横浜新都市センター
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横浜新都市センター株式会社(よこはましんとしセンター、英文社名Yokohama shintoshi center corporation.)は、そごう横浜店が入居する「横浜新都市ビル」及び横浜駅東口バスターミナル、横浜駅東口地下街「横浜ポルタ」、横浜駅東口地下駐車場を管理する第三セクター企業である。
本社があるヨコハマジャスト1号館(右)と、横浜駅東口地下駐車場 ポルタ側出入口(左下) | |
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 非上場 |
本社所在地 |
日本 〒220-0011 神奈川県横浜市西区高島二丁目12番6号 ヨコハマジャスト1号館 3階 |
設立 | 1980年12月20日 |
業種 | 不動産業 |
法人番号 | 8020001016333 |
事業内容 | 商業施設の管理・運営 |
代表者 | 取締役社長 小谷昌 |
資本金 | 72億円 |
売上高 |
91億2700万円 (2022年3月期)[1] |
営業利益 |
19億0600万円 (2022年3月期)[1] |
経常利益 |
20億0100万円 (2022年3月期)[1] |
純利益 |
13億0280万8000円 (2023年3月期)[2] |
総資産 |
574億3690万6000円 (2023年3月期)[2] |
決算期 | 3月末 |
主要株主 | 京浜急行電鉄・神奈川県・横浜市・三菱地所・崎陽軒・横浜銀行・横浜スカイビル・そごう・西武・三菱UFJ銀行 |
主要子会社 | 横浜新都市サービス株式会社 |
関係する人物 |
片桐典徳(初代社長) 平松一朗(元社長) |
外部リンク | https://www.yokohama-shintoshi.co.jp/ |
横浜新都市ビル | |
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横浜駅西口側から見た横浜新都市ビル | |
情報 | |
用途 | バスターミナル・駐車場・多目的ホール・公益施設・百貨店・物販店 |
設計者 | 三菱地所・石本建築事務所 |
施工 | 鹿島建設(幹事社)・大成建設・清水建設・大林組・竹中工務店・東急建設・不動建設・熊谷組・間組・フジタ建設工業・飛島建設・戸田建設・三井建設・大日本土木・三菱建設、馬淵建設・山岸建設・松尾工務店・奈良建設[3][4] |
建築主 | 横浜新都市センター・横浜スカイビル |
事業主体 | 横浜新都市センター |
管理運営 | 横浜新都市センター・横浜スカイビル |
構造形式 | 鉄骨鉄筋コンクリート構造 |
敷地面積 | 19,582 m² |
建築面積 | 15,365 m² |
延床面積 | 185,170 m² |
階数 | 地上10階、地下3階、棟屋2階 |
高さ | 55m |
エレベーター数 | 30台(乗用17台、非常用6台、人荷用2台、荷物用5台) |
駐車台数 | 121台(横浜駅東口地下駐車場 そごう側(認定分))、560台(そごうパーキング館)[5]、横浜ベイクォーター駐車場[6] |
着工 | 1983年10月8日 |
竣工 | 1985年9月26日 |
開館開所 | 1985年9月30日 |
所在地 |
〒220-8510 神奈川県横浜市西区高島二丁目18番1号 |
座標 | 北緯35度27分55.5秒 東経139度37分30.4秒 |
1960年代の横浜駅東口は、3代目横浜駅の開業当初からの表玄関であったことから権利関係が複雑な土地や公有地が多く、自然発生的な再開発が期待できなかった。その一方、西口は1950年代から相模鉄道によって開発が進められ、1960年代には一大繁華街として発展しており、東口は見劣りするようになっていた。そこで民間企業の横浜駅前振興株式会社(現 株式会社横浜スカイビル)によって、横浜駅東口の出島地区・東口地下街の開発が開始された。1968年(昭和43年)3月には初代スカイビルの落成、1967年(昭和42年)7月にはスカイプール[7]の開業にこぎつけたものの業績が伸び悩み、また横浜市警察庁舎跡地(現 横浜スカイビル)・横浜市営バス西営業所跡地(のちのスカイプール用地、現 横浜新都市ビル)の払い下げ価格が予想以上に嵩んだり、横浜市長が革新派の飛鳥田一雄に交代したことよる横浜駅東口総合計画の見直しなどの影響もあり、出島地区の北側・東口地下街の開発が困難になってしまった[8]。
そこで1971年(昭和46年)6月に横浜市全員協議会が「横浜駅東口総合計画」を策定し、横浜市の主導で横浜駅東口の開発が開始されることになった。10月には財団法人横浜駅東口開発公社が第三セクターで設立され、横浜駅東口開発公社が東口駅前広場・周辺道路・横浜ポルタ・横浜駅東口地下駐車場・出島地区[9](みなとみらい地区の68街区)・横浜駅東口バスターミナルの建設・運営を行うことになった。しかし、設立の1か月後に理事長の内山岩太郎(元 神奈川県知事)が死去したことによる内部体制の不備や、第三セクターという形態による出資者の当事者意識の不足。また財団法人という形態をとったため資本金1億円では資金が不足し、首都高速神奈川1号横羽線の建設決定による設計変更・第1次オイルショックの狂乱物価による建設費の高騰などの影響も加わり、出島地区の開発が困難になってしまった[10]。
