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かつて存在した日本のプロ野球球団 ウィキペディアから
松竹ロビンス(しょうちくロビンス、Shochiku Robins)は、1936年から1952年まで17年間活動した日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに加盟していた。
松竹ロビンス | |
---|---|
Shochiku Robins | |
会社名 | 松竹球団 |
創設 | 1936年 |
解散 | 1952年 |
ロゴデザイン | |
所属リーグ | |
セントラル・リーグ | |
歴代チーム名 | |
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本拠地 | |
衣笠球場(解散時) | |
収容人員 | 24,000人 |
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永久欠番 | |
なし | |
獲得タイトル | |
(0回) | |
リーグ優勝(1回) | |
球団組織 | |
オーナー | 田村駒治郎(解散時) |
運営母体 |
田村駒 (スポンサーは松竹) |
監督 | 新田恭一(解散時) |
1953年に旧・大洋ホエールズと対等合併し、大洋松竹ロビンスとなった。しかし、その翌年に合併時の親会社だった松竹が球団経営から撤退したため、実質的には大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)に吸収合併された形になり、それ以降は消滅球団の扱いを受けている。
始祖は1936年2月15日に結成された大東京軍(だいとうきょうぐん)。親会社は新愛知新聞社(現・中日新聞社)傘下の國民新聞社。新愛知主筆の田中斉が名古屋軍とともに独自で「大日本野球連盟」というプロリーグ結成を企画したもので、会社名は、株式会社大日本野球連盟・東京協会となったが、独自のリーグ構想は頓挫し、正力松太郎により構想された日本職業野球連盟へ名古屋軍とともに加盟した。球団の会長には元警視総監の宮田光雄が就任し、宮田の指名で元國民新聞記者の鈴木龍二が球団常務(代表)となった[注釈 1]。戦後も長くプロ野球界の要職を務めた鈴木がプロ野球と関わりを持ったのは、これがきっかけであった。
「新愛知」が実質的に二つの球団を保持したことで資金難で経営が苦しく、同年中に小西得郎の仲介で共同印刷専務の大橋松雄の手に渡った[1][2]。しかし大橋は財閥の息子で、印刷業以外に金を使うことに父親(大橋光吉。博文館の創業者大橋佐平の娘婿で、共同印刷の創業者[3])の目がうるさくなり、妻同士が姉妹だった大阪市で繊維商社の田村駒商店(1943年に田村駒に改称)を経営する田村駒治郎を経営に参加させた[1]。大橋は「大東京軍という名前では経営が成り立たないと、スポンサーとのタイアップを思い付き[1]、1937年8月に「ライオン歯磨本舗」の名前で営業をおこなっていた小林商店(現・ライオン)をスポンサーに迎えチーム名はライオン軍となった[4]。大橋は「大東京軍のスポンサー候補には積極的に新聞広告を入れている会社がいい」として、ライオン歯磨本舗以外に味の素・わかもと製薬・近江兄弟社を挙げていた。しかし「ユニフォームに『LION』と入れるだけでいい」と要求したライオン歯磨本舗以外は「ユニフォームに自社製品の名前を入れてほしい」と要求してきたため、スポンサーをライオン歯磨本舗に決めたという[1][5]。
大橋が親がかりでもあり、親の手前積極的に動けない、田村も二代目だが父親は亡くなっていて自由に金が使えるということもあって、同年秋季シーズン終了後に田村に譲渡しチームを大阪に移した[1]。田村はもともと野球好きで、訪米の際にメジャーリーグベースボールに接してそのオーナーが社会的尊敬を受けることに憧れを抱いたという[6]。
