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雄別炭礦株式会社(ゆうべつたんこう)は、大正から昭和にかけて北海道に存在した炭鉱経営会社である[2]。1970年に解散。
釧路市(旧阿寒町)の雄別炭鉱の採炭と自社鉄道による運炭を主体に[2]、釧路炭田の尺別炭鉱及び浦幌炭鉱[2]、上茶路炭鉱[2]の外、空知炭田の茂尻炭鉱を経営した。三菱鉱業(現・三菱マテリアル)系列。
1919年(大正8年)設立[2]。1960年代のエネルギー転換政策(エネルギー革命)により各炭鉱の採算が悪化して行く中、採炭坑区を絞り、最新の設備を投入するなど、いわゆるスクラップアンドビルドを行って会社再建を図っていた矢先、シールド採炭法などの最先端の技術を導入した茂尻炭鉱(赤平市)で大規模なガス爆発事故が発生し、事故対応によって急速に資金繰りが悪化したため、全炭鉱を閉山して1970年(昭和45年)に会社を解散した。
資金繰りが原因による突然の戦後最大の大手炭鉱会社の解散であったため、地元自治体は築1年も経過していない公立学校の校舎や公民館などの放棄を余儀なくされた。雄別鉱業所が置かれ15000人程度の人口があった阿寒町雄別地区では、雄別炭鉱閉山と共に残務整理業務に携わる社員以外の住民がすべて姿を消し、企業・商店は廃業か阿寒町中心街や釧路市への移転を強いられた。役所、警察、郵便局、病院、映画館、小・中学校、寺院、神社などの施設は数か月のうちに閉鎖され、閉山後の数年で無人地帯と化した。音別町尺別地区でも住民の集団移転を行い、新尺別の町営住宅などの各種施設を放棄して役場職員の解雇を実施した。また地元住民の住む住宅の多くは雄別炭礦の所有だったため、解散後一方的に解体されるなどして生活の場を失うなど、地域住民の生活が大混乱に陥った。
1972年(昭和47年) 3月1日に雄別炭鉱を記念する阿寒町郷土資料館が雄別鉄道阿寒駅跡に開館したほか、1988年(昭和63年)6月25日に丹頂の里に移設された「炭鉱と鉄道館 雄鶴」には当炭礦の資料が展示されると共に、裏手に雄別鉄道の蒸気機関車が静態保存されている[2]。
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