なお、公社の設立当初は出島地区との一体開発により収益を上げる前提にしていた。そのため1980年(昭和55年)11月7日完成の地下街横浜ポルタ・横浜駅東口地下駐車場の運営だけでは事業の採算が取れず、公社の赤字が膨らみつづけたため、1988年(昭和63年)3月31日に解散。公社の事業は出島地区の開発・運営を行っている横浜新都市センターが継承し、元の計画に立ち返る形になった。
横浜駅東口開発公社の赤字が膨らんでこれ以上の開発が難しくなり、また市長が細郷道一(元 横浜駅東口開発公社理事長)に交代したこともあって、1978年(昭和53年)8月に横浜市全員協議会により「横浜駅東口総合計画」が変更され、出島地区の開発は民間にゆだねられることになった。1980年(昭和55年)12月に第三セクターで横浜新都市センター株式会社(資本金30億円)が設立され、京浜急行電鉄社長の片桐典徳を社長に迎え、当社が横浜新都心ビル・横浜駅東口バスターミナルの建設・運営を行うことになった。なお、1981年(昭和56年)7月に横浜市が「横浜市臨海部総合整備計画(みなとみらい21計画)」を発表し、出島地区の開発が正式に組み込まれることになった。
横浜駅東口開発公社の大失敗の反省から資金対策は手厚く、設立当初から資本金30億円が用意され、その後の増資も計画されており、また資本金にはできるだけ手を付けない方針で経営していた。また経営感覚をもたせるために社長は民間企業出身者とし、民間からの出向者の給与・役員報酬は出向元の負担とした。その後、経営が安定するようになってからは給与・役員報酬が払われるようになったが、社長に限っては無報酬で務めるという伝統が現在も続いている[11]。
出島地区の県有地に建てられていた横浜新興倶楽部については、建物を所有していた神奈川県匡済会との立ち退き交渉が難航し、1984年(昭和59年)3月には事前の合意を覆して神奈川県匡済会が「土地明け渡しを求める不動産仮処分」を裁判所に申請。控訴棄却を経て、8月17日には本訴に至ったが、1987年(昭和62年)8月12日に和解が成立し[12]、立ち退きが完了。また横浜スカイビルの大株主の交代(ジャパンライン→三菱地所)による所有地(スカイプール[13])売却交渉の白紙撤回と、横浜スカイビルが単独でのビル建設を主張して当社と対立するなどの問題もあったが、1983年(昭和58年)9月1日に出島地区の土地の所有割合(横浜新都市センター64.4%、横浜スカイビル35.6%)に応じて横浜スカイビルが横浜新都市センターに出資することと、横浜新都市ビルを横浜スカイビルと共同建築・共同所有とすることを条件に、土地を借り受けることで和解した[14][15]。
1983年(昭和58年)10月8日には横浜新都市ビルの起工式が行われ、11月には「横浜市臨海部総合整備計画(みなとみらい21計画)」も開始された。1985年(昭和60年)9月26日に竣工し、9月30日に開業した。開業後の経営は順調で、開業直後の1985年(昭和60年)度・1986年(昭和61年)度は一時的に当期純利益がマイナスになり、1989年(平成元年)度には解散した横浜駅東口開発公社の事業・債務を引き継いだため一時的に赤字になったものの、それ以降は安定して堅実な経営を続けている[16]。
そごう横浜店をキーテナントとする地上10階建て(高さ約55m)のビル。みなとみらい地区の68街区に該当し、横浜スカイビルと隣接している。当ビルの基本構想には総合プロデュースを担当していた浜野安宏とともに働いていた安藤忠雄が携わっており、横浜ベイクォーター側にある半円形のカーブは安藤の提案をもとに設計されたものである。この部分に非常階段が設置されている[18]。 またメインテナントのそごうの提案により、3階から上の部分の外壁には磁器タイルの凹凸でカモメが描かれ、光の加減によってカモメが浮かび上がって見えるようになっている[19]。 附置義務駐車場は、地下3階の「横浜駅東口地下駐車場」(認定は121台分)と、横浜ベイクォーター前の「そごうパーキング館」[20][5]、横浜ベイクォーター駐車場[6]。
出島地区は貯炭場や横浜新興倶楽部(旧 横浜社会館)があった埋め立て地でありお汁粉状の軟弱な地盤であったため、地盤改良のためにビルの高さよりも長い杭が多数打ち込まれている[5]。なお当ビルの設計当初は、海側の地下に国鉄横浜線の新駅を設置する計画があったため[21]、ポルタに直結する地下2階そごう正面入口前広場(新都市プラザ)の右側にエスカレーターと階段、その先に新駅予定地につながる連絡通路(現在は、はまみらいウォーク方面への連絡通路として転用)が用意されている[22]。
1998年9月19日から1999年1月17日まで、10月に38年ぶりにリーグ優勝を遂げることになる横浜ベイスターズの人気にあやかり、新都市プラザに「ハマの大魔神」佐々木主浩投手(当時)の右腕を型取りした像をご神体にした神社「ハマの大魔神社」を設置した[23]。全国からも観光客が訪れるほどの大盛況で、2度にわたって展示期間の延長を行った。その結果、東口全体で10億円以上の増収となった[24]。
横浜新都市ビル9階の市民フロアにある、平場の多目的ホール。またホール・楽屋とは別に、ミーティングルームが3室設置されている。講演会・説明会・進学就職イベント・コンサート・ファッションショー・上映会・展示会・バーゲンセール会場など、様々な目的で利用されている。
正式名称は横浜駅東口駅前第2交通広場。横浜駅きた東口から横浜新都市ビルの間、国道1号線の地下にあるタクシー乗り場。 横浜市が設置・管理する交通広場であり、横浜新都市ビルの施設ではない。乗降場所は横浜ポルタ側にある。
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