田村は田村駒の地元・関西の人気球団である大阪タイガースの向こうを張る意味でこの「ライオン軍」の名前を気に入っていた。しかし、1940年シーズン途中、球団名を日本語化する決定が理事会でなされ、改称を迫られる。ライオン軍はスポンサーの小林商店からかなりの資金援助を受けており(当時の選手の年俸の半分が小林商店からの資金援助で賄われた)、チーム名改称はスポンサー降板に繋がるため球団経営に支障をきたすおそれがあった[4]。各球団がシーズン途中ながら球団名を変更する中、ライオン軍は「ライオンは日本語である」と主張して名称を変えずに1940年のシーズンを終えた。結局、翌1941年より朝日軍(あさひぐん)に改称[注釈 2]。小林商店とのスポンサー契約は終了となった[4][注釈 3]。鈴木龍二は1941年のシーズン中に、連盟の理事長に就任したため、朝日軍を退いている。
田村がチームを引き受けてからはファンも増えて経営状態も以前よりはよくなったが、「それでも相当の持ちだしであった」と田村駒の社史には記されている[8]。
田村は戦争中、チームを奈良県御所市(当時は御所町)の傘下の軍需工場に疎開させ、工場長の橋本三郎[注釈 4] に預けていた[9]。しかし1945年の終戦後、田村から連絡がなかったという理由で、橋本は独断でチームを「ゴールドスター」として日本野球連盟に加盟を申請[10]、田村は強く反発するが鈴木龍二の説得を受けて了解[11]、改めてチーム作りを余儀なくされる。
翌1946年、球団名をパシフィックに変えてリーグに復帰[12](当時の会社名は朝日野球倶楽部)。愛称は太平(たいへい)で太平パシフィックとも呼ばれた(参照)[12]。翌1947年のニックネーム導入により太陽ロビンス(たいようロビンス)と改められる。「太陽」の由来は田村駒がかつて製販一体を目指して設立した子会社太陽レーヨンから[注釈 5]、「ロビンス」の由来は田村駒治郎オーナーの「駒」から「駒鳥=ロビン」の連想による[13]。さらに1948年、「野球は点を取らなアカン」「野球選手の太ったのはアカン」という田村の考えから「太陽」から点を取った大陽ロビンス(読み同じ)に球団名をマイナーチェンジ[14]。
1949年、京都新聞との提携により、京都に進出。この時「大陽京都ロビンス」[15]と名乗ったとされている。衣笠球場で41試合、舞鶴で4試合、福知山で2試合を開催[16]。この頃、田村は大阪市内に球場を持つ球団がないことに着目し、北区玉江橋近くの関西相撲協会の土地を買収して本拠地球場を建設する構想を企画する[17][18][注釈 6]。しかし、この案に対しては大阪タイガースや阪急ブレーブスからターミナルである梅田に近く、客を奪われるという反対の声があがった[17][18]。加えて南海ホークスが難波に球場を作る構想を打ち出し、阪神や阪急もこれを支持する[17][18]。日本野球連盟は双方の予定地を視察した後、南海の難波球場案を採用し、田村の玉江橋球場案は実現しなかった[17][18]。それでも田村は「もし南海が一年以内に球場を完成させなければ、自分の手で球場を作る」と主張。南海は8ヶ月の突貫工事で大阪球場を建設することになった[19]。
1949年、松竹に野球チームを作る気運が出てきて、大谷竹次郎が六代目尾上菊五郎や小西得郎に相談[1][20]。浜崎真二監督-水原茂助監督というプランでチームの結成を考えていたが、鈴木龍二が田村と松竹を結びつけて松竹ロビンスとなる[1][21][注釈 7]。2リーグ分裂に伴いセントラル・リーグに加盟した。1949年オフに、主砲の森下重好を、森下の法大野球部の先輩・藤田省三が初代監督に就任した近鉄パールスに放出した[注釈 8]。一方、チームの内紛から大映スターズを集団で退団した赤嶺昌志一派(小鶴誠・大岡虎雄・三村勲・金山次郎ら)を、赤嶺からの売り込みにより受け入れる[24]。田村が松竹との提携の条件とした小西の監督就任は、「まとめる監督は小西さんしかいない」という岩本義行(小西とは明治大学の後輩)の説得により実現する[1][25]。小西自身は監督就任を望んでおらず、浜崎の阪急ブレーブス監督続投が決まったため、不本意ながらもやむを得ず監督に就任したと記している[1]。一方中野晴行は、小西は就任に際して阪急フロントと不仲だった浜崎を助監督に起用することを望み、田村が浜崎(面識はあった)と面会して前向きな回答を得たが、移籍の話が漏洩して阪急からクレームが入り反故になったとしている[26]。
