正倉院
奈良県奈良市にある校倉造りの高床倉庫 ウィキペディアから
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正倉院(しょうそういん)は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿の北北西に位置する、校倉造(あぜくらづくり)の大規模な正倉(高床倉庫)。聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平文化を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物で、1997年(平成9年)に国宝に指定され、翌1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
江戸時代までは朝廷の監督の下、東大寺によって管理されていた[1]。1875年(明治8年)、収蔵されていた宝物の重要性に鑑み、内務省の管理下に移った。1881年(明治14年)4月7日、農商務省の設置に伴い、内務省博物局が農商務省へ移管され、1884年(明治17年)5月に宮内省所管となった。1908年(明治41年)4月、正倉院は帝室博物館の主管となり、1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行により正倉院を含めて皇室用財産が国有財産になったことに伴い、宮内府図書寮の主管となった。現在は宮内庁の施設等機関である正倉院事務所が正倉院宝庫および正倉院宝物を管理している。
正倉院が所蔵する宝物の9割以上は異国風のデザインを取り入れた日本産であるが[2][3]、中国(唐)や西域、ペルシャなどからの輸入品もあることから、「正倉院がシルクロードの東の終着点」と言われる所以となっている[4]。正倉院は、絵画・書跡・金工・漆工・木工・刀剣・陶器・ガラス器・楽器・仮面などの古代の美術工芸の粋を集めた文化財の一大宝庫であり、奈良時代の日本を知るうえで貴重な史料である正倉院文書、東大寺大仏開眼法要に関わる歴史的な品や古代の薬品なども所蔵されている。
宝物の意匠や文様にはペルシャなど西アジア起源のものが多く、宝物に用いられている素材にもアフガニスタン特産のラピスラズリなどがあるが、西アジアで制作された宝物はガラス器(白瑠璃碗、紺瑠璃坏)を除くとほとんどなく、多くが日本で異国風を取り入れて制作されたものである[3]。近年の調査研究によると所蔵する宝物の95%が日本産であると考えられている[2]。
奈良時代の官庁や大寺院には多数の倉が並んでいたことが記録から知られる。「正倉」とは、元来「正税を収める倉」の意で、律令時代に各地から上納された米穀や調布などを保管するため、大蔵省をはじめとする役所に設けられたものだった。また、大寺にはそれぞれの寺領から納められた品や、寺の什器宝物などを収蔵する正倉があり、正倉のある一画を塀で囲ったものを「正倉院」と称した。南都七大寺にはそれぞれに正倉院が存在したが、歳月の経過で廃絶して東大寺正倉院内の正倉一棟だけが残ったため、「正倉院」は東大寺に所在する正倉院宝庫を指す固有名詞と化した。
なお、現代においては、「正倉院」は貴重な文化財の宝庫である事を指す比喩表現としても使われることがあり、例えば沖ノ島は「海の正倉院」[5]、高野山霊宝館は「山の正倉院」[6]、春日大社は「平安の正倉院」[7][8]、国宝の平城宮跡出土木簡は「地下の正倉院」と呼称されることがある[9]。
756年7月22日(天平勝宝8歳6月21日)、光明皇太后は夫である聖武太上天皇の七七忌に際して、天皇遺愛の品約650点、及び60種の薬物を東大寺の廬舎那仏(大仏)に奉献したのが始まりである。光明皇太后はその後も3度にわたって自身や聖武天皇ゆかりの品を大仏に奉献し、これらの献納品は正倉院に納められた。献納品目録である『東大寺献物帳』も正倉院に保管されている。献物帳は五巻からなり、それぞれ『国家珍宝帳』、『種々薬帳』、『屛風花氈等帳』、『大小王真跡帳』、『藤原公真跡屛風帳』と通称されている。
正倉院宝庫は、北倉(ほくそう)、中倉(ちゅうそう)、南倉(なんそう)に区分される。
