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中国安徽省の地級市 ウィキペディアから
蕪湖市(ぶこ-し)は、中華人民共和国安徽省に位置する地級市。1952年8月27日に市が設立された。
安徽省の東南部に位置し、合肥市、馬鞍山市、宣城市、池州市、銅陵市に接する。
蕪湖市域の地勢は南が高く北は低い。地形は平原や丘陵など多様で、河川や湖水などが網の目のように密に分布している。市域内を流れる主な河川には青弋江、水陽江、漳河などがある。それらの河川の間に黒沙湖、龍窩湖、奎湖などがある。全市の土地面積は3,317平方km、うち市区面積は720平方km。
気候は亜熱帯湿潤季節風気候に属し、四季の別ははっきりしている。年平均気温は摂氏15-16度で、年降水量は1200mm。
5市轄区・1県級市・1県を管轄する。
春秋時代、この地の湖畔の草むらの中には鳩が多く、呉国はこの地にできた都邑に「鳩茲邑」と命名した。長江はこの周辺では「鳩江」の別名があった。当時の鳩茲邑の位置は現在の蕪湖市の南東の水陽江南岸にあたる。鳩茲邑の湖には雑草(蕪草)が多かったことから、後に蕪湖と呼ばれるようになる。
秦が中国を統一して全国に36の郡を置いた際、鳩茲は鄣郡に属することになった。
前漢の武帝の元封2年(紀元前109年)、鄣郡は丹陽郡と改められ、その下に17の県が置かれた。その中に蕪湖県の名が見られ、この時から蕪湖県と呼ばれるようになっている。後漢の章和元年(87年)、斉王劉晃は有罪となり、貶爵刑に処せられ蕪湖侯に降格した。これ以後、蕪湖県は蕪湖侯国と改められた。90年、第2代蕪湖侯の劉無忌は斉王の地位に戻され、再び蕪湖は県になった。
三国時代の呉の黄武2年(223年)、蕪湖県の県城は鳩茲から現在の蕪湖市区の南東の鶏毛山周辺に移転している。
東晋に入り、華北を失った東晋政府は、もとは現在の河南省周辺にあった豫州を蕪湖において僑立した。東晋の哀帝の興寧元年(363年)、蕪湖は宣城郡に属することになり、その中心地(郡治)となった。孝武帝の寧康2年(374年)、もとは現在の山西省にあった上党郡を蕪湖で僑立した。しかし太元年間に上党郡を廃止して上党県にし、陽穀県(現在の繁昌区)を蕪湖県に編入し、さらに蕪湖県を襄垣県に編入したため蕪湖県は一旦消滅する。襄垣県および上党県は淮南郡(現在の江蘇省にあったものをこの地に僑立したもの)に属した。義熙8年(412年)、淮南郡の郡治は丹陽の于湖(現在の当塗県の南19kmの場所)に置いた。
隋の文帝の開皇9年(589年)、もとの蕪湖城は廃止され、当塗県に属する鎮とされた。唐もこれを踏襲した。
五代十国時代の南唐の昇元年間、蕪湖県は復活し、江寧府に属するようになった。これ以後蕪湖県は後代まで存続した。
宋の太祖の開宝8年(975年)、蕪湖は宣州に属するようになった。太平興国2年(977年)には太平州(現在の当塗県)に管轄を替えられた。以後中華民国の時代になるまで、蕪湖県は太平(元代には太平路に、さらに太平府となり、明清代には太平府となった)に属する県であった。
宋代には蕪湖に城壁が築かれたが、後に兵火で破壊された。
明に蕪湖では城壁の修復が行われ、万暦9年(1581年)に完成した。その規模は小さく、周囲は739丈であった。ただし、鉱業や商業が非常に繁盛したため、市街地は城壁の範囲を超えてどんどん広がり、青弋江の両岸に沿って西へ伸び、ついに長江の岸まで達した。これを称して「十里長街」といった。蕪湖は船や車が集中し、財力や文物も多く、徽商(安徽商人)は蕪湖を全国16個大都市のひとつに数えた。中国各地で活躍した徽商は、万暦に出版された『歙志』の巻一で、全国の大都市を次のように評価している。「今のいわゆる都会とは、大きいものは両京、江・浙・閩・広の各省の省会、次に来るのは蘇・松・淮・揚の諸府、臨清・済寧の諸州、儀真・蕪湖の諸県、瓜洲・景徳の諸鎮……。」