1950年、松竹ロビンスは改称1年目にしてセ・リーグの初代チャンピオンに輝く。エースはこの年39勝の真田重男(重蔵)、主砲小鶴誠は当時の日本新記録であるシーズン51本塁打を記録。チームとしても水爆打線と呼ばれた猛打を発揮した[27]。本拠地は京都市とされたが衣笠球場での開催は4試合にとどまった[16]。提携先の松竹は地方興行の際に地元の映画館で選手とファンの集いを開いた[28]。
しかし、この年の日本シリーズでは毎日オリオンズの前に2勝4敗で屈した(敗因は、真田と小鶴の対立に端を発したチーム内の内紛とする説[20]、リーグ戦での疲労による真田や小鶴の故障と練習不足とする説[29]とがある)。1951年、大阪球場にナイター設備が完成してからは事実上衣笠球場から球場を移転した[注釈 9]。この年、田村駒の経営悪化が表面化し、オフには真田重男、岩本義行、大島信雄らを放出する[30]。1952年のシーズンはチームの運営費も削減されることとなり、戦力は低下した[30]。
1952年の開幕前、リーグの代表者会議でシーズン勝率3割を切った球団には処罰を決めるという申し合わせがされていた[31][32]。この申し合わせは『年度連盟選手権実施要項』の22条に「(あるチームの勝率が3割に達しない場合は)当該球団に対するその後の処置は連盟会長の提案により理事長がこれを決定する」という形で明文化された[注釈 10]。その裏には、球団数が奇数で日程が組みにくいことから、下位の球団を整理する意図が含まれていた[31]。迎えた同年公式戦、ロビンスは34勝84敗、勝率.288でシーズンを終え勝率3割を下回った。このため、申し合わせの履行が焦点となる。「近鉄パールスに身売りする」という噂も流れる[33] 中、田村は11月17日にいったん来季の球団存続を表明[32]。11月20日のリーグ代表者会議で6位の広島カープから出た合併の申し入れは拒否したものの、田村駒が多額の負債を抱えていたこともあり、最終的に大洋ホエールズとの合併を受け入れる[32]。1953年1月11日に松竹と大洋漁業(現・マルハニチロ)の関係者による会談で対等合併で合意し、2月5日に両者間での合併が正式に発表された[32]。球団名は「大洋松竹ロビンス」となり、田村は球団経営から退いた[32]。「ロビンス」の名前が残ったのは田村の要望であったという[32]。なお、大映に対抗して球団経営に参画しただけの松竹は当初から野球に熱意がなく、1954年12月11日を以って球団経営から撤退し、球団名も大洋ホエールズに改称された。
松竹が球団経営から撤退した後は大洋漁業がそのまま単独で球団経営を継続したことに加え、合併時に順位・個人成績などの各種記録も大洋側のものを引き継いだことから[注釈 11]、松竹ロビンスと旧・大洋ホエールズの合併は完全な対等形式であったにもかかわらず実質的には大洋ホエールズに吸収合併された形となり、大東京軍 - 松竹ロビンスの系統は“消滅球団”として扱われることになってしまった。そのため、大洋松竹ロビンスおよび新・大洋ホエールズの後身にあたる横浜DeNAベイスターズの球団史において松竹ロビンスの結成年度や優勝回数およびその他記録は傍系扱いとされて通常は含まれず、横浜DeNA球団は初代セ・リーグ優勝球団の後身でありながら「初代セ・リーグ優勝チーム」と名乗ることができなくなっている。
新聞やテレビなどでは松竹ロビンスを(前身球団である大東京軍、ライオン軍、朝日軍、パシフィック、太陽ロビンス、大陽ロビンスの全ての時代を含めて)「現在の横浜DeNAベイスターズの前身」と表記・紹介することがしばしば見受けられる。松竹ロビンスは現在の横浜DeNAベイスターズを構成する合併球団の一つであり、なおかつ1953年の合併当時は正真正銘の対等合併であったので間違いではない。ただし、大洋ホエールズは1950年に松竹とは無関係に創立され、それから3年間はセ・リーグで松竹と大洋は並立していた。さらに前述のとおり横浜DeNAベイスターズ(および前身の新・大洋ホエールズ、横浜大洋ホエールズ、横浜ベイスターズ)の公式球団史では傍系前身という位置付けになっていることから、単に「前身」と紹介するのは誤解を招く表現とも言える。
