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東晋の皇帝。在372-396 ウィキペディアから
簡文帝と李陵容(側室)の間の子として生まれた。長兄の司馬道生が廃嫡され、他の兄らも早世したため、父の後嗣を継いだ。興寧3年(365年)、会稽王に封じられた。咸安2年(372年)に父帝が崩御した際、大司馬桓温への禅譲問題でなかなか跡を継げなかったが、侍中の王坦之、尚書僕射の王彪之、謝安らの尽力により即位した[2][3]。桓温は不満を抱いたが[3]、謝安の禅譲引き延ばし工作などから失意のうちに寧康元年(373年)に死去した[4][5]。
12歳で即位した孝武帝は年少であったことから重臣の謝安による補佐を受けた。治世初期、従来の土地に対する課税を人頭税に変更するという税制改革を実施した。太元元年(376年)、元服と同時に親政を始めたが、実質的な政務は相変わらず謝安が担った。太元8年(383年)には前秦の苻堅が中国統一を目指して東晋に侵攻して来た時も謝安と一族の謝玄・謝石らにより撃退され(淝水の戦い)、孝武帝の治世前期に東晋は全盛期を迎えることになった。
太元10年(385年)に謝安が、太元13年(388年)に謝玄が相次いで没したため、謝一族は朝廷の中心から去り、孝武帝が成長したこともあって親政するようになり、弟の会稽王司馬道子がそれを補佐する体制がとられた[6]。しかし孝武帝は次第に酒と女色に溺れて国政を省みなくなり[7]、遂には酒の飲みすぎでアルコール中毒に陥り、宮殿の奥に入ったまま酒を飲み続けて醒める時が無く、外部の者と接触すらしなくなった[6]。補佐する司馬道子も謝安に比べ政治能力が欠如した暗愚な人物で、奢侈な生活により国庫財政の破綻を招いて東晋は孝武帝の治世後半から全盛期より急速に衰退していった。
太元21年9月庚申(396年11月6日)、孝武帝は清暑殿にて後宮の女達と酒宴を開き、女楽を侍らせて楽しんでいた[8]。孝武帝には当時寵愛していた張貴人という女性がいたが、張貴人に酒宴の席で「お前の年では、そろそろお払い箱にしなくてはな。朕はもう少し若いのが欲しくなったよ」と言った[8]。孝武帝にすれば酒に酔っての冗談だったといわれるが、張貴人は30歳に近い年齢であったため当時としてはあながち冗談と済ませられる年齢でもなく、これを孝武帝が自分を廃そうとしていると思い込んでしまった[8]。このためその酒宴が行われた後、孝武帝が酔いがまわって眠り込むと、張貴人に買収された宦官により手引きされた召使により寝所において、眠っているところを孝武帝は厚い布団に息を塞がれて蒸殺された。享年は35歳。
張貴人は孝武帝を殺害すると、何事も無かったかのように臣下を呼び集めて「天子様はお休みのところ、にわかにうなされまして、只今息をお引取りになりました」と述べた[8]。補佐役の司馬道子が暗愚なこともあり、張貴人には罪が問われることが無かった[8]。
死後、皇位は長男の司馬徳宗(安帝)が継いだが極度の精神障害児だったため、司馬道子が政権を握り東晋は滅亡の道をひた走り、皇族の権力も大いに弱体化していくことになった。
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