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山岡荘八の歴史小説 ウィキペディアから
『徳川家康』(とくがわいえやす)は、山岡荘八が著した徳川家康を主人公とする歴史小説。1950年3月から北海道新聞で連載が始まり、1951年から中日新聞、神戸新聞などに拡大され、1967年4月まで続いた[1]。単行本は1953年11月に第1巻から5巻までが同時刊行され[2]、1967年に最終巻の第26巻が刊行された。ソフトカバー版、講談社文庫版、講談社の山岡荘八歴史文庫版などがある。1968年、第2回吉川英治文学賞を受賞。
1950年3月29日、「北海道新聞」が夕刊を再開。北海道新聞は山岡荘八に連載を依頼し、同日から『徳川家康』の連載が始まった[1][3]。執筆に当たり、柴田顕正の『岡崎市史別巻 徳川家康と其周圍』上中下巻(1934年-35年)が中心的な史料として使われた[4][注 1]。同年8月28日で一旦連載は終了し、1951年1月1日より再開。そのときに本作の連載は「中部日本新聞」「神戸新聞」などにも拡大された[1]。
連載開始から3年後の1953年、山岡は講談社の文芸課長の原田裕を自宅に呼び出し、自ら単行本の出版を持ちかけた。まだ作品を読んでいなかった原田は「徳川家康はマイナスイメージがあまりにも強すぎるし、ともかく長すぎて完結まで何巻になるのかわからない」と難色を示した。ところが「まあ読んでみて」と言われ、新聞の切り抜きを読み始めると止まらなくなり、社内各所に根回しをし、同年11月14日に3巻同時発売した[6]。
1962年、『週刊文春』3月26日号が「経営者はクビをきらなくなった―社長さんの虎の巻は、いまや『徳川家康』だ」と題した特集を組む。この記事が火をつけ、爆発的に売れ始めた[7]。さらに1963年4月に発売された『新刊展望』(日本出版販売)の臨時増刊号で、前通産大臣の佐藤栄作が「この本には、政治、軍略、経済から宗教にいたるまで、すべての問題が網羅されている」と持ち上げたことから[8][7]、まだ完結前であったが、日経連(経団連の前身)の経営者の間で必読の書のような扱い方をされた[6][9]。牛山善政、河合滋、市村清、奥村綱雄、坂井泰子[注 2]などの実業家のほか、東映フライヤーズ監督の水原茂、西鉄ライオンズ監督の中西太らも愛読した。その他の著名人では三橋美智也、倍賞千恵子、石井好子、升田幸三らが愛読者として知られる[8][9][10]。
1964年7月4日、本作を原作とするテレビドラマ『徳川家康』(NETテレビ)の放映が開始された。北大路欣也が家康を演じ、放送は1年半続いた。
1967年4月に単行本最終巻が刊行され、完結した[6]。
主人公の徳川家康の生母、於大の方の縁談から、家康逝去までの七十余年が描かれている。完成のために使用した原稿用紙は17,400枚に上る。ギネスブックにおいて、マルセル・プルースト著『失われた時を求めて』(1913-1927年出版、フランス語原書3000ページ、日本語訳400字詰め原稿用紙10,000枚)やジュール・ロマン著『善意の人々』(1932-1946年出版、全27巻)と並び、「世界最長の小説」として認定されていたことがある[11][12][13]。
韓国では「大望」という題名で出版され、ベストセラーとなった。また中国でも2007年秋の刊行以来、全13巻計200万部を売るベストセラーになっており、2011年に第13巻の翻訳者岳遠坤が 第18回野間文芸翻訳賞を受賞した。
山岡は第二次世界大戦中、従軍作家として多くの特攻隊員を取材した経験があった。その際に触れた日本の存続や世界平和への祈りを胸に秘めて散っていった彼らの思いを、徳川家康の欲した「泰平」に重ね合わせて描こうとした。山岡は連載を終えた後書きを、自邸内に設けた特攻隊員を祀る「空中観音」小堂で書き記している。
弱い立場である女性も、平和のために男達に立ち向かう姿が描かれている。
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