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琅邪王であった司馬睿の長男として誕生する。生母は代郡出身の荀氏(側室)であり、漢化した鮮卑族の娘とも伝わる。幼い頃から頭脳明敏で父に愛された。長安からの使者が訪れた際、父から「太陽と長安とはいずれが近いだろうか?」と問われると、「長安が近いと思います。太陽から訪れる人があったとは聞いたことがありません」と答えた。翌日、多くの家臣が居並ぶ宴席にて父が同じことを聞くと、今度は「太陽が近いと思います」と答えた。驚いた父がさらに尋ねると、「太陽は目に見えますが、長安はここから見えませんから」と述べたという[1]。
建武元年(317年)、父が晋王となるとその世子となり、大興元年(318年)に父が皇帝に即位すると皇太子となる。
永昌元年(322年)に王敦が反乱を起こし、官軍が大敗した際には、自ら出陣しようとしたが、側近の温嶠(魏の温恢の末裔)が「殿下は国の世継ぎ。御身を軽んじてはいけません」という諫言により抑えられた。勇猛果敢かつ剛毅であった司馬紹は王敦に忌避され、また、元帝が末子の会稽王司馬昱を溺愛したこともあり、太子の地位が微妙となったことがあった。しかし、信頼する温嶠の弁舌により救われて廃嫡は免れた。
間もなく元帝の崩御に伴い即位する。やがて王敦が丞相・揚州牧を称して再び反乱を起こすと、その軍を破って反乱を鎮圧する。しかし、王敦は太寧2年(324年)に既に病死していたため、果敢な明帝はその棺を暴いてその屍に刑を加えたという。
明帝は皇帝権力の安定化のために王導を重用し、江南の貴族に対しても融和的な政策を採った。太寧3年(325年)閏8月、西堂で崩御。享年は27歳。東晋随一の名君だった明帝が長命だった場合は東晋の命は延びていたかもしれないと評価されている。明帝は王導から司馬昭らによる簒奪の経緯(甘露の変)を知り、顔を覆って「どうして(晋の)皇祚を長く保つことができようか」と言ったという[3][4]。
俗説では、明帝は金髪で黄髭だったという。 司馬紹の容貌を見た王敦が「太子は鮮卑奴(鮮卑族を侮辱した言葉)なり」と評していた[5]。
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