャーだった丸山勝広とは友人であり、群響と市民の情熱的な活動に感銘を受けた地元出身の市川喜一(元大映の俳優・黒田潤、後に映画製作者として高名になる)が、1952年(昭和27年)に映画化を企画したのが発端である[1][2]。企画から4年、脚本脱稿までに1年、撮影は6ヶ月もかかり[1]、大変に厳しい状況で製作されていたが、群馬市民の積極的な協力により完成した。全国での上映により300万人を超える大ヒットとなり、日本中に、感動と共に群響と音楽の街・高崎の認知を広げた。
全編の演奏音は当初は群馬交響楽団による演奏となる予定だったが、監督が東京交響楽団に変更を決め、群馬交響楽団は使われなかった、その当時の事を振り返って『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』で楽団員が「プロの音楽家としてこれ以上ない屈辱であった」と語っている。また映画完成後にスタッフから「お前ら楽団が解散する前に映画になってよかったな」と皮肉を言われた事を語っている。
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