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日本の国文学者 ウィキペディアから
池田 亀鑑(いけだ きかん、明治29年〈1896年〉12月9日 - 昭和31年〈1956年〉12月19日)は、日本の国文学者。平安文学専攻[1]で、特に『源氏物語』の研究(源氏学)で知られる。学位は文学博士。教鞭を執っていた東京大学にて1948年(昭和23年)、論文博士として、学位論文『古典の批判的処置に関する研究』により博士号を取得した。兼任で多くの学校で教壇に立った。
名前の読みについて、一般には「きかん」とされているが、「かめのり」とする資料もある[2]。
1896年(明治29年)、鳥取県日野郡福成村(現・日南町)で、宏文(父)と母・とら(母)の間に生まれる。1916年(大正5年)に鳥取師範学校を卒業し、溝口尋常高等小学校訓導。その後、上京して東京高等師範学校で学ぶ。1922年(大正11年)に同校を卒業し、女子学習院助教授となる。同年秋、東京帝国大学本科入学資格試験に合格し、在職1年で退職して同大学入学、1926年(大正15年)に同大学国文科卒業[3]。卒業後は同大学副手。1934年(昭和9年)に助教授に昇進。修齊女学院講師。太平洋戦争後の1948年(昭和23年)、東京帝国大学から改称された東京大学に『古典の批判的処置に関する研究』を提出して文学博士の学位を取得。1955年(昭和30年)、58歳でようやく教授となるが、翌1956年(昭和31年)に『源氏物語大成』全8巻(中央公論社)完結の直後に死去した。墓所は多磨霊園。
明治以降、屈指の業績を誇る源氏学者とされ、「近代源氏学の基礎を築いた最高権威」とも評された。
芳賀矢一がドイツから導入した文献学の方法を日本古典文学研究に敷衍し、『土佐日記』での紀貫之自筆本再建のプロセスを例として『古典の批判的処置に関する研究』全三巻(岩波書店、1941年2月)でその方法論を確立、さらに翌1942年(昭和17年)10月、十数年の歳月を傾けた畢生の大著『校異源氏物語」全5巻(中央公論社)を完成させる。ついで前著『校異源氏物語』に『索引篇』『解説篇』『資料篇』『図録篇』を増補し、これを1953年から3年かけて『源氏物語大成』全8巻として刊行し、有力伝本内の異文を比較検討して古典作品の原型(祖本本文の様態)を明らかにする、本文批判を軸とした文献学的研究の実践と理論体系化を図った。
1932年(昭和7年)、紫式部学会を藤村作会長とともに創設し、自身は理事長に就任。雑誌『むらさき』『藝苑』(ともに厳松堂書店刊行)の編集なども行う。
研究の過程で形成した古典籍などの約2000点のコレクションは、遺族から管理を任されていた東海大学が1973年(昭和48年)11月に一括して購入し、「桃園文庫(とうえんぶんこ)」として保存およびデジタル化されている[5]。
池田のかつての蔵書には、鎌倉時代末期に書かれたとみられる『源氏物語』の写本(通称「池田本」)があり、こちらは天理大学附属天理図書館が所蔵し、影印本を刊行している[6]。
古典文学の啓蒙にも積極的で、開局間もないJOAK(NHK)に、1930年(昭和5年)から大正大学教授としてラジオ出演した。戦後も古典文学講座で『枕草子』『源氏物語』を講じている[7]。
東京大学で池田が長く国文学科助教授でありながら教授に昇任しなかった事情について、国史学科教授であった坂本太郎が、当時の関係者全員の没後に背景を書き残している。それによると、国文学教授島津久基の死去後、その後任に久松潜一が古参の助教授であった池田を推したが、時枝誠記が「強硬な反対論をとなえ」、池田の提案で教養学部の麻生磯次が後任に招かれたのだという。結局、池田は久松の定年退職によってその後任となるまで教授に昇任できなかった[8]。
兼任で多くの学校に出講している[9]。
日本女子専門学校では1946年に兼任教授となり、昭和女子大学へ改組された1949年4月に日本文学科科長、1951年4月に評議員に就いた。
大正半ばから昭和初期にかけて小説を書いた。昭和2年(1927年)-昭和5年(1930年)には、義兄・岩下小葉が編集長を務めた実業之日本社に入社し、『少女の友』『日本少年』『婦人世界』等の雑誌に、池田芙蓉、青山桜洲、村岡筑水、北大路春房、闇野冥火、富士三郎、池村亀一の筆名で、少年少女小説を次々に発表していた時期があった。小説第一作は大正8年(1919年)で、池田亀鑑として「美しく悲しい安養尼のお話」上下を『少女の友』12巻8・9号に発表した。最終連載は東大副手最終年に当たる昭和8年(1933年)、青山桜州名義の「首のない若君」で、『日本少年』の27巻9号(1932年)から28巻11号(1933年)まで掲載された。
代表作は冒険活劇「馬賊の唄」で、池田芙蓉の筆名で『日本少年』20巻(1925年1月号~12月号)と21巻(1926年1月号)、1925年、1926年、以上前編(没後桃源社から刊行)、後篇は池田芙蓉・高畠華宵合作として連載(「日本少年」24巻2月号~12月号、25巻1月号~12月号、1929年、1930年)[10]。
古典文学研究の集大成として没後『池田亀鑑選集』全5巻(至文堂)が編纂された。
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