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岩崎 昶(いわさき あきら、1903年11月18日 - 1981年9月16日)は、日本の映画評論家で映画製作者、ドイツ文学者。
啓蒙的批評家の一人であり左翼陣営の戦闘的映画人と目される[1]。スポーツマンで良き家庭人であったという。
息子に学習院大学文学部フランス語圏文化学科名誉教授の岩崎浩がいる。
東京生まれ。東京府立一中から第一高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学独文科在学当時よりシナリオや独映画の評論を書いている。後の東宝社長である森岩雄は、この早熟の青年を気に入り日活の企画会議「金曜会」の助手として傍においていた。
1927年に大学を卒業すると洋画の輸入会社、田口商店に勤めるが、そこで独の大手製作会社ウーファの代理人であった川喜多長政と邂逅する。戦後、映画文化最大の保護者となる川喜多一家との交流は著作「映画が若かったとき」に詳しい。
佐々元十の熱心な誘いでプロレタリア映画運動に加わり[2]、1929年日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)に参加する。1934年に当局の圧力により解散させられた時に委員長であった岩崎は翌年上海に渡る。岩崎の映画批評を魯迅が翻訳した事が契機とされているがこの大陸行きについては幾つかの謎は残っている。 1940年1月、唯物論研究会事件で治安維持法による逮捕、未決勾留の蒸し返しのまま翌年2月に釈放。この際に転向したとされるが、この事件は国家統制を目的とした映画法に岩崎がただ一人だけ反対したことにより懲罰的に拘禁したという事実が隠されている。かつての左翼陣営の英雄児に映画界が背を向けた中で満州映画協会の根岸寛一は甘粕正彦の許可を得た上で東京支社の嘱託として迎えている。岩崎は生涯の恩人として甘粕と根岸への敬意を持ち続けたという。
1946年に日本映画社の製作部長に就任したが「日本の悲劇」、「Effects of the Atomic Bombs」の製作にたずさわった事が今度はGHQの実質的なパージにかかる。1950年、独立プロの新星映画社を今井正、山本薩夫、山形雄策らと作り「どっこい生きてる」「真空地帯」「ここに泉あり」などで日本映画の良心を守り続けた。
大映画人である根岸寛一を敬愛した事は尋常でなく没後に伝記を書いているが、満映で同じ釜の飯を食ったマキノ満男については肌合いがあわなかったのか大著「映画史」(東洋経済新報社)ではそっけない。根岸を「生涯において肩書きを持たなかった男」としているが岩崎自身もこの評に当てはまる面がある。
文京区立小石川図書館で月に1度、映画の前説(上映前の解説)を続け、これをまとめたのが『映画の前説』である。没後は佐藤忠男が引き継いだ。
1988年、アニメ映画『AKIRA』を監督した大友克洋は、製作費10億円の映画を監督するにはキャリアが足りないのではという質問に「岩崎昶とセルゲイ・エイゼンシュテインは読みましたから」と答えている。70年代の必読書(岩波新書の『映画の理論』など)が顧みられず感覚派の映画批評が世間で幅を利かせる風潮へのアイロニーであった。
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