1953年2月に新大阪ホテルで行われた松竹・大洋漁業合同での合併会見について、2月8日の京都新聞は「今回の合併は全面的に松竹側の敗北で、プロ野球界の惑星といわれた田村の発言力も、暫定的にロビンズのニックネームを遺したほどにしか過ぎないほど弱められた」と記述があるほか、松竹側が主導権が握れなかった要因に「本拠地をこれまでの実績から大阪球場にすること[注釈 12]」「小鶴誠らの松竹の主力選手が新球団=洋松に残留すること」を要望していたが、それが受け入れられなかったことなどを挙げており、事実上は大洋が吸収合併したような形に受け取られている[15]。
この節の加筆が望まれています。 |
※1942年はAクラスが本来なら4チームであるが、阪急軍と同率の4位であり、この年のAクラスは5チームである。
タイトル制定(1994年)以前の該当者。
タイトル制定以前の該当者。
※ 2001年で廃止され、翌年からは最優秀投手となった。
※太字は優勝達成監督
プロ野球のリーグ戦がスタートした1936年は大東京軍の首脳の間に専用球場[注釈 15] を持とうという考えがあり、東京市城東区洲崎にあった東京瓦斯の資材置場が候補となった。東京瓦斯にその旨を伝えたところ、「(当時社会人野球の強豪である)自チームと対戦してくれれば」という条件で承諾された。大東京軍にとっては開幕前のオープン戦4試合目。試合は8回まで7-6で大東京軍がリードしていたが、ここから9点を取られて逆転負け。球団理事の鈴木龍二は激怒し、その場で監督の永井武雄を解任した。公式戦で1試合も指揮を取らずに監督を辞任したのはこの時の永井と、1965年の蔭山和夫(南海ホークス・就任4日後に急死)、1976年のレオ・ドローチャー(太平洋クラブライオンズ・契約を結ぶも病気のため来日できず)の3人しかいない。大東京軍はこの試合の審判員だった小西得郎が11月に監督に就任するまで、内野手の伊藤勝三が監督を兼任した。なお永井は解任から2年後、日中戦争に従軍し戦死しており、鈴木は後の回想録の中でこの解任を悔やんだと言う。「監督」としては実際の職業野球の公式戦では指揮は執れずに終わったが、イーグルスで選手兼任監督のまま出征して戦死した寺内一隆と共に「鎮魂の碑」に名前が刻まれている。
完成した洲崎球場はその年の東京巨人軍と大阪タイガースの年度優勝決定戦の舞台となりその名を知られるようになったものの、海抜の低い埋立地であったため満潮になるとグラウンドに海水が入るという不具合が生じ、さらに翌1937年に後楽園球場が完成したこともあり、プロ野球開催は年々減少していった。
1946年5月に行われた4試合(5月20日・対セネタース戦、5月23日・対近畿グレートリング戦、5月24日・対阪急軍戦、5月26日・対近畿グレートリング戦。全て球場は西宮球場)がいずれも0-9敗戦の没収試合となり、5月20日の試合がその第1号となった。
これは当時の監督・藤本定義が、戦前既存球団でプレーしていた元東京巨人軍の白石敏男と元阪神軍の藤井勇の2名について、この年からパシフィックのメンバーとして登録させたが、これを巡っての調査中にもかかわらず同年5月の公式戦4試合に出場させたとして、当該4試合を没収試合(0-9の敗戦)扱いとさせられた(なお元東京巨人軍のヴィクトル・スタルヒンも調査対象となっていたが、当該4試合には出場していない)[41]。この4試合での白石と藤井の出場状況は以下の通りである。
