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日本の平安時代の貴族 ウィキペディアから
藤原 宣孝(ふじわら の のぶたか)は、平安時代中期の貴族。藤原北家高藤流、権中納言・藤原為輔の子。紫式部の夫。官位は正五位下・右衛門権佐。
『小右記』の天元5年(982年)正月3日条に左衛門尉として記載があるのが、宣孝が歴史に登場するはじめである。ついで同10日条には六位蔵人として登場する。
永観2年(984年)円融天皇から花山天皇への譲位にともない、宣孝はいったん六位蔵人を解任され、円融上皇の院判官代に転じた[1]が、まもなく六位蔵人に復帰している。同年の賀茂臨時祭で馬を牽く役目を命じられながら命に従わなかったとして天皇の不興を買い、譴責処分を受けている[2]。
寛和元年(985年)丹生都比売神社への奉幣使として派遣される途上、大和国内で地元民が宣孝の従者に暴力を振るったという事件が起きているが、詳細は不明である[3]。
正暦元年(990年)筑前守に任ぜられて任国に赴く。ついで大宰少弐を兼ね[4]、さらに従五位上に昇進している[5]。
帰京後、年月不明ながら右衛門権佐に任じられ、同時に検非違使に補せられている。長徳4年(998年)にはさらに山城守を兼ねる。娘の大弐三位の生年から推測して、紫式部と結婚したのはこのころと考えられる。また、権右中弁を経歴している[6]。また『尊卑分脈』には五位蔵人を経歴したとあるが、一方で弁官・五位蔵人・検非違使佐の3つの官職を同時に兼ねる、いわゆる三事兼帯にはならなかったとも記述されており、宣孝が五位蔵人であった時期は不明で、在職も他の史料では確かめられない。
長保3年(1001年)4月25日、死没。『紫式部集』には、紫式部が夫・宣孝の死を悼んで詠んだ歌「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」[注釈 1]が収められている。
『枕草子』「あはれなるもの」段(114段)に宣孝の逸話がある。正暦元年(990年)3月30日に御嶽(大和国金峯山)に参詣した折、「御嶽(本尊の蔵王権現)は『質素な服装で参詣せよ』などとはおっしゃらないだろう」と言って、長男の主殿助隆光とともに、派手な衣装で参詣し、周囲をあきれさせた。ところが、同年6月10日に急に筑前守が辞任し、その後任に任ぜられたことから、「あのとき宣孝が言ったとおりであった」と噂されたという。
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