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日本の小説家 ウィキペディアから
(つづき みちお、1929年7月6日 - 2003年11月27日)は、日本の推理作家・SF作家。東京市出身。本名は(まつおか いわお)。別名に小林 菖夫、淡路 瑛一、柴田 梅玉、伊藤 照夫など[注 1]。実兄(松岡勤治)は、夭折した落語家の鶯春亭梅橋。
東京市小石川区関口水道町(現在の東京都文京区関口)生まれ。生家は漢方薬局と的屋を兼ねていた。関口台町小学校を経て早稲田実業学校に進学するも卒業を目前にした1945年12月に中退。そのため、当人は自身の学歴について「小学校しか出てない」と述べている[1]。なお、関口台町小学校の同学年に越智通雄がいる。
三つ年上の兄の影響で子供のころから映画、推理小説、落語、江戸文学、芝居に親しむ。特に芝居が大好きで、ついに芝居熱がこうじて劇作家になることを決意、早稲田実業学校を中退して兄に紹介された正岡容の門を叩き、戯曲の勉強をはじめた[2]。ところが、「なにかのつごうで」小説を書いて正岡に読んでもらったところ、「お前は戯曲よりも小説に向いているようだから、なるんなら小説家になれ」と言われ、一転、小説家を志すことに[1]。
ただ、稼がなくてはならない。そのため、1947年頃から約2年間、正岡の世話で神田多町の新月書房に勤務し、雑誌『スバル』の編集に従事[3]。その傍ら『ポケット講談』や『実話と読物』などの読物雑誌に時代小説を発表。この当時は淡路龍太郎というペンネームを使っていたという[4]。その後も複数のペンネームを使い分けるものの、20歳になったときに、このままずっと書いていくなら中心になるペンネームをつくらなきゃいけないと言われ、都筑 道夫というペンネームを考案[注 2]。都筑道夫名義で初めて活字になったのは「木彫りの鶴」という左甚五郎が主人公の時代ものという[1]。
この頃、大坪砂男の作品に夢中になり、当時、長野県佐久市にいた大坪に教えを乞う手紙を書いて師事。大坪が新宿歌舞伎町に三畳の部屋を借りると足繁く通い、その数々の奇行に彩られた暮しぶりをつぶさに目撃する[6]。
1952年頃、読物雑誌が軒並み廃刊となり、オペラ口紅宣伝部にコピーライターとして入社。しかし、「給料がたかが知れているから、やっぱりなにか書かなきゃ食えない」ということで松村喜雄と一緒に『探偵倶楽部』でフランス小説の翻訳を手がけることに。松村がフランス語の原書を翻訳し、都筑が手を入れるというかたちだったという[1]。その後、松村がこの仕事から手を引くと『探偵倶楽部』の編集長に勧められて今度は英米小説の翻訳を一人で行うことに。しかし、当人曰く「こっちは中学の一年と二年でちょっとかじっただけで、二年の二学期から学徒動員というやつで引っぱられているから、英語なんてのは、ぜんぜんわからないわけだ」。そのため、「英文法早わかりみたいな本」を買ってきてなんとかやりきったという[1]。ペーパーバックなど英米ミステリの紹介者として知られた都筑ではあるが、自伝的エッセイ『推理作家の出来るまで』でも自身の英語は26歳の時までに独学で習得したものであると述べており、それであれだけ多くの翻訳を手がけた実績には端倪すべからざるものがある。このことに触れて坪内祐三は「言葉に対する感覚が天才的な人」と評している[7]。
1953年、大坪砂男の「街かどの貞操」の第一稿、1954年にも「外套」の第一稿を書く[6]。その後、大坪が大岡山に引っ越すと、大坪が住んでいた同じ家に引っ越した。場所はいわゆる青線地帯で、ベニヤ一枚隔てて行為の声が聞こえてくる中で原稿を書く[8]。
1955年、室町書房にて日本初の海外SF叢書である「世界空想科学小説全集」を平井イサクとともに企画したが、刊行は2冊で中断した。
1956年、『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』の創刊準備を進めていた早川書房の田村隆一から電報で呼び出され、「なんでもいいから、うんといえ」と迫られて同誌の編集に携わることに。初代編集長として創刊準備に当たっていた田中潤司が辞職したための代役だった。なお、当初、都筑の肩書きは編集長ではなく編集主任だったという。担当したのも主に作品のセレクションと解説で、進行やレイアウトなどは後の生島治郎である小泉太郎の担当だった[1]。早川書房ではハヤカワ・ミステリの作品のセレクションも担当。1957年には福島正実とともに「ハヤカワ・ファンタジイ」(1962年、「ハヤカワ・SF・シリーズ」に改称)も立ち上げた。また1958年には福島とともに講談社で「S・Fシリーズ」の企画にも当たったが、シリーズは6冊で終了となった[9]。さらに久保書店の中田雅久にアメリカのハードボイルド専門誌MANHUNTを紹介、日本版『マンハント』創刊の水先案内人も務めた。都筑は同誌に翻訳スタッフとして参加するとともに[注 3]、それまで翻訳雑誌を手がけたことがなかった中田に翻訳雑誌編集の秘訣を伝授したという[10]。