明清代に栄華を極めた十里長街は、太平天国の戦争の際に戦禍に巻き込まれ、ことごとく廃墟と化した。1876年、清とイギリスとの間で結ばれた芝罘条約により、蕪湖は外国船に対する開港地となった。1877年、李鴻章は朝廷に対して、鎮江にあった米市場を蕪湖に移すことを提案した。数年後には蕪湖は中国四大米市の首位となり、市場は県城から西の長江までの間、青弋江の北岸に集中した。戦火で破壊された十里長街はこれにより復興していった。さらに、十里長街の北には、二街(1894年)、大馬路(1902年、現在の中山路)、二馬路(現在の新蕪路)が開かれ、新たな商業の中心となった。李鴻章の家族は蕪湖に大量の投資を行い、多くの各種建築物を建て、蕪湖の市街地に今も多くの影響を残している。1910年には蕪湖市区は約2.4平方kmにまで拡大した。
1912年(民国元年)、中華民国政府は府を廃止し県は存続させることを宣布した。これにより蕪湖県は安徽省の直属になった。1914年から1928年まで安徽省には3つの道が置かれたが、そのうち蕪湖道は皖南(安徽省南部)の23県を管轄し、その治所は蕪湖に置かれた。1932年、南京国民政府は省の下に行政督察専員公署を置くことを決定した。蕪湖県は安徽省の第二専区行政督察専員公署の中心となった。
1938年には日本軍が蕪湖に侵入しこれを占領した。蕪湖は第五専区に改属し、同年10月25日には第九専区に改属した。1941年(民国30年)には第六専区に管轄替えされた。1945年9月、日中戦争が終わると安徽省皖南行署に属し、同時に第六専区の中心となった。
1949年4月24日、人民解放軍第三野戦軍第三十軍八十八師団が蕪湖を占領した。4月27日には蕪湖軍事管制委員会が設立され、南京軍事管制委員会に直属することになった。同年5月10日には蕪湖市人民政府が成立した。これ以後、蕪湖市が県から分かれて設立されている。同年5月13日には皖南行署(省級)が蕪湖市に置かれ、蕪当・池州・宣城の専区を管轄した。うち、蕪湖市は皖南行署の直轄となり、蕪湖県は皖南行署蕪当専区に属することになった。
1950年、蕪当専区は廃止され蕪湖県は皖南行署の直属となった。1952年2月4日には蕪湖県は新たに置かれた蕪湖専区に属するようになった。1952年8月27日、皖北行署・皖南行署は廃止され安徽省人民政府が成立し、蕪湖市は安徽省の直属になった。蕪湖県は蕪湖専区に属し、蕪湖専区と蕪湖県の中心はともに蕪湖市に置かれた。1959年3月12日には蕪湖県は廃止され蕪湖市に編入されたが1961年に復置されている。
1971年3月、蕪湖県の中心は湾沚鎮に移転した。同年3月29日、蕪湖専区は蕪湖地区に改名し、蕪湖市・蕪湖県はともに地区に属するようになった。1973年2月25日、蕪湖市は安徽省の直属となった。1980年1月29日、蕪湖地区は宣城地区と改名し、行政公署は宣城市に移転されている。
主な産業は軽工業や紡績で、おもな産品には羽毛製品、ミシン、ブラウン管などがある。伝統産品には保温瓶、羽毛服、絹製品、革靴、ベッドシーツ、剛毛(刷毛などの原料になる豚の毛)などがある。また自動車の製造も急速に伸びており、奇瑞汽車の本社があり、市の産業の柱にもなっている。重工業では、市区の南の白馬山にコンクリートなどを生産する海螺グループ(もと白馬山水泥廠)がある。
その他、コメや小麦などの農業、河川や湖での魚やカニ類の漁業、鉄や銅、鉛、陶土などの鉱業なども盛ん。南陵県の丘陵地帯では薬用牡丹が栽培されている。蕪湖鉄画などの書画も有名。
蕪湖長江大橋は2000年に完成した。蕪湖港は長江沿岸の主要な港湾となっている。
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