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日本の平安時代の女性歌人、作家、女房 ウィキペディアから
紫式部(むらさき しきぶ)は、平安時代中期の女房、作家、歌人。『源氏物語』の作者とされ、『紫式部日記』を残しており、歌人として『紫式部集』を残した。『後拾遺和歌集』などに入集し、『中古三十六歌仙』『女房三十六歌仙』『百人一首』に選ばれている。
父は藤原北家良門流の越後守・藤原為時、母は摂津守・藤原為信の娘(藤原為信女)である。父方の曽祖父には三条右大臣・藤原定方や堤中納言・藤原兼輔があり、一族には文辞で聞こえた人が多い。父為時も漢詩人、歌人として活動した。
紫式部の実名や正確な生没年はわかっていないが、おおよそ天禄元年(970年)から天元元年(978年)の間に生まれたと考えられている(「生没年」参照)。同母の兄弟に藤原惟規がいるが、紫式部とどちらが年長かは両説が存在する[2]。ほかに、姉がいたこともわかっているが、この式部の母親は早世したとされている[3]。
紫式部は幼少の頃より漢文を読みこなしたなど、才女としての逸話が多い。970年代後半より父為時が東宮時代の花山天皇の読書役を務め、永観2年(984年)の天皇即位にともない蔵人、式部大丞と出世したが、2年後に天皇が譲位・出家すると散位となったため、一家は不遇の時代を過した。10年後の長徳2年(996年)、為時がようやく越前国の受領となり、紫式部も約2年を父の任国で過ごす。
長徳4年(998年)ごろ、親子ほども年の差がある又従兄妹[注釈 1]、山城守・藤原宣孝と結婚する。長保元年(999年)に一女・藤原賢子(大弐三位)を儲けた。この娘も『百人一首』『女房三十六歌仙』の歌人として知られる。しかし、この結婚生活は長くは続かず、長保3年4月15日(1001年5月10日)に宣孝と死別した。『紫式部集』には、その心情を詠んだ和歌「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」が収められている[注釈 2]。
長保4年(1002年)ごろ、『源氏物語』を書き始める[注釈 3]。のちに藤原道長に召し出され、寛弘2年12月29日(1006年1月31日)、もしくは寛弘3年同日(1007年1月20日)より、一条天皇の中宮・藤原彰子(道長の長女)に女房として仕える。女房名は藤式部(とう の しきぶ / ふじ しきぶ)で、後に「紫式部」と呼ばれたとされる[5]。彰子の家庭教師としての役割も果たしたとされ、少なくとも寛弘8年(1012年)ごろまで奉仕したようである。この間、大量の料紙を提供されていることから、そこに『源氏物語』を書くことを依頼されたと考えるのが自然であり、その依頼主として可能性が高いのが藤原道長である[6]。
なお、近代以降の伝記では顧みられることのなかった説として、永延元年(987年)の藤原道長と源倫子の結婚の際に、倫子付きの女房として紫式部が出仕した可能性が指摘されている。『源氏物語』解説書の『河海抄』『紫明抄』や歴史書『今鏡』には、紫式部の経歴として倫子付き女房であったことが記されている。傍証として、永延元年当時は為時が散位であったこと、倫子と紫式部はいずれも曽祖父に藤原定方を持ち遠縁に当たること、さらに『紫式部日記』には、新参の女房に対するものとは思えぬ道長や倫子からの格別な信頼・配慮がうかがえることが挙げられる。女房名からも、為時が式部丞だった時期は彰子への出仕の20年も前であり、のちに越前国の国司に任じられているため、寛弘2年に初出仕したのであれば父の任国「越前」や亡夫の任国・役職の「山城」「右衛門権佐」にちなんだ名を名乗るのが自然で、地位としてもそれらより劣る「式部」を女房名に用いるのは考えがたく、そのことからも初出仕の時期は寛弘2年以前であるという説である[7]。
平安時代の貴族階級の女性は当時の慣習で実名(諱)を公にしない場合が多く[8][9]、紫式部をはじめ清少納言や和泉式部などの名称は通称であり、実名はいずれもわかっていない。
宮中での女房名「藤式部」は、父為時の官位(式部省の官僚・式部大丞)に由来する説と、同母兄弟・藤原惟規の官位に由来する説とがある[10]。
現在一般的に使われている「紫式部」について、「紫」のような色名を冠した呼称は同時代には珍しく、その理由については様々な推測がされている。一般的には、「紫」の呼称は『源氏物語』の作中人物「紫の上」に由来すると考えられている[11]。
『源氏の物語』を女房に読ませて聞いた一条天皇が「きっと日本紀(『日本書紀』)をよく読み込んでいる人に違いない」と作者を褒めたことから、紫式部は「日本紀の御局」とあだ名されたとの逸話がある[12]。これには女性が漢文を読むことへの揶揄があり、紫式部本人にとっては苦痛だったとする説が通説である。
「 | 「内裏の上の源氏の物語人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに この人は日本紀をこそよみたまへけれまことに才あるべし とのたまはせけるをふと推しはかりに いみじうなむさえかある と殿上人などに言ひ散らして日本紀の御局ぞつけたりけるいとをかしくぞはべるものなりけり」[13] | 」 |
