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中国江蘇省の地級市 ウィキペディアから
淮安市(わいあん/フアイアン-し,拼音: )は中華人民共和国江蘇省の中西部に位置する地級市。2001年以前は淮陰市(わいいん-し)と称されており、同名の淮安市は県級市として淮陰市管轄とされていた(詳細は淮安区を参照)。淮河の流域にあり、淮河水系の中国第4位の淡水湖・洪沢湖が西部に広がる。面積は10,030平方km、人口は約455.6万人(2021年)。中華人民共和国の政治家周恩来の出身地でもある。
中華人民共和国 江蘇省 淮安市 | |
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淮安府衙 | |
旧称:淮陰 | |
江蘇省中の淮安市の位置 | |
中心座標 北緯33度30分 東経119度8分 | |
簡体字 | 淮安 |
繁体字 | 淮安 |
拼音 | Huáiān |
カタカナ転写 | フアイアン |
国家 | 中華人民共和国 |
省 | 江蘇 |
行政級別 | 地級市 |
市委書記 | 陳之常 |
市長 | 史志軍 |
面積 | |
総面積 | 10,030 km² |
市区 | 3,171 km² |
人口 | |
総人口(2021) | 455.6 万人 |
市区人口(2021) | 302.1 万人 |
経済 | |
GDP(2021) | 4550.13 億元 |
電話番号 | 0517 |
郵便番号 | (市区):223000, 223200, 223300
(外県):211600, 211700, 223100, 223400 |
ナンバープレート | 蘇H |
行政区画代碼 | 320800 |
公式ウェブサイト: http://www.huaian.gov.cn |
淮安は江蘇省中西部に位置し、西北は宿遷市に、北は連雲港市に、東は塩城市に、東南は揚州市に、西南は安徽省滁州市に接する。
淮安市の大部分は淮河流域の平野で、地勢はきわめて平坦である。盱眙県の域内に若干の丘陵地帯が存在する。
また淮安市には河川や湖沼が非常に多い。主要な河川・運河は、京杭大運河、淮河、蘇北灌漑総渠などがある。淮河はかつて淮安から東の黄海へと流れていたが、黄河の流路が南へ移り淮河の流路を乗っ取ったために淮河は溢れ出して南の長江へと流れるようになった。このときあふれた水で形成されたのが、淮安西部の市境に広がる中国第4位の大きさの湖・洪沢湖である。淮河の氾濫を防ぐため、中華人民共和国は蘇北灌漑総渠を建設し、再び淮河の水の一部を黄海へ流している。
淮安の歴史は淮河(淮水)と切り離せない。伝説では、大禹は淮水の治水を行い永く安定させたという。秦代には淮安県が置かれ、現在の淮安市に至る2000年の歴史の始まりとなった。また、淮陰県(現在の碼頭鎮の東南)、盱眙県、東陽県(現在の盱眙県馬壩鎮)もこの時期に設置されている。淮陰城は当時は泗水が淮水に合流する地点の正面にあり、東には淮水と長江を結ぶ運河の基点があったため、水上交通の要地となっていた。
秦漢代には劉邦を補佐して前漢建国に大きく貢献した韓信のほか、前漢の辞賦家の枚乗、枚皋、後漢の文人で建安七子のひとり陳琳を輩出ている。
行政区画としては東晋により設置された山陽郡を前身とする。隋代になると592年(開皇2年)に山陽郡は廃止され、新たに楚州が設置された。隋朝による大運河の建設は華北と江南の物流幹線を形成し、淮安で淮河などの河川と交差したため、淮安は経済的に大きな発展を遂げている。唐代になると621年(武徳4年)に東楚州とされたが、625年(武徳8年)には再び楚州とされた。宋代になると1228年(紹定元年)に淮安軍の軍治、元代には1283年(至元20年)に淮安路の路治とされている。
明清代になると淮安は治水、漕運、製塩行政の中心地とされ南河総督と漕運総督が設置され、水運と製塩により最盛期を迎えた。淮安府と河下鎮、板閘鎮、清江浦の各都市を連絡する大都市群が形成され、淮安は揚州、蘇州、杭州と並ぶ大運河上の「四大都市」と呼ばれるまでになる。