このうち5月23日に阪急西宮球場で行われた近畿グレートリング戦は7-4でパシフィックが勝っていた試合の勝敗がひっくり返ってしまい、これが効いて近畿グレートリングは東京巨人軍に1ゲーム差をつけての初優勝を果たした(放棄・没収試合の場合には個人成績は残るものの、このケースのように勝敗がひっくり返った場合は勝利投手・敗戦投手の記録だけが抹消される)。放棄・没収試合を2回以上犯したのは他に大阪タイガース・阪神タイガース(1954年[この時は大阪タイガース]・1967年[この時は阪神タイガース])だけであるが、1年で複数回犯したのはこの時のパシフィックだけであった。
日本プロ野球における最大点差の逆転ゲームは10点差で過去に4度あるが、その第1号は1949年10月2日、京都衣笠球場での大映スターズとのダブルヘッダー第2試合で大陽が記録した。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | R | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
大映 | 1 | 0 | 9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10 |
大陽 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 4 | 3 | 1x | 11 |
この試合では初回に大岡虎雄のタイムリーで先制した大映が、3回には大陽先発・宮沢基一郎とリリーフ・江田貢一に集中打を浴びせ、10点をリードする。一方、大映先発のルーキー・小川善治は大陽打線を5回まで1安打に抑える好投を見せる。この試合の前に行われた第1試合でも大映が10-3と大勝しており、2試合続けて白けたゲームを見せられる羽目になったファンは「金返せ!」「監督代われ!」と大陽ナインに対し罵声を浴びせた。
しかし6回、木村勉のショートゴロを山田潔がエラー。このプレーが試合の流れを激変させる。この回藤井勇と岩本義行の連続二塁打で3点を返すと、続く7回には藤井が満塁本塁打を放って小川をKO。8回からリリーフに立った姫野好治も火が付いた大陽打線の勢いを止められず、四球と暴投で2点を失った後、藤井に左中間二塁打を打たれ、同点に追いつかれてしまう。最後は9回2死満塁の場面で大映3番手・木場巌が田川豊に痛恨の押し出し死球を与えてしまい、大陽が10点のビハインドをひっくり返して勝ってしまった。
この試合では藤井が3打数3安打7打点と大暴れ。また2番手投手の江田が投げては4回以降を6安打無失点で踏ん張り、打っては2安打と投打にわたる活躍を見せた。
大陽は翌1950年から球団名を「松竹ロビンス」とするが、ここで10点差逆転を再現してしまう。舞台は1951年5月19日、大分県立春日浦野球場での大洋ホエールズ戦。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | R | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
松竹 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 3 | 5 | 3 | 13 |
大洋 | 0 | 3 | 4 | 1 | 1 | 3 | 0 | 0 | 0 | 12 |
この試合では大洋が松竹先発・林茂と2番手・井筒研一に襲い掛かり、矢野純一と杉浦清が各2本塁打、さらに投手の高野裕良も本塁打を放ち、6回までに12-2とリードした。ところがこの大量リードで、大洋は疲れの見える高野の交代機を逃してしまう。2点差まで追い上げられた9回にようやく林直明に交代したが、「水爆打線」の異名を持つ松竹の重量打線を止めることができず、逆転負けを食らってしまった。
この試合では小鶴誠が2本塁打6打点と4番打者の働きを見せ、また3番手投手・小林恒夫が3ラン本塁打を放ち、勝利投手となった。
10点差逆転はその後、1997年8月24日に近鉄バファローズが対千葉ロッテマリーンズ戦(大阪ドーム)と、2017年7月26日に東京ヤクルトスワローズが対中日ドラゴンズ戦(神宮球場)で記録している。
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