幼名について、『紫式部集』の宣孝と思しき人物の詠歌に「ももといふ名のあるものを時の間に散る桜にも思ひおとさじ」から、「もも」を幼名と解釈する研究者もいる[14]。
また、諱について、『御堂関白記』の寛弘4年1月29日(1007年2月19日)の条で掌侍になったとされる記事にある「藤原香子」(かおるこ/たかこ/こうし)とする角田文衛(1963年)説がある[15]。ただし、推論の過程に誤りが含まれるとの批判があり[16]、もし紫式部が「掌侍」という律令制に基づく公的な地位を有していたのなら、「紫内侍」や「式部内侍」として勅撰集や系譜類にあるはずの痕跡が全く見えないとする批判もある[17]。その後、萩谷朴の香子説追認論文[18]も提出されているが、以降は積極的な検討は停滞している。三枝和子『香子の恋 小説 紫式部』、帚木蓬生『香子 紫式部物語』全5巻のように、創作ではタイトルに香子が採用されている例もある。
当時の受領階級の女性全般がそうであるように、紫式部の生没年を明確な形で伝えた記録は存在しない。そのため、紫式部の生没年については複数の説が存在しており、定説が無い状態であり、生没年は不詳である[19]。
生年については両親が婚姻関係になったのが、父の為時が初めて国司となって播磨国へ赴く直前と考えられることから、それ以降であり、かつ同母の姉がいることから、そこからある程度経過した時期であろうと推測される。だが同母兄弟である藤原惟規とどちらが年長であるかも不明であり、以下のような様々な説が混在する[20]。
没年については、昭和40年代までの通説では、紫式部と思われる「為時女なる女房」の記述が何度か現れる藤原実資の日記『小右記』において、長和2年5月25日(1013年6月25日)の条で「藤原資平(実資の甥で養子)が実資の代理で皇太后彰子のもとを訪れた際、『越後守為時女』なる女房が取り次ぎ役を務めた」旨の記述が、紫式部について残された明確な記録のうち最後のものであるとし、よって三条天皇の長和年間(1012年 - 1016年)に没したとする認識が有力なものであった。しかし、これについても異論が存在し、これ以後の明確な記録がないこともあって、以下のような様々な説が存在している[29]。
紫式部の夫としては藤原宣孝がよく知られており、これまで式部の結婚はこの一度だけであると考えられてきた。しかし、「紫式部=藤原香子」説との関係で、『権記』の長徳3年(997年)8月17日条に現れる「後家香子」なる女性が藤原香子=紫式部であり、紫式部の結婚は藤原宣孝との一回限りではなく、それ以前に紀時文との婚姻関係が存在したのではないかとする説が唱えられている[39]。
『紫式部日記』には、夜半に道長が彼女の局をたずねて来る一節があり、鎌倉時代の公家系譜の集大成である『尊卑分脈』(『新編纂図本朝尊卑分脉系譜雑類要集』)には、「上東門院女房 歌人 紫式部是也 源氏物語作者 或本雅正女云々 為時妹也云々 御堂関白道長妾」と註記が付いている。これは『紫式部日記』に「紫式部が藤原道長からの誘いをうまくはぐらかした」旨の記述が存在することを根拠としているとされる。これに対し、「紫式部は二夫にまみえない貞婦である」(安藤為章『紫女七論』)とする江戸時代の儒教的倫理観による解釈もあった。ただし、『源氏物語』には、召人と呼ばれる女房の存在もある。
紫式部の墓と伝えられる古蹟が京都市北区紫野西御所田町(堀川北大路下ル西側)に残されており、小野篁の墓とされるものに隣接して建てられている(『河海抄』の記述に合致)。この場所は淳和天皇の離宮があり、紫式部が晩年に住んだと言われ、後に大徳寺の別坊となった雲林院百毫院の南にあたる。京都市の建札によれば、この場所から東北の地域はかつては小野氏の領地だったが、後に藤原氏の所有となった。[40]この地に紫式部古くは14世紀中頃の『源氏物語』注釈書『河海抄』(四辻善成)に、「式部墓所在雲林院白毫院南 小野篁墓の西なり」と明記されており、15世紀後半の注釈書『花鳥余情』(一条兼良)、江戸時代の書物『扶桑京華志』や『山城名跡巡行志』『山州名跡志』にも記されている。この情報が長い間にわたり、両家の墓所として保たれてきた理由を示している。1989年に社団法人紫式部顕彰会によって整備された。[41]この時、篤志家・近藤清一氏はこの計画に賛同、四国の吉野川上流で産出した大きな花崗岩(高さ1950cm、幅120cm)を碑石として寄附した[42]。京都市北区の観光名所の一つになっている。
歌人としては、子供時代から晩年のほぼ一生涯にわたり自らが詠んだ和歌から選び収めた家集『紫式部集』があり、資料の少ない紫式部の生活環境の変化や心の変化を知ることができ、平安文学や日本古代中世史などの研究者にとって貴重な資料でもある[43]。『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集には計51首の和歌が収められている[44]。平安時代末期に中古三十六歌仙、鎌倉時代中期に女房三十六歌仙に選ばれ、『百人一首』57番に収められた「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」が広く知られる。