1959年、早川書房を退社し、本格的に執筆活動に入る。「贋作カート・キャノン」シリーズ[注 4]、「なめくじ長屋」シリーズ、「キリオン・スレイ」シリーズなどのシリーズものの他、単発ものやショートショートなど、発表した作品は膨大な量に上る。特にショートショートについては500編を超えるとの指摘もある[注 5]。なお、桃源社から1973年に刊行された『都筑道夫ショート・ショート集成』全3巻には321編の作品が収録されている[11]。また執筆ジャンルも多彩で、推理小説のほか、SF、怪談、時代小説、艶笑小説など多様なジャンルの小説をこなした。評論家・随筆家としても知られ、1973年にオセロが発売されると、これがイギリスのリバーシという19世紀から存在するゲームとほぼ同様であることをいち早く指摘した[12]。このほか、映画の脚本やテレビドラマの監修なども手がけた。
2001年、『推理作家の出来るまで』で第54回日本推理作家協会賞(評論その他の部門)受賞。2002年には第6回日本ミステリー文学大賞を受賞した。
講師を務めた「都筑道夫の創作講座」から深堀骨、畠中恵らがデビューしている。
フリーライター・斎藤勲、漫画家・高信太郎は、戯れで「都筑に師事」したとして、都筑を酒席などで「師匠」と呼んでいたという[13]。
2003年11月27日、動脈硬化症による心臓発作のためハワイ州ホノルルの病院で死去。74歳没。長年東京で暮らしていたが、2002年に妻を亡くし、長女がいるホノルルに移住していた[14]。
好きな作家としてチェスタトン、レイモンド・チャンドラー、グレアム・グリーン、久生十蘭、最も影響を受けた作家として岡本綺堂、大佛次郎、大坪砂男の名を挙げている[15]。
初期のミステリーでは、主人公を「きみ」という二人称で扱い、自分が自分として扱われなくなった男の焦燥を描く『やぶにらみの時計』、記述者が探偵・犯人・被害者という一人三役に挑戦し、束見本に書かれた手記という形態をとる『猫の舌に釘を打て』、正体を隠した執筆者二人が一章ごとに分担して執筆するという形式をとった「誘拐作戦」、作中作として翻訳風ストーリーが並行して語られる『三重露出』など、工夫を凝らした奇抜な設定が顕著であった。
その後は独創的な「名探偵」の創出にも意欲を燃やし、それが個性的なシリーズものとなって結実している。例えば『なめくじ長屋捕物さわぎ』の砂絵描きの「センセー」、幽霊専門の探偵「物部太郎」、日本にやってきて居候をしているものぐさ詩人「キリオン・スレイ」、安楽椅子探偵の「退職刑事」[注 6]などである。官憲嫌いで、現職刑事など体制側の所属者を探偵役に据えることは滅多にない。「なめくじ長屋」シリーズでも、レギュラー協力者役の目明し・下駄常はあまり好意的な描きかたをされておらず、同心連中はさらに辛らつな扱いである。
推理小説を「謎と論理のエンタテイメント」であるとし、犯人が仕掛けるトリックよりは、ロジックの方が重要であるとの考え方を示した[16]。極端に言えば、魅力的な謎と、なぜそのような状況が生じたのかという必然性が論理的に語られるならば、トリックなどなくても推理小説は成り立つ、というのが都筑の立場である[16]。また、「泣く蝉よりもなかなかに泣かぬ蛍が身を焦がす」という浄瑠璃の一節[注 7]をハードボイルドの精神としてしばしば引用し、たとえばヒロインの全裸死体をクールに客観描写しながら「夏をたのしんだ水着のあと」という一語を添えて哀れさを暗示するなどのスタイルで実践している。
小説全般に関しては、「軽くても、うまい小説が書きたかった」との言葉を残している[要出典]。
長谷川五郎によるオセロの発売直後(1973年)に、「子供の頃に同じ遊びをした記憶がある」と疑問を持ち、『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』の創刊に携わった田中潤司に尋ねたところ、「欧米にはリバーシというゲームがあり、昔から日本でも源平碁として親しまれている。1968年のハナヤマの商品カタログにも掲載されている」との回答を得た。さらに独自の調査を行い、娯楽研究家である矢野目源一の著書『娯楽大百科』[17]を参照し、「オセロはリバーシと同一のゲームである」と判断、発売元が海外輸出を目指していることを批判している[18]。
(推理界・問題小説・ミステリマガジン・別冊小説現代・別冊週刊大衆・小説推理・小説クラブ増刊・幻影城→野性時代)
(別冊小説CLUB、月刊小説、SFアドベンチャー)
(オール読物)
、のち改題『都筑道夫のミステリイ指南』(講談社文庫) 1990、のち増補改題『都筑道夫の小説指南 増補完全版』(中央公論新社) 2023
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