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1933年8月から1937年12月まで『三田文学』に断続連載され、石坂の出世作となった。1937年、上下巻として改造社から刊行された。
石坂が郷里の弘前で見聞したミッション系女学校での実話に基づいているが、関係者に迷惑が掛からぬよう、小説の舞台は北海道函館のミッションスクールとした[1]。それは今日まで函館の遺愛学院の名誉となっている。
北国の港町のミッションスクールに勤める28歳の教師・間崎慎太郎は、江波恵子という女生徒の作文を読んで、その激しい情熱に打たれる。一方、同僚教師の橋本スミは、間崎が女生徒にひかれていくのを戒め、間崎は恵子とスミの双方にひかれる。恵子は料亭を営む母と二人暮らしの私生児である。間崎は江波の母の料亭での喧嘩を仲裁して大けがを負うが、その晩恵子と結ばれる。このことを知ったスミは、自宅で左翼非合法活動の集会を開いて検挙される。
女優の江波和子は映画化に際し当初江波恵子役に擬せられたため、芸名はこのヒロインにちなみ、娘の江波杏子も同様である。またテレビドラマで間崎を演じた石坂浩二の芸名は石坂洋次郎にちなんでいる。
『若い人』が好評を得て石坂は人気作家となるが、1938年[1]、一右翼団体がその一部をとらえ、不敬の文言があるとして出版法違反で告訴した。心ある官僚のアドバイスで問題箇所を書き改め不起訴となったが、この一件で石坂は教職を依願退職せざるを得なくなった[1]。また、この事件は戦後「不敬罪と軍人誣告罪」で告訴と多くの解説、事典類に記載されてきたが、「誣告」は偽りの罪に人を陥れることであり、事実とは違っている[2][3]。これは、新潮文庫の解説(和木清三郎)に誤って記載されたものが踏襲されてきたものである[4]。1939年1月訂正版が刊行された。
東京発声映画という独立プロにとっても、豊田四郎監督にとっても、記念碑的な作品である。東京発声は、1937年に配給を日活から東宝に切り替え、世田谷に撮影所を建設し、本作が従来の通俗映画オンリーの製作方針から、著名な文芸作品の映画化に的を絞った転換第一作である。石坂洋次郎の原作は1933年から『三田文学』に連載されて、三田文学賞を受賞。映画化された1937年の2月に改造社から単行本が刊行されて、映画化の時点ではベストセラーのトップであった。 この映画が封切られた1937年11月は、日中戦争が始まって四ヶ月が経ち、政府の検閲への心遣いが必要であった。そのため、映画はインテリ向きの芸術映画として、外国映画封切館(日比谷映劇)に出して興行的に成功。東京発声映画の文芸映画路線が確立された。[5] キネマ旬報日本映画6位。
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