物語作品では、平安中期の貴族社会を描き、54帖から成る『源氏物語』の作者とされる。和歌795首が詠み込まれ、物語の核心を文章ではなく和歌で描く描写力をはじめ[注釈 4]、日本や中国の歴史書、漢籍、漢詩への造詣の深さに裏付けされた記述から高く評価される。
日記作品では、藤原道長の要請で宮中に上がった際、宮中の様子をはじめ藤原道長邸の様子などを記した『紫式部日記』を残しており、これには和歌18首が詠み込まれている。この日記は寛弘5年(1008年)7月から約1年半にわたる日記で、随所に宮中行事の様子も記され、宮中内の者しか知り得ない現場の様子もよくわかり、行事の開催など事実だけを記載する公的歴史記録では知ることができないものである[46]。また紫式部が女性仲間と物語に関して批評し合い楽しんでいた様子なども書かれており[47]、源氏物語執筆のきっかけを知ることができる第一級の資料でもある[48]。源氏物語と紫式部日記の2作品は、150年ほど後の平安時代末期に『源氏物語絵巻』、200年ほど後の鎌倉時代初期に『紫式部日記絵巻』として、各々絵画化された。
明確な記録は存在しないが、村上天皇の皇子である具平親王は光源氏のモデルのひとりともされ、為時や紫式部、その兄の為頼と交流があった可能性がある。具平親王の母荘子女王と為頼・為時兄弟の母は従姉妹の関係であり、為時は「藩邸之旧僕」と題し詩に読み、古くからの親しい交流があったことを示している。また『紫式部日記』には、道長が具平親王の息女隆姫女王を嫡男頼通へ降嫁させるための相談を、式部を具平親王家からの「心よせのある人」として持ちかけていることなどから、紫式部自身も具平親王と知古があったとする説である。[50]
『詞花集』に収められた伊勢大輔の「いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな」という和歌は、宮廷に献上された八重桜を受け取り中宮に奉る際に詠んだものだが、『伊勢大輔集』によれば、この役目は当初紫式部の役目だったものを式部が新参の大輔に譲ったものだった。
『紫式部日記』には、同僚女房たちの批評に同時期の有名女房たちの人物評が続く。歌人の和泉式部(「趣深い手紙のやり取りをした人だが素行はよくない。歌は口に任せて読んだ中に光るものがある作風であるが、他人の歌の批評などしているのを見ると歌学に造詣が深いわけでもなく、こちらが気後れするような歌人ではない」など)や赤染衛門(「家柄が良いというわけではないが歌はとても風格があり、むやみに読み散らしたりしないが世に知られている歌はどれも素晴らしくこちらが恥じ入ってしまうほどである」など)が知られている。とりわけ、最も有名なのが『枕草子』作者の清少納言に対する下りである(以下は意訳)。
殆ど陰口ともいえる辛辣な批評である。これらの記述は近年に至るまで様々な憶測や、ある種野次馬的な興味(紫式部が清少納言の才能に嫉妬していたのだ、など)を持って語られている。本人同士は年齢や宮仕えの年代も10年近く異なるため、実際に面識は無かったとされることが多いが、面識の有無を証する文献はない。定子没後の清少納言の動静については、夫の藤原棟世と摂津に赴いたことが『清少納言集』から知られるが、同時に一条天皇からの使いが来たことも記されている。角田文衛は、定子の遺児・媄子内親王、脩子内親王を養育するために再出仕し、そこで紫式部らとの接触があったと推定しているが根拠はない[51]。この清少納言評に関しては、『紫式部日記』の政治的性格を重視する視点から、清少納言の『枕草子』が故皇后・定子を追懐し、紫式部の主人である中宮・彰子の存在感を阻んでいることに苛立ったためとする解釈もある[52]。
なお紫式部の娘の大弐三位の子の高階為家と、清少納言の娘の上東門院小馬命婦の娘と関係があったことを示す歌が『後拾遺和歌集』908番に残されている。
為家朝臣、物言ひける女にかれがれに成りて後、みあれの日暮にはと言ひて、葵をおこせて侍ければ、娘に代はりて詠み侍りける 小馬命婦 その色の 草ともみえず 枯れにしを いかに言ひてか 今日はかくべき — 『後拾遺集』908番
紫式部学会とは昭和7年(1932年)6月4日に東京帝国大学文学部国文学科主任教授であった藤村作(会長)、東京帝国大学文学部国文学科教授であった久松潜一(副会長)、東京帝国大学文学部国文学研究室副手であった池田亀鑑(理事長)らによって、『源氏物語』に代表される古典文学の啓蒙を目的として設立された学会である。昭和39年(1964年)1月より事務局が神奈川県横浜市鶴見区にある鶴見大学文学部日本文学科研究室に置かれていた。現在は武蔵野書院、会長は藤原克巳が務めている。
講演会を実施したり『源氏物語』を題材にした演劇の上演を後援したりしているほか、以下の出版物を刊行している。
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