北倉は主に聖武天皇・光明皇后ゆかりの品が収められ、中倉には東大寺の儀式関係品、文書記録、造東大寺司関係品などが収められていた。また、950年(天暦4年)、東大寺羂索院(けんざくいん)・双倉(ならびくら)が破損した際、そこに収められていた物品が正倉院南倉に移されている。南倉宝物には、仏具類のほか、東大寺大仏開眼会(かいげんえ)に使用された物品なども納められており、1185年(文治元年)の後白河法皇による大仏再興の開眼会に宝物の仏具類が用いられた。そのほか、長い年月の間には、修理などのために宝物が倉から取り出されることが度々あり、返納の際に違う倉に戻されたものなどがあって、宝物の所在場所はかなり移動している。上述のような倉ごとの品物の区分は明治以降、近代的な文化財調査が行われるようになってから再整理されたものである。
『献物帳』記載の品がそのまま現存しているわけではなく、武器類、薬物、書巻、楽器などは必要に応じて出蔵され、そのまま戻らなかった品も多い。刀剣類などは藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)の際に大量に持ち出され、「献物帳」記載の品とは別の刀剣が代わりに返納されている。また大仏開眼の際に聖武天皇・光明皇后が着用した冠など、何らかの事情で破損した宝物も存在するが、その破片が所蔵されている場合もある(礼服御冠残欠などの残欠)[10]。また、一部の唐櫃は鎌倉時代、江戸時代のものであり、宝物の中にも後世に追納されたものが多いという説がある[10]。
『国家珍宝帳』に記された献納品には後の時代に持ちだされたことを示す除物の付箋が付けられたものが7点(封箱、犀角蕆、陽宝劔、陰宝劔、横刀、黒作懸佩刀、挂甲)ある。このうち光明皇后が死去する半年前の760年1月(天平宝字3年12月)に出蔵された陽宝劔と陰宝劔は、献物帳にある大刀100口の筆頭に記されていたが、その後の行方は判明していなかった。1907年(明治40年)から翌年にかけて東大寺金堂(大仏殿)盧舎那仏須弥壇の周辺から大刀6口、水晶玉、挂甲残欠などが発見され「東大寺金堂鎮壇具」として国宝に指定されている。2010年(平成22年)に元興寺文化財研究所がこのうち金銀荘大刀2口のX線撮影をおこなったところ、刀身から「陽劔」「陰劔」の象嵌銘が発見され、国家珍宝帳に記されていた陽宝劔と陰宝劔であることが確認された[11]。専門家の間では光明皇后が国家の平安を願って埋納したものであると考えられている。陽宝劔と陰宝劔は東大寺ミュージアムに保管されている[12]。
正倉院の三倉のなかでも特に北倉は聖武天皇・光明皇后ゆかりの品を収めることから、早くから厳重な管理がなされていた。宝庫の扉の開封には勅使(天皇からの使い)が立ち会うことが必要とされていた。なお「勅封」という言葉は本来「天皇の署名入りの紙を鍵に巻きつけて施錠すること」を指す。正倉院宝庫がこの厳密な意味での「勅封」になったのは室町時代以降であるが、平安時代の各種文書記録にも正倉院を「勅封蔵」と表現しており、事実上の勅封であったと見なして差し支えないといわれる。平安時代中期には北・中・南の三倉とも勅封蔵と見なされていたが、東大寺の什器類を納めていた南倉のみは、後に勅封から綱封(東大寺別当らの寺僧組織が管理する)に改められた。1875年(明治8年)、正倉院全体が明治政府の管理下におかれてからは南倉も再び勅封となっている。
本節では正倉院の代表的な宝物について取り上げる[13]。
正倉院文書(しょうそういんもんじょ)は、正倉院に保管されてきた文書群で、光明皇后の皇后宮職から東大寺写経所に至る一連の写経所で作成された文書を中心とする。奈良時代に関する豊富な情報を含む史料である。
正倉院の構内にはもう1棟、小型の校倉造倉庫が建ち、「聖語蔵」(しょうごぞう)と呼ばれている。中に収められていたのは経巻類で、正倉院文書とは別の古代の仏教関係の書籍(経巻類)が保管されていた。もとは東大寺尊勝院の経蔵「聖語蔵」の一群である。隋経8部22巻・唐経30部221巻、天平経13部18巻、光明皇后発願の「天平十二年御願経」127部750巻、天平勝寶経4部5巻、天平神護経1部3巻、称徳天皇発願の「神護景雲二年御願経」171部742巻、さらに平安時代・鎌倉時代に至る古写経、古版経を含めて総計4960巻であった[21]。また、鎌倉時代の外典の写本も含まれている[22]この経巻類は1894年(明治27年)に皇室に献納され、校倉造倉庫も正倉院構内に移築された。現在は他の宝物と同様に宮内庁正倉院事務所が管理している。