明代の淮安府は、現在の江蘇省の長江以北にあったわずか2箇所の「府」のうちのひとつで、その管轄範囲は黄海沿岸から内陸の広い範囲にわたり、現在の淮安市、塩城市、宿遷市、連雲港市および徐州市東部に及んだ。清代になると海州直隷州(現在の連雲港市)が分離、さらに徐州市付近に徐州府が新設されたため行政範囲は縮小した。当時の淮安府は山陽県(現在の淮安区)、清河県(現在の淮陰区)、安東県(現在の漣水県)、桃源県(現在の宿遷市泗陽県)、塩城県(現在の塩城市)、阜寧県(山陽県の東部に新設、現在の塩城市阜寧県)の6県を管轄した。1761年には清河県城が洪水で破壊され、山陽県の清江浦鎮を清河県の新たな県治とした。
中華民国が建国されると、1914年(民国3年)に行政区画改変が行われ管轄県名の改称とともに、府級行政組織が廃止され淮揚道が設置された。清江浦は淮揚道の道治となり、これ以後淮安府城に代わり行政の中心地を形成した。1937年(民国26年)に勃発した日中戦争では江蘇省政府が鎮江から淮陰に疎開したが、1939年(民国28年)3月には日本軍により占領された。1945年(民国34年)に中華民国政府が実効支配権を回復すると清江市が設置されている。1948年(民国37年)に両淮市と改称されたが、国共内戦の混乱によりまもなく廃止された。
1948年(民国37年)12月、淮海戦役により人民解放軍が淮陰及び淮安地方を実効支配に置くと、1949年(民国38年)4月21日、蘇北行政公署の下に淮陰専区が新設され、淮陰・淮宝・泗陽・沭陽・灌雲・宿遷・睢寧・新安・邳睢・漣水の10県を管轄した。1951年、淮陰県城地域を分割し清江市を設置、地区公署が設置されている。1953年1月には江蘇省が復活し、淮陰専区はその下に置かれるようになる。
以後、1950年代には隣接の徐州専区などとの間で管轄換えや県の分割・廃止などが相次いだ。1971年の時点で、淮陰地区は清江市および12の県(灌雲・灌南・沭陽・宿遷・泗陽・漣水・淮陰・淮安・洪沢・泗洪・盱眙・金湖)を管轄した。
1983年には清江市は淮陰市と改名し地級市に昇格した。旧清江市は清河区と清浦区になり、淮陰地区は淮陰市に吸収された。1987年には宿遷県と淮安県が県級市となっている。
1996年には宿遷市が地級市に昇格し、沭陽県・泗陽県・泗洪県とともに淮陰市から分離した。灌雲県および灌南県は連雲港市に移り、淮陰市は淮陰県・漣水県・金湖県・洪澤県・盱眙県の5県および淮安市、清河区、清浦区を管轄するようになった。
2000年12月21日、淮陰市は淮安市に改名された。中心はそのままもとの清江市・淮陰市のあった清河区に置かれ、もとの淮安市は楚州区に、もとの淮陰県は淮陰区に改められた。2012年には楚州区は淮安区に改名されている。
4市轄区・3県を管轄する。
大手鉄鋼メーカー・江蘇沙鋼集団(沙鋼)の傘下にある特殊鋼メーカー・江蘇沙鋼集団淮安特鋼有限公司(淮安特鋼)が本拠を置く。2000年以後、韓国資本のハンコックタイヤと台湾資本のフォックスコン(富士康)、達方電子、宏盛箱包などの企業が淮安に投資し、台湾資本の新たな集中地域となっている。2023年には全市のGDPは5015.1億元、一人当たりGDPは93700元(12980ドル)に達した。経済総生産と一人当たり平均は江蘇省第11位、全国第58位である。
航空
鉄道
路面電車
道路
淮安市での宗教施設および信徒数では、キリスト教が800箇所・信徒数18万と優位にある。仏教(40箇所、信徒数4万)、イスラム教(5箇所、信徒数6,000人)が続く。著名な仏教寺院には慈雲寺、聞思寺などがある。
淮安出身の有名人には韓信(淮陰侯)のほか、文人の陳琳や枚乗、明代の小説家で『西遊記』の著者・呉承恩、清末期の学者・小説家で『老残遊記』の著者・劉鶚、清代の名医・呉鞠通、清末期の武将でアヘン戦争で討ち死にした関天培、中華人民共和国総理であった周恩来らがいる。
中国歴史文化名城に指定されている淮安は観光都市としても知られているほか、江蘇料理の一つで淡水魚の料理などが有名な淮揚料理(淮揚菜)の本場として、また淮劇や淮書などの本場としても知られる。主な観光地には大運河や漕運総督衙門の跡地、鎮淮楼、文通塔、清晏園、缽池山公園、勺湖などがある。また周恩来の旧居と周恩来紀念館や、明の朱元璋が祖先を葬った明祖陵もある。
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