正倉院聖語蔵経巻全巻のアーカイブ化プロジェクトも進められている[23]。
校倉造、屋根は寄棟造、瓦葺。規模は正面約33.1メートル、奥行約9.3メートル、床下の柱の高さ約2.5メートルである。
床下には10列×4列の柱を建て、その上に台輪(だいわ)と呼ぶ水平材を置く。この上に北倉と南倉は校木(あぜぎ)という断面三角形の材を20段重ねて壁体をつくり、校倉造とする。ただし、中倉のみは校倉造ではなく、柱と柱の間に厚板を落とし込んだ「板倉」で、構造が異なる。なぜ、中倉のみ構造が異なるのか、当初からこのような形式であったのかどうかについては、諸説ある。奈良時代の文書には、正倉院宝庫のことを「双倉」(そうそう、ならびくら)と称しているものがある。このことから、元来の正倉院は北側と南側の校倉部分のみが倉庫で、中倉にあたる中間部は、壁もなく床板も張らない吹き放しであったため「双倉」と呼ばれたとするのが通説だったが、年輪年代法を用いた鑑定により、当初より現在の形であった事が判明している[24]。
校倉の利点として、湿度の高い時には木材が膨張して外部の湿気が入るのを防ぎ、逆に外気が乾燥している時は木材が収縮して材と材の間に隙間ができて風を通すので、倉庫内の環境を一定に保ち、物の保存に役立ったという説があった。しかし、実際には、重い屋根の荷重がかかる校木が伸縮する余地はなく、この説は現在は否定されている[注 2]。実際壁面は中から見るとあちこちから外光が透けて見える「隙間だらけ」の状態であり、湿度の管理について言えば、宝物が良い状態で保管されたのは多重の箱に収められていたことで湿度の「急変」が避けられたことによる部分が大きい。 現存する奈良時代の倉庫としてはもっとも規模が大きく、また、奈良時代の「正倉」の実態を伝える唯一の遺構として、建築史的にもきわめて価値の高いものである。
校倉造の宝庫は長年、宝物を守ってきたが、1952年(昭和27年)に鉄筋コンクリート造の東宝庫、1962年(昭和37年)には同じく鉄筋コンクリート造の西宝庫が完成し、翌1963年(昭和38年)、宝物類はそちらへ移された。現在、宝物の大部分は西宝庫に収納、東宝庫には修理中の品や、西宝庫に収納スペースのない、大量の染織品が収納されている。現在、勅封はこの宝庫に施されている。
幾度も類焼の危機や盗難が起きている[26]。盗難は1039年(長暦3年)、1230年(寛喜2年)、1610年(慶長15年)の3度あり、そのすべてが働いていた僧侶によるもので、宝物の点検や建物の修理の後に盗み、すべて捕まっている[26]。
記録によれば、1031年(長元4年)、1079年(承暦3年)、1100年(康和2年)、1193年(建久4年)、1230年(寛喜2年)、1243年(寛元元年)から1246年(4年)、1254年(建長6年)、1603年(慶長8年)、1693年(元禄6年)、1833年(天保4年)から1836年(7年)、1877年(明治10年)に修理がおこなわれた[27]
1913年(大正2年)3月から12月にかけて解体修理が行われた[28]。
2010年(平成22年)8月31日に正倉院を管理する宮内庁は、1世紀ぶりに正倉院の施設整備工事を行うことを目指し、2011年(平成23年)度予算の概算要求で工事費として3億6,000万円を盛り込んだ[29]。改修は2011年(平成23年)9月1日より始まり、拝観停止となっていた。一部希望者は期間限定で工事見学が出来た[30]。2014年(平成26年)10月25日から公開が再開された[31][32]。
皇室用財産(宮内庁の各部局(長官官房、侍従職、書陵部、三の丸尚蔵館、京都事務所、正倉院事務所)が管理する国有財産)の一連の文化財は、「宮内庁による十分な「管理」が行われている」との宮内庁見解[33][34]にもとづき、文化財保護法による指定の対象外となっている。そのため、正倉院の建物や宝物も国宝・重要文化財等には一切指定されていなかった。しかし、「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産として登録されるにあたり、当該文化財が所在国の法律によって保護の対象となっていることが条件であることから[35]、正倉院の建物も、正倉院正倉として1997年(平成9年)5月19日、文化財保護法による国宝に指定された(国宝に指定されたのは不動産である宝庫の建物だけで、動産である宝物類は指定されていない)。
門外不出であった正倉院の原図をもとに、天然材を使って細部に渡って忠実に再現した木造建築「西の正倉院」が、計画5年、建築5年を経て1996年(平成8年)に宮崎県東臼杵郡美郷町に建設され、奈良の正倉院では見ることのできない内部構造を見学することができる(正倉院南倉に収められている唐花六花鏡と同じ銅鏡も展示している)[36]。
正倉院宝物は通常時、非公開である。1875年(明治8年)から1880年(明治13年)に、毎年開催された奈良博覧会の一環として、東大寺大仏殿回廊で、一部が一般に公開された。1889年(明治22年)から1940年(昭和15年)では、正倉院内の陳列棚を設けて、曝涼(宝物の「虫干し」のことで定期的に行われる)の際に限られた人々に拝観を許していた。また、外国の高官のため、特に開封することもあった(例、1922年イギリス皇太子拝観)[37]。
森鴎外は、晩年に帝室博物館総長兼図書頭に就任した後の1920年(大正9年)、曝涼の際に研究員による調査が行われるよう働きかけを行った[26]。
第二次世界大戦前の大規模な一般公開は、1940年(昭和15年)11月の皇紀2600年記念として東京帝室博物館で開催された正倉院御物特別展である(約140点)。11月6日から11月24日の間に41万4300余人が入場し、博物館の入場者数の記録を塗り替えた[38]。 戦後は、1946年(昭和21年)10月21日に初開催。33点の展観に入場者数15万人を記録した[39]。
染織品の展覧は、1924年(大正13年)4月に近隣の奈良公園内にある奈良帝室博物館で大規模な展示があり、さらに1932年(昭和7年)にも開催された[40]。第二次世界大戦後、1946年(昭和21年)に奈良帝室博物館で「正倉院御物特別拝観」として開催され、翌年以降、奈良帝室博物館から改称した奈良国立博物館で秋の2か月の曝涼にあわせて開催されるようになった。最初は「正倉院御物展」「正倉院展覧会」といった表記ゆれがあり、現在の「正倉院展」の名称が定着するのは1952年(昭和27年)頃からのようである。正倉院展は奈良で開催されなかった年もあるが、2018年(平成30年)に第70回を迎えた。
管理する宮内庁が整理済みの宝物だけで9000点に上るが、このうち正倉院展で公開される宝物の品目は毎年変更され約70点のみである[41]。よって代表的な宝物を見るには複数年の見学が必要になる。学芸員が手作業で点検と陳列を慎重に行うがそれに前後約40日の時間を必要とするため、開催期間は約2週間程度と短い。
毎年多くの見学者を集めているが、観覧者数が特に伸びたのは2001年(平成13年)以降である。2001年(平成13年)から主催機関である奈良国立博物館の独立行政法人化を契機に、外部から協力[注 3]を受ける開催方式となる。最初の4年間は朝日新聞社がその役割を担い、観覧者も前年より5万人ほど増加した。しかし、その後は低減し、独法化前と大差のない13〜14万台に戻り、2019年(令和元年)11月1日に累計観覧者数が1千万人を達成した[42]。2005年(平成17年)の第57回から協力主体が読売新聞社に移ると、読売関係各社を動員し、それまでにない多彩で大規模なメディア展開を実行する。近年の観覧者急増には、正倉院展自体に集中的に言及するメディア体制の出現が背景にあると言える[43]。
なお、帝室博物館の流れを汲む東京国立博物館に於いても5年に1回、正倉院展の時期に行われる展覧会で同院の収蔵物が展示される[44]。
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